(8)
まったく気配を感じられなかった。
死者へ意識を向けていたせいもあったが、こんなに近づかれるまで気づけないとは。
宇晨は腰帯に下げた鉄尺に手をかけ、立ち上がりざま素早く振り返る。だが、そこが牀榻のすぐ横であったことを失念していた。引いた足の膝が牀榻にぶつかり、体勢を崩す。
「っ……」
「おっと」
倒れかかった宇晨の腕を大きな手が掴む。白い大きな袖がふわりとはためいた。
宇晨が倒れるのを防いだのは、美しい貴公子だった。
透き通るような白い肌に、まっすぐに通った鼻筋。知的な切れ長の目は星のように輝き、薄紅の唇は花が綻ぶような笑みを作る。身に纏うのは丸襟の袍衫ではなく古風な深衣で、白地に銀糸の刺繍が施された上品なものだ。艶やかな長い髪の上半分を結い上げて玉の簪を付けた垂髪姿は、俗世から離れた風流人のようにも見えた。
すらりと細身に見えるが意外と力は強く、貴公子は片手で宇晨の身体を支えたまま尋ねてくる。
「大丈夫かい?」
「……ああ」
宇晨は体勢を立て直し、掴まれた腕を振りほどくように後ろに引いた。
案外あっさりと手は外れたが、貴公子はその場から動かない。宇晨の背後には牀榻があって距離を取ることもできず、どこか追い詰められたような心地になる。
宇晨も背は高い方だが、貴公子はさらに拳一つ分は高く、立っているだけで妙な威圧感があったのだ。
宇晨はざわざわと警戒する心を押さえつけ、彼を見上げた。
己の吊り目はこういう時に役に立つもので、きつく睨み上げれば、貴公子は「ああ、すまない」と両手を上げて一歩後ろに下がる。
「驚かせてすまなかった。封じられていた部屋が開いていたから、興味を引かれてね。気になるとついつい踏み込んでしまうのは、私の悪い癖だ」
おどけた口調で謝ってくる貴公子の声には聞き覚えがあった。精華楼に入ってきた時に、妓女達の声の合間に聞こえたものだ。
なるほど、どうやら好奇心旺盛な御仁らしい――が。
「……何者だ?」
気配を感じさせずに背後に立ち、しかも捕吏の装束を着た宇晨に臆しない、泰然とした態度が引っかかる。
尋ねる宇晨に、貴公子は目をゆっくりと細めた。口角を上げた赤い唇を開きかけた時、扉の向こうに羅緋が姿を見せる。
「黎捕吏、掃除をした下女を連れて参りました……あら」
宇晨以外の者がいることに気づいた羅緋は、すぐににこやかな女将の顔になって取り繕う。
「まあ、若君。酔われて部屋を間違われましたか? すぐにお部屋に案内させましょう」
「いや、結構。こちらの妓楼は捕吏も通われるほどの人気ぶりなのだな。ますます面白い。今宵は存分に楽しむことにしよう」
「お気に召したのなら幸いですわ」
ほほ、と羅緋は笑いながら腕を伸べ、貴公子をさりげなく部屋の外へ促した。
彼もまた引き際を心得ているようで、片手に持っていた白い扇を広げ、ゆったりと仰ぎながら扉へ向かう。
部屋から出る寸前、貴公子の切れ長の目がすっと宇晨に向けられる。
「それでは、また」
「……」
宇晨は黙ったまま彼を見送った。
もう一つ、調べることが増えたと思いながら――。
柳燕の部屋を最後に掃除したのは、彼女の遺体を発見した下女であった。
名を柳羽といい、まだ十三、四歳くらいの幼さを残す娘だ。柳燕の身の回りの世話をしており、生前ずいぶんと可愛がってもらっていたそうだ。
背は高いが、肉付きが薄く地味な風貌の娘は、細い指先を不安げに組みながら目線を彷徨わせていた。
「……燕姐さんの琵琶は、たしかにそこに置きました」
「誰か琵琶を欲しがっていたり、持って行ったりするような者に心当たりは?」
「いいえ……」
「では、柳燕に恨みを持ち、琵琶を盗むような者は?」
「そんな、燕姐さんを恨む人なんていません! あたし達みたいな下の者にも優しくて、文字も琵琶も教えてくれて……!」
柳羽は眉を吊り上げて声を荒げた。
羅緋の窘める目線にすぐに我に返ったようだが、柳羽は口惜しげに唇を引き結び、燃えるような目つきで宇晨を見てくる。
気まずく硬い空気が流れる中、羅緋が素早く頭を下げた。
「申し訳ございません、黎捕吏。礼儀がなっておらず……」
「いや。柳燕はずいぶん慕われていたのだな。……柳羽。柳燕が自害した理由に心当たりはあるか?」
「……いいえ」
宇晨を睨んでいた柳羽の目が揺れて、逸らされた。そのまま黙り込んでしまった柳羽に代わり、羅緋が尋ねてくる。
「黎捕吏。なぜそのようなことを? 柳燕の事といい、琵琶といい、そちらの事件と何か関係あるのですか?」
「分からないから調べている」
それだけしか今は答えられない。宇晨の端的な答えに、羅緋は諦めの嘆息を零した後、気を取り直すように言う。
「では、琵琶はこちらでも探してみます。見つかったらご連絡いたしますわ」
「ああ、頼む」
これで話は終わりというように、羅緋は柳羽を連れて扉に向かう。宇晨も彼女達の後ろについて部屋を出ようとすると、柳羽がぼそりと呟いた。
「……姐さんの時は調べてくれなかったくせに」
押し殺した小さな声は、羅緋には聞こえなかったようだ。去っていく娘の細い肩を見送りながら、宇晨はそれ以上問い質すことはせずに部屋の外に出た。




