(4)
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「っ!」
はっと目を開いた時、すでに窓の外は明るくなっていた。
宇晨は牀榻の上で、震える息を吐き出す。しばらく動かずに呼吸を落ち着かせていると、こめかみや首に滲んだ汗が朝の清澄な空気で冷やされて寒さを覚えた。その冷たさは、今しがた見た夢の残滓と頭の奥の芯に残る鈍い頭痛を追いやってくれる。
「……」
宇晨は大きく息を吐き出して、ゆっくりと起き上がった。
休日とはいえ、日が昇った後に起きるとは何という体たらくだ。ここ最近、奇妙な事件に関わって、常と異なる捜査や報告書に追われ、翌日が休日だからと寝る前に少しだけ酒を飲んだのが悪かったか。
これではいけないと牀榻を降り、宇晨は普段よりも少し長く運動し、汗をかいたところで盥の水で顔を洗う。さっぱりとして、ようやく目が覚めた気分になった。
髪を軽くまとめて垂髪にし、簡素な丸襟の袍を身につけ、手早く身支度を整える。奥の祠堂に向かい、軽く掃除して拝礼した後に中庭に出ると、いつもと様子が違っていた。
庭を掃いた跡があり、隅には落ち葉の山と箒が置かれている。さらに、使っていなかった厨の窓が大きく開かれて、温かな湯気と懐かしい匂いが流れてきた。
「――宇晨、起きたのかい?」
厨から顔を出したのは白孤星だった。紐を胴体に斜めがけにして深衣の袖を押さえ、長い髪を邪魔にならないよう後ろで軽く結わえた格好をしている。
美麗な貴公子のどこか所帯じみた格好に、宇晨は目を見張った。
「……何をしている?」
「え? 朝食を作っているけれど」
孤星は首を傾げて、何を当たり前のことをと不思議そうに答える。
宇晨が厨に入ると、孤星の傍らにある鍋から、何かの出汁のような、食欲をそそる美味しそうな匂いが漂ってきた。
急に空腹を思い出し、腹が大きく鳴ってしまう。自分でも意外なことで宇晨は頬を赤くした。孤星は目を瞬かせ、含み笑いしながら尋ねてくる。
「干し貝柱の粥と、近くの店で買ってきた油條(揚げパン)がある。食べるだろう?」
「……ああ」
「もうすぐできあがるから、器を出して」
食器の入った棚を指す孤星がかつての母の姿と重なってしまい、宇晨は内心で動揺する。動揺を隠しつつ頷き、背を向けて器を用意した。
せっかくだからと、孤星は中庭にある東屋に鍋を運んだ。布巾で綺麗に拭いた卓の上には、粥の入った鍋の他にも、少し萎びた青菜を炒めたものや古漬けを刻んだ薬味、醤で炒めた甘辛い豆や、まだ温かい油條が添えられる。
黎家で見る久方ぶりのまともな朝食に、宇晨は目を瞬かせた。
「まさかお前が、料理ができるとは……」
「粥くらいで大げさな。誰でも作れるだろう」
「……」
「……まさかとは思うけれど、宇晨、君、粥も作れないのかい? どうりで厨を使った形跡が無いわけだ。棚の奥に古い乾物や香辛料が残っていたよ、勿体ない」
「うるさい。外で食べれば済む話だ。そもそも居候の身で勝手に厨を使うな」
「居候の身だからこそ、一宿一飯の恩を労働で返しているのさ」
白孤星が黎家に滞在することになったのは、先日の事件の後、彼が滞在していた道観が閉鎖されたためだ。
事件の解決に尽力した孤星を放り出すわけにもいかず、宇晨は自分の家に招くことにした。自称仙人で、奇怪な事件に関わる彼を放置するのも危険だったせいもある。
それに宇晨は広い黎家に一人で暮らしており、部屋はいくらでも空いていた。使用人がいないため身の回りのことは自分でしなければならないが、孤星はそれを厭わなかった。
元が器用なのか、掃除も炊事も宇晨よりはるかに上手で、かつて一国の太子だったと言っていたのは嘘ではないかと思うくらいだ。
宇晨が仕事から戻る度に、邸の中はどこかしら片付いていたり、厨が使える状態になっていたりと、滞在五日目にして居候の孤星は家主よりも家を管理していた。
今も、まるで母親のように粥を椀によそって宇晨に差し出している。
「さあさあ、粥が冷めてしまうよ。早くいただこう」
「……今さらだが、仙人が食事を取って大丈夫なのか? 天門観でもお前は食べていたが」
「人界に降りた時点で、人間の身体に近いものになるからね。せっかくだし、久々に人間の食事を楽しもうと思って」
匙を手にした孤星に倣い、宇晨も粥を吹き冷まして食べる。
貝柱だけでなく干し蝦も入った粥は出汁がしっかりときいていながら、あっさりした味わいだった。付け合わせの青菜の炒め物は刻んだ生姜も入って少し濃い目の塩加減で箸が進み、酸味のある古漬けと甘辛い豆を交互に粥に乗せれば、いくらでも入りそうだ。
「どうだろう。黎捕吏の舌にかなったかな?」
孤星のからかうような口調は癪に障るが、粥に罪はない。そもそも、作ってもらっておいて文句を言うのは失礼だ。
「ああ、うまいな」
素直に頷いた宇晨に、孤星はきょとんと目を丸くして手を止める。その間にも、宇晨は一杯目を平らげていた。
久しぶりに家で食べる温かな食事は腹だけでなく、不思議と心も温かくする。空になってしまった椀を手に、宇晨は卓上の鍋を覗き込んだ。
「孤星、おかわりをもらっていいか?」
「……」
「白孤星? どうした?」
「いやもう、どうぞ遠慮なく、好きなだけお食べよ……!」
「? ああ、いただく」
首を傾げつつも、宇晨は自分で粥をよそって黙々と二杯目を食べ始めた。
その顔は本人も気づいていないのだろう、いつもよりも和らいだ表情になって、粥やおかずを食べる度にぱっと小さな笑みが浮かぶ。
美味しそうに粥を食べる宇晨に、孤星は思わず会心の笑みを浮かべた。今まで何をしても懐かなかった猫が、急に足元にすり寄ってきた時のような感覚だ。
孤星は開いた扇で満面の笑みを隠しつつ、甲斐甲斐しく「ほら、これもお食べ」と青菜や油條を彼の椀に入れてやるのだった。




