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「……」


 闇の中では、自分の呼吸の音しか聞こえない。いつもよりも少しだけ早い呼吸になっているのは緊張か、不安のせいか。試練とあったが、確かに音も光も無い闇の中にいることは耐えがたい。

 だが、今は事が起きるのを待つことしかできない。

 宇晨はその場で屈み、岩壁を背にして胡坐をかいて座る。徐々に目が慣れてくるが、見える景色は黒く塗りつぶされたままでほとんど変わらない。

 待つ間に、自分が持ってきた物を手探りで確認する。火折子と蝋燭以外にも、念のために武器の小刀を用意しており、帯の下には捕縛用の長い細縄を巻いていた。

 そして、いざ事が起きた際の合図用に折り畳んだ天灯もある。腰に下げた竹筒には油が入っていて、天灯の下に括りつけた綿に油を染み込ませて火を付ければ、温められた空気で上部の布袋が膨らみ、空へと飛び立つのだ。これを上げれば、景引が率いる耀天府の仲間達が天門観へ押し入ることになっている。

 もっとも、事が起きない限り使えない。小刀や細縄は使いやすいように帯に下げ、他は懐にしまった。

 そして刻々と、時間だけが過ぎていく。

 どのくらい経ったのだろう。一刻は経っていないと思うが、もしかして、もう誰か攫われているのではないか。他の者は無事だろうか。いっそ他の洞窟の様子を見に行くか。いや、相手の狙いが自分ならば、そろそろ来るかもしれない。そうだ、自分だけではない。孤星も狙われている可能性もある。

 丁恩。選ばれた十人。新月の晩。登仙。仙境へと繋がる洞窟。五行の相生、相克。丙の年の生まれ……。

 思考しかすることの無い状況で、思考を遮る音や光も無い。取り留めの無い事ばかり思い浮かび、消えずに残っては不安ばかり膨らんでいく。

 何芙蓉(ハー・フーロン)丁洋(ディン・ヤン)

 いなくなった父を今も案じているのだろうか。あるいは諦めただろうか。

 どちらにしろ、彼らも不安の中にいる。

 悲しみに暮れる芙蓉よりも、怒りを見せた丁洋の姿の方が、宇晨の脳裏に強く残っていた。悔しげに寄せられた眉。握られた拳。強張った細い肩の震えを、宇晨は思い返していた。


 ――父上。


 丁洋の姿に、在りし日の自分が重なっていく。閉じた目の裏に、あの日の光景が浮かんだ。鎧をまとったいつもの背中が遠のき、薄い紗の向こうに小さくなって消えていく。


 ――父上、どうして……


 邸内に幾つも掛けられた白い(とばり)がたなびく。閉ざされた重厚な蓋の黒い棺。線香と丸い紙銭が燃える匂いが、辺りに漂って――。


「……」


 宇晨は小さく頭を振った。今はこんなことを考えている場合ではない。静かに息を吐いて雑念を払いながら、孤星から教わった修行法を思い出す。


『せっかくだから胎息(たいそく)を覚えようか。呼吸を整えて気を体内に蓄えるんだ。体内に気を満たせば、身体も丈夫になる』


 まずは調息(ちょうそく)で、ゆっくり静かに呼吸を整える。次は服気(ふくき)で、外気を吐くときに口腔内に内気だけを残して噛み砕き、溜め込んだ内気を飲みこんで丹田に導く。練気では、飲み込んだ内気を体内で循環させて、苦しくなったら息を吐く。これを繰り返すのだ。

 正直、自分が今行っている方法が本当に正しいのかは分からない。とは言え、教えてもらった日にやってみせれば、孤星からは『まあまあ上出来だ』と妙なお墨付きをもらったものだ。自称仙人にどう見えていたのかわからないが、呼吸は武術でも基本中の基本の動作だ。精神統一にもなる。

 ゆっくりと呼吸をすることだけに意識を向けていれば、次第に落ち着いてくる。乱れた思考は静まり、意識は己の体内へと集中して、鳩尾がほのかに温かく感じてくる。手足の指先まで感覚は冴えわたっているのに、背中の岩肌の冷たさは不思議と感じない。

 身体という殻の中で熱い何かが巡りまわって、形を整えては崩れ、それが全身に満ちていった。意識ははっきりしているのに遠のいているような、まるで宙に浮いているような妙な心地だ。


『身体が軽くなったように感じれば、胎息ができている証拠だよ』


 脳裏にちらつくのは、師兄ぶった孤星の得意顔だった。

 若干の苛立ちを覚えるも、なぜか安堵する。奇妙で信用できない男ではあるが、彼がいると妙な安心感を覚えるのが不思議だ。琵琶の事件の際、人間離れした技で宇晨を救った恩人だからだろうか。彼の泰然自若とした様は心強く思え、自由奔放な姿は少し羨ましくも思える。……いや、決して孤星のようになりたいわけでは無いが。

 ふ、と思わず苦笑を零した時だ。

 頬を温い風が撫でた。

 最初は気のせいかと思ったが、目が利かない分、他の感覚が鋭くなっているようだ。風の中に混じる微かな異臭に、宇晨ははっと目を開いて辺りを見回した。視界の端に淡い光が映る。洞窟の奥で何かが光っている。先ほど調べた時には何も無かったはずだ。

 宇晨は立ち上がり、ゆっくりと奥へ進んだ。奥に行くにつれて、辺りは白い靄のようなもので覆われて、じんわりとした生温さが全身を包み込んだ。やがて、一番奥に辿り着いた宇晨は目を見張った。

 奥の壁が無くなり、その先に大きな空洞が広がっていたのだ。


「これは……」


 いったいどういう仕掛けなのか。ぽかりと開いた穴の空間には幻想的な青白い光が満ち、白い靄が漂っている。


 ……まさか本当に、試練の洞窟は仙境へと繋がっているというのか。


 そこまで考えて、すぐに(かぶり)を振った。仕掛けは分からないが、洞窟が他の場所に通じているのは間違いない。

 気を取り直して、穴の縁に手を掛けて空洞を覗き込む。下の方には大きな岩のような影があるようだが、闇に慣れきった目は弱い光でも眩しくてよく見えない。

 目を眇めて宇晨が身を乗り出した時、何かが横から襲って来た。避けきれず、片手を上げて直撃を防いだが体勢が崩れる。


「っ!」


 よろめいた宇晨は、そのまま空洞の底へと落ちていった。


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