(5)
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食事を終えた宇晨は祠堂に向かった。前回の休みの折に、祠堂の窓枠の一部が壊れているのを見つけていたからだ。
休みの日は邸の管理を行うのが日課で、普段は掃除できない所や修繕が必要な個所を調べては直す、の繰り返しだ。
もっとも今日は少し様子が違う。居候中の孤星により、手入れできていなかった裏庭はいつの間にか草が刈られてすっきりとしていたし、使っていなかった風呂場も綺麗に掃除されていたのだ。
週に一度、かつて黎家の使用人だった陸という老翁が、食料を配達するついでに邸内を掃除してくれていたが、住人が一人増えるだけでこれほど違うものかと宇晨は感心した。
祠堂の窓枠の修繕をし終えた後は、いつもはできない隅々まで掃除をする。先祖代々の位牌が並ぶ中、父である暁宇の名が書かれた位牌の前には一振りの剣が置かれていた。
父の形見であるそれを宇晨はしばらく見つめた後、手に取る。
鞘から少し引き出せば、銀色の刃の根元に彫られた『黎明』という銘が見えた。剣の柄には美しい白い玉が嵌め込まれている。かつて西戎との大戦で使われ、先帝から名を賜った剣だ。
父の死後、一度も使われることなく鞘に納められた長剣は定期的に手入れをしている。そのまま置いておけば、刃が錆びて使えなくなってしまうからだ。もっとも手入れをしたところで、今後誰にも使われることはないだろうが――。
手入れは次の休みの日にしようと、剣を置いて祠堂を出た宇晨に、ちょうど孤星が向かってきて声を掛ける。
「宇晨、お客様が来ているよ。曹寧という女性だ」
「え?」
宇晨はぎょっとして、急いで門に向かった。
開いた門扉の外に立っているのは、見覚えのある女性だ。三十歳後半くらいのふくよかな女性で、優しげな顔立ちをした彼女はにこりと微笑む。
「お久しゅうございます、若様。元気にしておられましたか?」
「寧姐……」
曹寧はかつて黎家で働いていた使用人だ。幼い頃から面倒を見てもらった宇晨は彼女によく懐き、年の離れた姉のように慕っていた。
曹寧はゆっくりと一礼した後、持っていた団扇で口元を隠しながら、後ろにある馬車に目線をやってみせた。その中に誰がいるかなど、中を覗かずとも分かる。
「大奥様がお越しです。若様にお会いになりたいと」
「……」
宇晨は一瞬血の気を引かせた後、表情を引き締めて頷いた。
馬車から降りてきたのは、一人の老婦人だ。
白髪を綺麗に結い上げ、華美ではないが上品な着物を纏っていた。背筋をぴんと伸ばし、曹寧の手を取って門までやってきた彼女に、宇晨は拱手の礼をする。
「お久しぶりです、お祖母様。わざわざお越しいただき……」
「宇晨。月に一度、林府に顔を出すように言っておいたはずですよ」
宇晨の父方の祖母である林芳は、ぴしゃりとした口調で言葉を遮った。
鋭い眼差しで睨まれ、宇晨は身を竦ませる。彼女のきりりと吊り上がった強い目は、息子の暁宇、そして孫の宇晨へと引き継がれたものだ。
「申し訳ありません。仕事が――」
「忙しいというのは言い訳になりません。己が休む時間を作るのも仕事のうちです。耀天府に入ってもう十年も経つのよ。孟開から、お前が班長になったと聞きましたが、まさか部下にまで休みを取らせていないわけではないでしょうね? そもそも約束を守らないとは、いったいどういう了見で……」
宇晨は黙って頭を垂れるのみだ。口答えを一つでもすれば、十倍以上になって返ってくるのは身に染みて分かっている。
黙ったまま林芳の説教を受ける宇晨に助け舟を出したのは、いつの間にか背後に現れた孤星だった。
「宇晨。まずは祖母君に中に入ってもらってはどうだろうか? 今日は少し風が冷たい。女人を外に立たせておくべきではないよ」
「……」
いきなり現れた第三者に、さすがに林芳も言葉を止める。大きな目でまじまじと孤星を見上げた後、宇晨を見やった。
「宇晨、こちらの方は?」
「あ……」
「初めまして、奥様。私は白孤星と申します。斉州で医生をしており、より優れた医術を修めるため都へ参りました。しかし都に着いて間もなく財嚢を盗まれ、行き先も無く困っていたところを黎殿に助けられました。御恩を返すため、こちらの邸の手伝いをしております」
孤星がさらりと答えると、林芳の傍らにいた曹寧が追随するように頷いた。
「この方の言う通りですよ、大奥様。寒さはお身体に障ります。まずは邸に入りましょう。説教はそれからでもよいじゃありませんか」
「説教ではありません。未熟者を諭しているだけです」
「まあまあ。大奥様、せっかく若様がお好きな菓子もたくさん買ってきたのですから」
にこにこと言う曹寧の手には、三段の大きな提げ重箱がある。
宇晨が思わず林芳の顔を見やると、彼女は眉間に深い皺を寄せながら「手土産に持ってきたまでです」と素っ気無く言った。
その間に、孤星がすかさず曹寧の手から提げ重箱を受け取って、慣れたように主屋へと案内する。主屋の客間は幸いなことに孤星によって綺麗に掃除されていたので、林芳もそれ以上説教はしなかった。
古い紫檀の丸卓の上に広げられた重箱の中身は、確かに宇晨の好物である菓子ばかりだ。孤星と曹寧はなぜか息が合い、「お茶を淹れてこよう」「私も手伝います」と示し合わせたかのように出て行ってしまった。




