(9)
***
本来であれば、宇晨はこれで精華楼を後にして、耀天府に戻る予定であった。
しかし宇晨は、階段を上がって三階へと向かう。羅緋から、一番上等の部屋に『彼』がいると聞いていた。
回廊を進み、一番奥の格子の薄紙から灯りが零れている扉を叩くと、すぐに声が返ってくる。
「どうぞ、黎捕吏」
こちらの来訪は見通されていたのだろう。いや、そもそも誘ってきたのはあちらの方だから当たり前か。
警戒しつつ室内に入ると、先ほど会ったばかりの貴公子が窓の桟に浅く腰掛け、手に持った酒杯を軽く掲げてみせた。
彼の背後にある窓の外はすっかり翳り、近隣の建物の回廊に下げられた提灯が薄闇を照らしている。
赤い光が浮かぶ幻想的な景色を背景に、白い衣の美しい貴公子が微笑む姿は現実離れしていて、宇晨は一瞬、自分がここに来た理由を忘れそうになった。
貴公子は微笑んだまま、軽く小首を傾げてこちらを見てくる。
「やあ。まさか、わざわざ来てくれるなんて。妓女達が、あなたは都でも随一の名捕吏だと褒めていたよ。私は田舎者ゆえ、ぜひとも都の面白い話を聞かせて頂きたいと思っていたところだ」
「……」
馬鹿げたことを、と宇晨は内心で悪態を付いた。
相手は見るからに、軽妙洒脱で世慣れた貴公子だ。名高い妓楼で美女の一人も侍らせず、自分のような面白みの欠片も無い捕吏を待つなんて、明らかにおかしい。
宇晨は部屋の中ほどまで進み、貴公子から距離を置いて尋ねる。
「貴殿の名は?」
「……白……白孤星だ」
窓の外を見やった貴公子は、悪戯っぽく笑んで答えた。
孤星――孤独な星。夜が明ける前、空に残された星を意味する名だ。
暮れた藍色の空には、ちょうど一番星が眩い光を放っているのが見える。これもある意味独りぼっちの星と言えよう。そして、窓から見える通りの向こうには『白河客桟』の看板が見えた。
(『白』『孤星』……偽名か?)
頭の隅で考えながら、名を聞いた手前、こちらも一応名乗る。
「私は耀天府の……」
「知っている、皆から聞いたよ。黎捕吏だろう? 黎宇晨……宇晨か。夜明けを意味する。いい名前だ」
貴公子、もとい孤星は意味ありげな笑みを浮かべて酒杯を呷った。そうして、空になった杯を手に、酒やつまみが並ぶ卓へと戻ってくる。
空の杯に酒を注ぐ孤星に、宇晨は表情を変えずに言う。
「白殿。悪いが貴殿の期待には沿えない。雅な話に縁がないゆえ」
「そう謙遜せずともいいじゃないか。私は雅なことにも俗なことにも興味がある。中でも怖い話が一番好きでね。そうそう、聞けば先ほどの部屋で、琵琶弾きの娘が亡くなったそうではないか。もしや彼女の幽鬼でも現れるか、はたまた琵琶の物悲しい音色が聞こえるかと思ったら、黎捕吏がいた。ふふ、何と面白い」
「ふざけるな。人の死を笑う者に話すことはない」
宇晨が声を険しくすれば、孤星は軽く肩を竦めてみせる。
「誤解しないでほしいな。死者を甚振る趣味は無いよ。私はここで君に出会えたことを面白いと思ったんだ。君が私と同じ事件を追っているとは、何とも不思議な縁を感じるじゃないか」
「……」
孤星の言う『事件』は、首無し遺体のことか。それとも柳燕のことか。
宇晨は警戒して腰の鉄尺に手を掛けながら問う。
「白殿はなぜ事件を調べている? 耀天府の者ではないな。……軍人か、枢密使か?」
枢密使は、国王直属の調査機関『枢密院』の要員だ。
まさか首無し遺体や柳燕に、何か秘密があるというのだろうか。そうなると耀天府で事件が扱えなくなるかもしれない……と宇晨が思考を巡らせる中、孤星はきょとんと目を丸くする。そうして、心底可笑しそうに笑い出した。
「あはははは! 私が軍人? 枢密使だって? 何だい、君、堅物だと聞いたけど、ちゃんと冗談も言えるじゃないか!」
「なっ……」
ひとしきり笑った後、孤星は目元に滲んだ涙を拭った。笑い過ぎて火照ったらしく、まだ笑みが残る顔を白い扇で扇ぐ。
「ああ、笑った笑った。こんなに笑ったのは百年くらい振りだよ」
「……は?」
百年、と馬鹿げた数字が出てきて、宇晨は思わず気の抜けた声を上げてしまった。
からかわれたのかと思いきや、孤星は真面目な口調になって言葉を続ける。
「私は、どの国にも、誰の下にも、属していない。……ああ、少し前までは泰山に属していたかな。ちょっと東岳大帝にお叱りを受けて、下界に降りないといけなくなってね」
「……」
「黎捕吏、奇怪な死体の事件を追っているのだろう? 仙人である私が協力してあげよう」
にっこりと微笑んだ孤星に、宇晨は鈍い頭痛を覚えた。




