(3)
女性は何芙蓉と名乗った。都の外れにある繍坊で刺繍職人として働く彼女は、夫の丁恩、そして息子の丁洋とともに家族三人で慎ましく暮らしていたそうだ。
ところがある日、丁恩は急に家を出てしまった。
その理由が、『俗世を離れ、修行して仙になる』である。
何でも、彼は勤めている織物店の使いの途中で立派な道士に出会ったそうだ。
道士とは、道教の教えを極め、神仙思想に基づいて仙人を目指すために修行する者達のことをいう。その道士の訓戒を受けた彼は、都の郊外にある道観(道士が修行する施設)に行ったきり戻ってこなかった。
丁恩を連れ戻そうと、芙蓉は幾度も道観を尋ねた。妻子をいきなり放り出すのは道理に反すると、道長(道観の責任者)が丁恩と引き合わせてくれたものの、彼には家に帰る意志は無かった。
家族を置いていくのは心苦しい。だが、もはや己は俗世を捨て去り修行に励むと決めたのだ――と。
固い決意を示す丁恩は、芙蓉の懇願を受け入れなかった。しかし芙蓉はあきらめず、いつか思い直して戻ってきてくれると信じ、月に一度は彼に会いに行くようにした。
丁恩もさすがに申し訳なさがあったのか、芙蓉の健気さに多少は思いとどまったのか、修行は続けながらも妻との面会は続けていた。
そして、ちょうど一年が経った頃である。芙蓉はいつも通りに面会に行ったものの、彼に会うことは叶わなかった。話を聞けば、丁恩がつい先日登仙し、修行している場から忽然と姿を消したのだと言う。戸惑う芙蓉に道長は語った。
『丁恩は稀な仙骨(仙人になる資質)の持ち主でありました。これほど早く登仙できたのもそのせいです。きっと今頃は、仙境にたどり着き、先達と共に安楽に暮らしておいででしょう』
納得のいかない芙蓉は食い下がったものの、これ以上は道士達の修行の迷惑になると、道観を追い出されてしまった――。
話し終え、再び涙を落す芙蓉の傍らで、息子の丁洋が吐き捨てるように言う。
「なにが仙人だ。そんなの嘘っぱちに決まってる。ねえ、母さん、もうやめようよ。本当は分かってるんだろ。父さんは僕らを捨てた、それだけだよ!」
悔しそうに唇を噛み締める丁洋に、芙蓉は悲しげに顔を伏せるだけだ。そんな母子の姿を見つめた後、宇晨は口を開いた。
「わかった。では、その道観と丁恩の行方について、私が調べよう」
何度も頭を下げて礼を言う芙蓉と仏頂面の丁洋を帰した後、宇晨は書庫に向かった。報告書の整理をしていた景引達に命じる。
「『天門観』に関する訴えや記録がないか調べてくれ」
丁恩が消えた道観の名を『天門観』といい、もしや他にも事案がないかと命じたわけだが、するとまあ出てくるもので、ここ数年で芙蓉と似たような訴えが幾つも上がっていた。一番古いものだと八年前だ。もっとも、どれも耀天府が調査する案件ではないと判断されて、保管棚の隅へと片付けられていたようだ。
報告書の束を捲りながら、景引はこめかみを掻く。
「いやあ、これは……本人が身をくらませただけじゃないのか?」
思わずというように零れた景引の言葉に、他の部下達も目線を交わして頷いた。
仙人になるというのは表向きの理由で、実際は当人の事情――例えば借りた金を返せなくなって夜逃げしたり、妻以外の女性を好きになって駆け落ちしたり――で、出奔しているのではないか、と。
だとすれば、それは個人や家族内の問題であり、役所がわざわざ口を出すものではない。
徐推官もそう考えたからこそ、芙蓉の訴えを聞き流して宇晨に押し付けたのだ。おそらくは息子の丁洋も、同じように考えているのだろう。だから、『僕らを捨てた』と言ったのだ。
景引を含む部下一同、疑わしげに、あるいは呆れた眼差しで報告書を見やる。どれも似たり寄ったりの内容の上、訴えた者もそれ以上の陳情はしていない。彼らもまた、失踪した身内を探すのを諦めたのだろう。
景引は報告書から手を離して、宇晨を見やった。
「宇晨、この事案を調べるのか?」
「仙人の件はともかくとして、人が消える事案が続いているとなれば、放っておくわけにはいかない」
訴えによれば、ふた月に一度は『登仙』と称して、人が消えているようだ。『天門観』は必ず登仙できる道観として、道士達や信者の間で有名になっているらしい。天門観で修行したい者が絶えず訪れ、人が減ってもまた次が入り、むしろ人が増えている状態だ。これでは人が消えたところで気づかれないだろう。
だからこそ、『登仙』と称して定期的に人がいなくなるのはたしかに怪しい。当人の意思での出奔ならまだしも、人攫いの可能性も考えられる。あるいは、身をくらませるための仲立ちを組織的に行っている可能性もある。城壁に囲まれた京城では、通行証が無ければ門を通れない。そのような記録も無く、密かに人を行き来させているとすれば問題だ。
「だがなあ……相手が道観だと、調査は難しいぞ」
景引は難色を示す。
道観は道士の修行の場で、いわゆる世俗から離れた聖なる場だ。真正面から耀天府の捕吏が捜査に行ったところで、追い返されるのが目に見えている。実際にその場で何か事件が起こらない限りは無理だろう。
とはいえ、芙蓉達に調べると言ったのだ。宇晨も半信半疑ではあったが、父親を急に失い途方に暮れる丁親子の後ろ姿が今も脳裏に残っている。
事情は違えど、かつての黎家を思い出させて、どうにも放っておけなかったのだ。
「……景引、道観周辺での聞き込みを頼む。それから、他の者は訴えを出していた者達に再度詳しい話を聞いてきてくれ。私は天門観に行く」




