(8)
こめかみは氷を押し当てられたように鳥肌が立っているのに、鳩尾にはぐらぐらと煮えたぎるような熱さがある。これは強い怒りを感じた時の感覚だ。
礼儀も何もかも頭の中から抜けて、宇晨は思わず声を上げる。
「父上はそのような人ではない‼」
「落ち着け、宇晨。私を含めた多くの者が、そう思っている」
激昂する宇晨の肩を、立ち上がった孟開が強く掴んだ。大きく固い掌から伝わる熱とかすかな痛みに、宇晨は震える唇から息を吐き出して、首を何度も横に振った。
「なぜ……そのような話が……」
「暁宇の件は、皆が知っていることだ。あいつの気性は分かっているが、同時に無念の死を遂げたことも分かっている。幽鬼となって現れてもおかしくはない」
「たとえ父上が幽鬼になったとしても、陛下を、いえ、誰かを呪い、苦しめるようなことをするはずがありません!」
「ああ。だが、呪いではなくとも、何か訴えたいことがあるのではないかと、そういう声も上がった」
孟開は宇晨の肩を宥めるように何度か叩き、長椅子に座らせる。
宇晨は膝の上で拳を握り、固く目を閉じた。身体の中で激しく渦巻く感情を抑える。
やがて、怒りと悔しさで眦を赤くしながらも孟開を見上げた。
「孟伯父、なぜここに来られたのですか。父上の話をするためですか?」
「……陛下が倒れた後、ある者から提言があったのだ。幽鬼が本当に暁宇なのか、もし暁宇ならばなぜ現れたのかを調べればよいと。そして、その調査を……宇晨、お前にさせればよいのでは、とな」
「な……」
自分の名が急に出てきて、宇晨は目を見張る。
「なぜ俺に?」
「息子であるお前ならば、暁宇のことを一番分かっているだろうからと。……それから、お前が近頃立て続けに奇怪な事件を解決していること、そして仙人を名乗る男が側にいて、解決に協力したことも知られていた」
「いったい誰が……」
「……第四皇子の楊凌殿下だ」
楊凌は、宇晨も良く知る人物だ。
かつて宇晨が宮中に出入りしていた時、数人の皇子達と交友があった。その中の一人、第四皇子である楊凌とは一番年が近かったこともあってか、共に学問を学んだり、武芸の稽古をしたりと、彼の学友として過ごした時期があった。男兄弟のいなかった宇晨は、二つ年上の彼を兄のように慕ったものだ。
暁宇の事件の後は、当然、宇晨は宮中に出入りすることは無くなった。楊凌との交友もそれきりだと思ったが、彼は暁宇の葬儀からしばらく経った後、密かに黎家を訪れ、その死を共に悼んでくれた。年に数度は進物を送ってくれたり、時折文のやり取りをしたり、黎家にお忍びで訪れたりすることもあった。
だが、この数か月は宇晨も忙しくて連絡を取っておらず、耀天府での事件のことはもちろん、孤星のことも彼に話してはいない。
「……なぜ、殿下が知っているのですか?」
「それは分からん。だが、殿下の提言に、その場にいた他の者達も賛同した。それでお前を宮城に連れてくるよう、勅命を受けたのだ」
「……」
突然のことに、宇晨は困惑するばかりだ。
宮中に父の幽鬼が現れて、それを息子である自分が調べる。……いったい何の因果だろうか。だが、勅命を断ることができないことも分かっていた。
宇晨は深呼吸して息を整えて、顔を上げた。立ち上がり、孟開に向かって拱手する。
「ご命令、承りました。この黎宇晨、解決に尽力いたします」
顔色は悪いものの力強い声で答えた宇晨に、孟開は太い眉を申し訳なさげに下げた。
「……すまない、宇晨。明日の申の刻(午後四時)に、私と共に宮城へ行くことになっている。その際、白孤星も連れてくるようにとのことだ」
「白孤星もですか?」
突然彼の名が出てきて、宇晨は驚く。なぜ彼も、と宇晨が尋ねる前に、孟開は書室の扉へ視線を向けた。
「ああ。……白殿、構わんだろうか?」
孟開の言葉に宇晨がはっとそちらを見ると、扉が開いて、茶器の乗った盆を手にした孤星が入ってくる。孟開はぎょろりとした目で彼を睨んだ。
「立ち聞きとは感心せんな」
「これは失礼をいたしました。お茶を持ってきたのですが、込み入ったお話をされているようで入るに入れず」
普通の者ならば身を竦める閻魔のごとき孟開の睨みにも孤星はすまし顔で、小さな卓に茶器と杯を置く。孤星の飄々とした態度に、孟開の顰め面から零れたのは苦笑だった。
「……なるほど、面白い御仁だ。して、先ほどの返事は?」
「是非とも、お受けいたしましょう。微力ではございますが、我が朋友である黎捕吏の力になれれば」




