(2)
「……もはやこれまでかと皆が諦めかけたとき、東の丘の上に光が見えました」
日が出るにはまだ早いのに、東の丘から一筋の光が射した。見やれば、丘の上に軍馬にまたがった一人の武官の姿がある。
片手で馬を操り、もう片手で長剣を抜いて掲げる彼の姿は神々しかった。天界から武神が降臨したのだと思ったくらいだ。
暁の光を反射した白い剣が、力強く振り下ろされる。蹄と甲冑の音が響き渡り、丘の上に軍馬を繰る兵がずらりと並んだ。
丁度その時、地平に顔を出した朝日が彼らの纏う甲冑を輝かせた。さざ波のように光を反射し、地平を白く光らせる。それはまさに黎明を告げる光であった。
『――進め!』
西戎の大軍に少しも怯むことのない、勇ましい号令と鬨の声は、絶望しかけていた李将軍達の心を強く奮わせたのであった――。
「あれこそまさしく、暁の化身……黎暁宇、その名にふさわしいお姿だった」
目を細めた李将軍がしみじみと言うと、傍らにいた武官が慌てて小声で窘める。
「李将軍! その名を口にするでない!」
かつて皇帝の信頼を裏切った黎暁宇の名は、宮殿では禁句のようなものになっていた。皇帝の不興を買うのを恐れた者達は急いで李将軍を窘めるも、すでに遅い。李将軍の声は皇帝陛下の耳にも届いていたようだ。今まで楽しげに高官と語らっていた口がぴたりと閉じて、その眉間に深い皺が寄った。
「……」
「……」
広間に緊張が走り、沈黙が落ちる。皆が固唾を飲む中、しかし皇帝は眉間の皺を緩めて長い息を吐いた。
「……その戦で使われた暁宇の剣を、『黎明』と名付けたのは我が父であったな」
淡々と懐かしむように言う皇帝に、皆が呆気に取られる。彼が自ら、公の場で黎暁宇の名を出し、話をするのが久しぶりだったからだ。
二十三年前。まだ先帝が存命中で、大戦で活躍した黎暁宇に褒賞を与えるだけでなく、彼の剣をお抱えの鍛冶師に修繕させ、暁の光のような玉の装飾を施した上で『黎明』と名付けたのは、当時の武官達の中でも有名な話だ。
そして装飾に使われた玉を選定したのは当時の皇太子、つまり今の皇帝である楊威であり、彼にとっても思い出深い品なのである。
暁宇や黎明の話が出てくるのは、暁宇が皇帝の信頼を裏切った時以来だ。
一同が戸惑いの視線を交わす中、一人の公子が立ち上がった。
まだ二十代半ばの若さでありながら、重臣や将軍達が集まる中でも物怖じした様子は無く、落ち着いた物腰で見本のように美しい拱手をする。
この宴を主催する、第四皇子の楊凌だ。
「陛下。『黎明』でしたら、今も黎家にございます。暁宇殿の子息、宇晨が大切に保管しておりますゆえ」
「……宇晨か」
暁宇の皇帝は特に気分を害した様子もなく、灰色の髭を撫でた。
宇晨の名が出てきて一番動揺しているのは、末席にいる孟開だ。まさかこのような場で、黎暁宇の話が、ましてや宇晨の名が出てくるとは。内心で焦りながら様子を窺う孟開に、あろうことか皇帝の視線が向けられた。
「孟開」
「……はい、ここに」
急いで膝を付き、拱手して頭を下げる孟開に、皇帝は静かな口調で尋ねてくる。
「以前、宇晨が耀天府で捕吏となったと聞いたが……孟開、あやつはどうしている?」
声を掛けられた孟開の心臓が跳ね上がった。
なぜ今になって、宇晨のことを聞いてくるのか。暁宇の名が出たことでその存在を思い出したのかもしれないが、孟開は暁宇の事件で苦悩する宇晨の姿を傍らで見て来た。十年以上の時を経て、ようやく落ち着いてきたというのに、また宇晨に何かあったら――。
動揺しつつも、孟開はゆっくりと答えた。
「黎宇晨でございましたら、耀天府で捕吏としての務めを立派に果たしております」
「そうか。あやつは父親譲りの真面目な子であったな。しかし……捕吏か。勿体ないことをしたものだ。暁宇が生きていれば嘆いたことだろう」
皇帝が呟いた時である。
冷たい風が吹いて、広間の蝋燭の火を大きく揺らした。折りしも空に雲がかかり月を隠したせいで、一瞬だけ広間が暗くなる。かすかにざわめく人々の中、誰かが叫んだ。
「だっ、誰だ!」
広間の中央に、誰かが立っていた。
蝋燭の灯りの中に浮かぶのは、一人の武官の姿だ。大柄で引き締まった体躯には、宴には不似合いな武骨な甲冑を纏っている。頬骨の角ばった凛々しい顔立ちで、吊り上がった目は鋭く、睨むように前を見据えていた。
「あれはまさか……黎将軍?」
一人が声を上げると、次々に広間で叫び声が響く。
「れ、黎将軍だ! 間違いない」
「ああ、黎殿……!」
あちこちで悲鳴が上がる中、ふいに広間が明るくなる。雲が流れて、月の光が差し込むと、甲冑姿の武官は幻のように掻き消えてしまった。
しかし、広間のざわめきは治まらない。皆青ざめた顔で、武官――黎暁宇が消えた場所を見つめていた。




