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「自分が情けない。妖しい術を使われたことにも気づかず、利用され、皆を巻き込んだとは……将軍の名折れだ」

「仕方ありませんよ。術を掛けられたことに普通の者は気づけません。たとえ将軍でも、皇帝でも、それに捕吏でもね。仙であるこの私だったからこそ、見破れたのですよ」


 わざとらしく自慢げに言うのは、李希文を宥めるためだろう。それに気づいた宇晨もまた、孤星の言葉に乗るようにふんと鼻を鳴らして言う。


「仙人だと言うなら、そのくらいできて当然だろう。多少は役に立ってもらわないとな」

「あっ、またそうやって憎まれ口を叩く! この家の家事を誰がしていると思っているんだい。せっかく君の好きな菓子まで作ったというのに……」


 孤星が卓の端に置いていた盆の上には、綺麗にかたどられた蒸し菓子が並んでいた。どこまでも器用な仙である。


「お前は本当に仙人か? 料理人になった方が良さそうだな」


 感心半分呆れ半分に言いつつ、宇晨は手を伸ばして菓子を取ろうとするが、孤星はすかさず盆を引いてそれを躱す。


「まったく、客人より先に手を出すなんて食い意地の張った子だ。さあ李殿、お一つどうぞ」

「……」


 二人のやり取りに李希文は呆気に取られていたが、やがてふっと表情を緩める。


「ありがとう、頂こう。……これは、何か仙薬なるものが入っているのだろうか?」


 先ほどの茶のことを思い出しのか、躊躇いつつも尋ねる李希文に、孤星は軽やかに笑った。


「大丈夫ですよ、李殿。これは緑豆の粉の生地に、豆と木の実の餡を入れた蒸し菓子です。……宇晨、李殿を見習った方が良い。警戒を怠って、何でも口に入れてはいけないよ」

「お前に警戒する必要はないだろう」


 宇晨が不思議そうに返すと、孤星はきょとんとした後、頭を軽く押さえた。

警戒心の強い猫が少し懐いたかと思ったら、いつの間にか隣にくっついて寝ていた――という心持ちを味わう孤星に、宇晨は眉を顰める。


「おい、どうしたんだ? まさかまた何かを……」

「いや、何もないよ。君もどうぞ」


 そう二人に勧めて、孤星は別に用意していた、明礬入りではない茶を差し出す。ほろっと崩れる蒸し菓子の中には甘い餡が入っており、茶によく合った。


「これは美味い。白殿は何でもできるのだな」

「これでも仙ですので。長く生きていると、いろいろと覚えるものですよ。偶に失敗もしますがね」


 くすりと微笑んで見せた孤星は、卓に置いていた紙人を手にした。

 目を眇めた孤星は、紙人に書かれた文字を眺めつつ言う。


「……李殿、この件は私が調べましょう」

「だが、白殿を巻き込むわけには……」

「これは私の役目なので、お気になさらず」

「ならば、私も共に調べよう」


 李希文は言うが、将軍を辞して景州で隠棲するはずの彼が都に残り、解決したはずの幽鬼事件を調べるとなれば一大事だ。孤星は首を横に振って「それはなりません」と言う。


「蛇の道は蛇と申します。ここは仙である私にお任せください。それに、調べるのは私一人ではありませんよ。ねえ、宇晨?」


 急に話を振られて眉を顰める宇晨に、孤星は言葉を続ける。


「君のお父上のことを知る者が関わっているのなら、放っておけるはずがない」

「……ああ」


 宇晨は頷いて李希文の方を向き、力強く拱手する。


「もし我が父のことが関係しているのなら、見過ごせません。私も解決に尽力いたしますので、どうかご安心下さい」

「……」


 まっすぐに見てくる宇晨の真摯な目は父親にそっくりで、李希文はやがて小さく頷いた。


「ああ、よろしく頼む。宇晨、白殿」


