(10)
部屋に戻った孤星は、どこか意味ありげに宇晨を見やる。
「どうやら君は、宋道長によほど気に入られたようだね」
「怪しまれているだけじゃないのか?」
「いやいや、私の時にはあのように気遣われなかったし、宴も開かれなかった。羨ましいことだ」
にやにやとした笑みを見せる孤星に、宇晨は冷たく返す。
「ならば、お前がよほど魅力的でなく、胡散臭かったのだろう」
「なっ……ひどいぞ小晨! 庇ってあげたというのに」
わざとらしく口を尖らせて拗ねる孤星を放っておき、宇晨は長椅子に布を敷いて寝支度をする。そんな宇晨に、孤星は「そういえば」と声を掛けた。
「前回登仙した丁恩も、宋道長に目をかけられていたらしい」
孤星が滞在している間に知り合った道士達から聞いたそうだ。
一年ほど前、宋道長が街で出会った丁恩に「優れた仙の資質がある」と修行をすることを勧めた。丁恩は修行を始めて一年も経たずに、登仙の試練を受ける十名に選ばれたと言う。彼よりも長い期間修行をしていた道士達にとっては、あまり面白くない出来事だ。
「宋道長が……」
「ああ。だから案外、君もその資質とやらがあるのかもしれないよ?」
悪戯っぽい笑みで見てくる孤星に、宇晨はふんと鼻を鳴らす。
「くだらん。今日はもう寝る。試練の洞窟とやらには、一度明るいうちに行って調べたい」
「ならば明日かそれ以降、様子を見ながら案内しよう。小晨、あまり一人で出歩かないように。何かあったらこの師兄を頼りなさい」
二人きりの時でもわざとらしく師兄弟ごっこをする孤星を一瞥し、宇晨は布靴を脱いで長椅子に寝転んだ。足はちょうど椅子の手摺の内に納まって、なぜか少し腹立たしく思いつつ目を閉じた。
***
翌朝、常の習慣で卯の刻より前に起きた宇晨は、室内で軽く身体を動かした。潜入している手前、大っぴらに鍛錬することはできないが、身体を慣らしていざという時に動かせるようにしておきたかった。
汗が滲んできたところで終えて、ゆっくりと呼吸を整える。部屋の奥の牀榻を見れば、仰臥したまま音を立てない孤星が帳越しに見えた。
顔を洗う水を汲みに行きたいが、一人で出歩かないようにと孤星から言われている。だからと言って、水汲み程度でわざわざ起こすのも躊躇われた。
「……」
すぐに戻ってくればいいかと判断し、宇晨は桶を手にして静かに部屋を出る。
空は白み、辺りは仄かに明るくなっている。宿坊の背後に聳える岩山の頂上が、朝日を受けて輝いていた。薄暗い中、木の下で座禅を組んで瞑想する者もいれば、先ほど宇晨がしていたように軽く身体を動かしている者もいる。修行中の道士の中には武芸ができる者もいるようだ。この様子なら、自分も少しは外で鍛錬しても大丈夫かもしれない。
彼らを横目に、宇晨は早足で井戸へと向かった。井戸の周囲には幸い誰もおらず、縄の付いた桶を使って、手早く水を汲み終える。
いまだ周囲には人の気配がない。宇晨は顔だけ洗っておこうと、井戸端に屈んで桶から水を掬った。冷たい水が上気した頬に心地よい。手巾で顔を拭いていると足音が近づいてきた。
宇晨が内心で身構えながら振り向くと、桶を手にした宋道長がいた。
「これは小辰殿、おはようございます。お早いですね」
「……おはようございます。宋道長も」
「今日は暖かいので。寒い日は布団から出るのが億劫で、寝坊することもありますよ」
宋道長は気さくな笑みを見せた後、ふいにこちらへ近づいてきて、前触れなく手を伸ばした。
宇晨の頬に冷たい指先が触れて、咄嗟にその手を軽く打ち払ってしまう。一、二歩後ずさり、思わず構えを取りそうになるのを堪え、宇晨は急いで謝った。
「も、申し訳ございません!」
「いえ、こちらこそ失礼を。昨日と、少しお顔が違うように見えたので」
「あ……」
油断していた。昨日は流れ者の装いだったが、今は素顔が露わになっている。髪は垂髪で官服を着ているわけでは無いが、もしも宋道長が『黎捕吏』の顔を知っていればおしまいだ。
「その……道中はろくに顔も洗っていなかったので、そのせいでしょう。立派な食事をご馳走になり、休ませていただいたおかげで、長旅の疲れも取れました」
何とか言い繕った宇晨が固唾を飲んで様子を窺っていると、宋道長は「それは何よりです」と微笑んだだけだった。
「なるほど、昨日よりも良い相になっていると思いました。小辰殿、これから共に精進して参りましょう」
「はい。未熟者ではございますが、どうかご指導のほどよろしくお願いいたします」
宇晨は拱手の礼をし、水桶を持ってその場を離れる。部屋へと戻る宇晨の背を、宋道長がじっと見つめていることには気づかなかった。




