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簡素な麻の上下の着物を着て、擦り切れた襤褸の藍色の上衣を羽織る。普段はきっちりと髷を結っている髪は下ろして、上半分を軽く留めた垂髪にした。
耀天府にある宇晨の書室で準備を手伝っていた景引は、扮装をする宇辰を見て「おお」と感心したように声を上げた。
髪を下ろしてきつい眦が少し下がるだけで、母親譲りの小作りで優しげな顔立ちが目立ち、随分と印象が変わる。杏仁型の大きな目に小作りな鼻と口は、宇晨を年齢よりも幼く見せていた。
また、官服の時は襟元をきつく着付けているが、今日はゆったりとした服装で細く白い首が覗き、豊かな黒髪が背に流れている。襤褸を纏っていても挙措には育ちの良さが垣間見え、どこぞの名家の箱入り公子が世捨て人に扮したようにも見えた。普段の目つき鋭い黎捕吏しか知らない者が見れば、別人と思うことだろう。
「いやあ、泣く子も黙る黎捕吏がずいぶんと可愛らしく……」
軽口を叩く景引を宇晨は鏡越しに睨んだ。中身は立派な武人育ちである彼が無言で拳を握るのを見て、景引は急いで謝罪する。
「冗談だよ、悪かったって。……というか、班長自らが敵の本拠地に潜り込むなんて、本当は反対なんだからな」
景引は真面目な顔つきになって言う。
班を率いる上官である宇晨にも冗談を言える景引は、宇晨より一つ上の二十六歳だ。
汪景引は、元々は高官の一族の出であった。朝廷内や六部省、各衛門の情勢や事情に詳しく、宇晨よりも世知に長けて、時には代わりに上官への交渉もしてくれる。
知識は豊富で頭も切れ、親族の伝手もあるのになぜ官吏の道を進まず、下級も下級の捕吏なんぞになったのか――。景引が六年前に耀天府に入ってきた頃、宇晨は不思議に思ったものだ。
本人曰く、堅苦しい肩書の家は気ままな三男坊にとって据わりが悪く、面倒な朝廷勤めはなおさら嫌で、ほぼ家出同然で出てきたらしい。
あっけらかんとした気風のいい性格の彼は、当時、皆から遠巻きにされていた宇晨にも臆さず話しかけてきた。宇晨も短気な所がだいぶ改善されてきた頃で、人当たりの良い景引のおかげもあって、耀天府の者達とも少しずつ打ち解けられるようになったものだ。
友人であり恩人。仕事では頼りになる相棒で、かつ参謀でもある景引は、今回の事案で宇晨が一人で動くことを良く思っていないようだ。もっとも、鏡の中の景引の顔に浮かぶのは、不満よりも心配の色である。
宇晨は顔料と土を混ぜたものを顔や服に塗りつけて汚し、いかにも長旅をしてきた流れ者らしくなるようにしながら答えた。
「まずは様子を見に行くだけだ。相手に顔を覚えられるのは少ない方がいいし、多勢で動けば警戒される。次に偵察する時はお前に任せるよ」
そうして、扮装した宇晨は人目につかぬよう裏門から出て、一人道観に向かった。
天門観は都の西の郊外にある。そこは、宇晨が想像していたよりも広い敷地を有し、建物も大きく立派であった。
道観の裏には巨大な岩山があり、この岩山は京城を囲む石塀を越え、都の外まで広がっていた。急峻な山は天然の城壁となって外敵の侵入を防いでいるが、なるほど、この土地であれば、都を密かに出入りすることも不可能ではないと思わせた。やはり、実際にこの目で見て調査するのは必要だ。
『天門観』と紫檀製の看板が掲げられた門はどっしりとした石造りで、朱塗りの大きな門扉の前には幾人もの人々が朝早くから並んでいる。道観は修行の場であるだけでなく、神々を祀って祈る場でもあり、こうして信仰心深い者達が参りにくるのだ。
門扉が開かれると人々は順に並んで、参拝するために正殿へと続く道へ進む。宇晨も彼らの列に紛れ、背を丸めて歩を進めた。
正殿の前庭には、修行中の道士達が掃除をする姿が見受けられる。宇晨は辺りを観察しながら、隣に並んでいた年配の男に粗雑な口調で尋ねた。
「なあ、ここで修行すれば仙人になれると聞いたんだが」
「おっ、あんたも仙人になりたいクチか」
髭を生やした商人風の男はにやりと笑い、正殿の奥を指さす。
「ほら見ろ、この道観の裏手にある岩山。あそこには十個の洞窟があってな……何でも、仙境に通じる秘密の洞窟らしい。ふた月に一度、新月の晩に選ばれた道士様達が洞窟に籠って、試練を乗り越えた者が仙境に行くことができるそうだ。今まで何人も仙人様になったんだぜ」
「へえ、あんた随分と詳しいな」
「ははっ! 俺ぁな、ここに来る道の途中で小さな茶楼をやってんだ。天門観が有名になって、参拝客やら道士様やらも増えたおかげで繁盛してんだよ。ありがてぇありがてぇ。日頃の感謝を込めて、神様仙人様道士様を毎日拝みに来てるわけさ!」
「なるほど……」
これはいい情報源になりそうだ。さらに詳しく聞き出すため、宇晨が男に話しかけようとした時だった。
「何を話されているのです?」
穏やかな声が列の横から掛けられた。




