(22)
「白殿、ありがとう。貴殿のおかげだ」
改めて礼を言う李希文に、孤星は軽やかに笑う。
「お役に立てたなら何よりです。何せ、私が何もできなければ、また『役に立たない仙人』と罵られてしまうところでしたからね」
孤星がちらりと横目で見てきて、宇晨は顔を顰めた。
以前の大蛇退治の事を言っているのだ。だが、あの時は切羽詰まっていたし、孤星は『自分に任せろ』と大口を叩いておいて大した準備もしていなかったから責めたのだ。
とはいえ、今回の件は彼に感謝せねばなるまい。おかげで李希文も楊凌も咎めが行くことなく、宇晨も騒動を解決した褒美を与えられたのだから。
宇晨は渋々礼を言う。
「今回は、その……感謝する、白孤星」
「どういたしまして!」
「……」
会心の笑みを見せる孤星を、宇晨は一瞬殴り飛ばしたくなった。
それを察したかのように、孤星は空になった盆を盾のように構える。盆からそろりと覗かせる顔は、悪戯好きの子供そのものだ。自称仙人で齢五百歳は超えているくせに。
「白孤星!」
「おっと、腹を空かせているから機嫌が悪いのだろう、宇晨。すぐに茶菓子を持ってくるゆえ、大人しく待っていると良い」
「お前は……!」
宇晨が拳を握ると、孤星はひらひらと袖をたなびかせて厨へ引っ込んでしまう。
李希文の手前、宇晨は怒りを飲み込むように茶を呷った。馥郁たる香りの茶が美味いのが、また癪に障るというものだ。
もっとも、その怒りはすぐに呆れに代わり、何だかおかしくなって小さく吹き出してしまった。
中庭を抜ける風は冷たく、宇晨の火照った頬と頭を冷ましていく。誰もいない庭を、宇晨は眺めた。
――悔しいが、おかげで緊張が解れた。
宇晨は一つ息を吐いて口を開く。
「李殿。……お話しておきたいことがあります」
「何だ?」
「父を追い詰めたのは、陛下でも、宮城の者でも、他の誰でもありません。……私です」
「……」
李希文は無言で宇晨を見つめた。
この事を話そうと決めてはいたが、彼の顔を見ることはできず、宇晨は中庭に視線を向けたまま話を続ける。
「釈放されて家に戻ってきた父を、私は責めました。どうして逆賊の子を庇い、家族を窮地に追いやったのだと。父は謝りましたが、私はそれを聞きたくなかった。それからは、父と話すことも、顔を合わせることさえも避けました。父は向き合おうとしていたのに、私は何度も逃げて、ひどい言葉も言って……それからしばらくして、父は亡くなりました」
春の細やかな雨が降る中、中庭を囲むように幾つもの白い布が垂れ下がっていた。奥には黒い棺桶が置かれ、傍らでは白い喪服を身につけた母や妹が泣いていた。
線香の匂いが漂い、使用人達のすすり泣きが聞こえる中、宇晨は紙銭を炉の中で燃やし続けた。一晩中、火を絶やさずに死者を弔う役目は、長子である宇晨が行うものだ。
祖母や母からは無理をしないようにと言われたが、宇晨はただ無心で番をした。自分が泣いていたかは、覚えていない。ただ、胸に大きな穴が開いたような喪失感はあるのに、その穴を何か薄い膜が塞いでいるような息苦しさがあった。
それが後悔だと気づいたのは、しばらく経ってからだ。
父が亡くなり、そこにいないのだと、もう二度と会うことができないのだと分かってから、ようやく気付いた。
生きている間に父と向き合わなかったことを後悔し、父の思いも分からぬまま、今さらになって何か自分にできることはないかと必死に探した。
宇晨が母や妹と共に景州に行かず一人残ったのは、父がいた黎家を守ることで、後悔を少しでも減らそうとしたからだ。仕官できなくなったことも、心の奥底でどこか安堵していた。父を追い詰めた自分に、父のような軍人になる資格は無い。皇帝からの申し出を断ったのもそのためだった。
「父の幽鬼が現れたと聞き、私は恐れました。しかし、少し期待もしたのです。例え幽鬼であれ、父に会うことができるのだと思いました。そうしたら、私は……」
謝りたかった。
父の謝罪を受け入れずに、父を許さなかったことを。
父にひどいことを言って、追い詰めてしまったことを。
ずっと、後悔していた。
「私は……」
父を許して、父に許されたかったのだ――。
「……宇晨、もういい」
卓の上に置いていた宇晨の拳に、皺だらけの掌がそっと被さった。李希文のかさついた固い手が――父とよく似た手が、宇晨の拳をしっかりと握る。
「宇晨、そなたのせいではない。決してな。暁宇なら間違いなくそう言うだろう。それは、そなたが一番よく分かっているはずだ」
「……はい」
掠れた声で返す宇晨の手を握ったまま、李希文は中庭に視線をやる。痩けた頬の、日に焼けた肌に刻まれた傷がかすかに歪み、震えた。
「すまなかった。……本当に、すまなかった」
誰への謝罪かもわからぬそれは、二人の間を通り過ぎて、中庭へ消えていく。そうしてしばらくの間、二人はただ黙って中庭を見つめた。




