(21)
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夏州での長年の任を終えた李将軍は、皆から惜しまれながらも将軍職を辞すことになった。
酷使してきた心身を休めるため隠棲する……という理由だが、これが彼なりのけじめのつけ方なのだと、幽鬼騒動の真相を知る者には分かっていた。
来月には南にある景州へ向かう彼は、その準備で忙しい中、わざわざ黎家を訪ねてきた。
休みを取っていた宇晨は、「ようこそお越し下さいました」と彼を出迎える。
「いや、こちらこそ、仕事が忙しいだろうにすまなかったな。ただ、どうしても最後に一度、この家を訪ねたかったのだ」
「そんな……最後と言わず、いつでもお越し下さい。父も喜びます。私も、来て頂けたら嬉しいです」
「……そうだな。これからは時間があるのだった。景州もそう遠くはない。落ち着いた頃に、またこちらへ寄らせてもらいたいものだ」
穏やかに受け答えする李将軍……今はただの李希文となった彼の顔は、以前は厳しい風雪に晒される岩のような鋭さがあったが、今はその風は凪いで静けさだけが残っている。蝋で作られた固い仮面がすべて剥がれたようにも見えた。
宇晨に案内され、まずは祠堂で黎暁宇の位牌に参った後、中庭に降りた李希文は、ゆっくりと目を細める。
「……ああ、懐かしいな」
中庭を見つめる彼の脳裏には、かつてここで暁宇と手合わせした光景が過ぎっているのだろう。宇晨もまた、父親と手合わせする李希文の姿を思い出す。
せっかくだからと、宇晨は中庭がよく見える東屋で彼をもてなすことにした。そこにすかさず孤星がやってくる。彼の手には茶器の乗った盆があった。
「李殿、お茶をどうぞ」
「すまぬな。……まさか仙人殿に茶を淹れてもらうとは、かたじけない」
悪戯っぽく笑みを浮かべる李希文に、孤星は大げさに肩を竦めてみせた。
「宇晨に厨を使わせると悲惨な事になるので、私がするしかないのですよ」
「でたらめを言うな。俺だって湯くらいは沸かせる」
「そうは言うけれど、この間は竈の火が強すぎて鍋の一つを駄目にしただろう。お茶だって茶葉の量が多くて煮だし過ぎて、苦くて飲めたものじゃなかったよ」
「あ、あれは偶々……間違っただけだ!」
頬を赤くして声を上げる宇晨の傍らで、李希文はついにくつくつと笑い出した。
「孟開殿の言う通りだな。良い友ができたようで何よりだ」
「友ではありません」
間髪入れずに返す宇晨に、李希文はただ目元を和らげただけだ。そして孤星の方を見上げた後、深々と頭を下げた。
「仙人殿……いや、白殿。此度は誠に世話になった」
帝の前で行った『手合わせ』の一幕は、孤星が考えたことだった。
『どうせなら、皆の前で盛大に幽鬼を祓ってやろうではないか!』
その言葉通りに、李希文と暁宇の幽鬼が皆の前で勝負をする筋書きを立てた。
孤星の計画に乗ることになった宇晨は、芝居とはいえ歴戦の将軍と勝負をすることになり、内心ではかなり不安だった。しかも、一度も使ったことの無い、父の形見である剣を手にして戦うのだ。
それから三日の間、宇晨は李希文と密かに猛特訓をした。
普段、捕吏として鉄尺を使った捕縛術を使うことが多い宇晨は、久しぶりの剣術に勘を取り戻せるか心配していた。しかし、かつて父から教わった剣術は自分で思っていたよりも身についていたようだ。李希文の教え方も上手く、何とか形にすることができた。
また、広間で打ち合いをしている最中は、妙に身体が軽く感じた。孤星からは、幻術を使って宇晨に暁宇の姿を重ねるようにするとは聞いていたが、まるで本当に父の幽鬼が乗り移ったかのようだった。あるいは、父の形見の『黎明』が父の意を継ぐように、宇晨を導いてくれたのだろうか。
李希文もまた、宇晨と手合わせしているはずが、次第に暁宇を相手にしているような気がしてならなかった。練習よりもはるかに動きの良くなった宇晨に、後半では本気で打ち合っていたくらいだ。
幻術のはずの暁宇が向ける笑みに、李希文も自然と笑みを返していた。
『いやあ、まいった』
彼が消える寸前に見せた顔は、かつて、何度か手合わせした時に見せたものと同じで、思わず泣きそうになったものだ。
「……本当に、暁宇殿と手合わせしているかのようであったよ」
孤星が述べた『手合わせの約束』は、かつて実際に李希文が暁宇と交わしていたものだった。
西方の任務を無事に終えて戻ってきたら、黎家のこの庭でまた勝負をしよう、と。
十年以上も前の約束は、芝居だったとはいえ本当に果たされたのだ。