 そうして深く頭を下げたのだった。




 黎家を辞して帰る李希文を、宇晨と孤星は門前で見送った。

 李希文がこれから向かう景州には、宇晨の母と妹が親戚の家に身を寄せて暮らしている。二人の話をすると、李希文はいずれ彼女達にも会いに行くと言っていた。

 景州は温かく穏やかな気候の土地だ。厳しい土地で過ごしてきた李希文が、そこで少しでも心穏やかに過ごせたらいい。

 李希文の乗った馬車が遠ざかっていくのを見ながら、宇晨は孤星の名を呼ぶ。


「白孤星」

「何だい?」

「今回の『(しん)の脂』と、琵琶の事件の時に言っていた『蚕馬(さんば)の糸』は、お前が探していたものか?」


 かつて、孤星は言っていた。


『ある日、仙人は哀れな子供を見つけて助けた。子供は素晴らしい才能を持っており、彼を見込んだ仙人は泰山へ連れていき弟子としたが、成長した弟子は、泰山に収められていた数々の貴重な霊器を盗んで逃げた』


 ならば、柳羽(リウ・イー)に弦を渡した者と、李希文に蝋燭を渡して妖術をかけた者は――。


「お前の弟子が、関係しているのか?」


 宇晨の問いに応えず、孤星は袂から先ほどの紙人を取り出す。孤星の指先に力が籠ると、紙人がまるで生きているかのように震えた。


「私が教えていない術だ。気配はよく似ているがね。まったく、不出来な弟子を持つと師匠は苦労するものだよ」

「その弟子は何者だ? 何が目的で……」

「私にも分からない。だが――」


 言いかけた孤星の指先で、紙人に書かれた文字が赤く光ったかと思うと、ぼっと音を立てて燃える。


「孤星!」

「……」


 黒い灰となって宙に舞うそれらを見上げながら、孤星は目を眇めた。


「弟子の責任は、師匠が取らねばならぬ」


 その声は重々しく、真剣な響きがあった。笑みを消した孤星が扇を一振りすれば風が巻き起こって、黒い灰を白く変えて空に散らした。

 ふと、澄んだ水辺と深く濃い木々の香りが宇晨の鼻を掠めた。

 風になびく白い深衣と長い髪。静謐な眼差しで空を見上げる彼の横顔は美しく、若々しくも老成している。

 一瞬、孤星が幽谷に佇む仙人のように見えて、宇晨は目を瞬かせた。

 だが、風が止んだ時にそこにいたのは、いつもの孤星だ。扇を悠々と仰ぎつつ、「それにしても」と軽やかに言う。


「いやあ、君に目を付けて本当によかった。私の勘は捨てたものじゃないな」

「は?」

「人が良さそうだし勘も悪くなさそうだから試しに押しかけてみたが、大当たりだ。宇晨のお父上に関係があるのなら、今後も何かしら君の周りで奇妙なことが起こるかもしれない。……ということで、まだしばらくはここでお世話になるとしよう」


 言いながら、孤星は勝手知った様子で門をくぐって中に入ってしまう。門前に置いていかれた宇晨はしばし呆然としていたが、急いで孤星の後を追った。

 この奇怪な事件が父に関係しているのなら、宇晨はもちろん解決に尽力すると決めている。だが、奇妙な事件に、孤星と共に幾度も巻き込まれるのは勘弁したい。

 それに、孤星はいつまで家に居候するというのだ。たしかに彼のおかげで宇晨の日々の衣食住は良くなっている。それに誰かと一緒にご飯を食べる時間が楽しくはなっているが、それでも、彼に勝手に決められるのは癪だ。


「おい待て、白孤星! 勝手に決めるな、いつまで居座る気だ!!」


 青天の下。

 この十年静まり返っていた黎家に、宇晨の大きな声が響く。それは怒っていながらも、どこか少しだけ楽しそうにも聞こえた。




 第三話  鬼将軍  完




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