(18)
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琵琶が破壊された後、柳羽は大人しく耀天府へと連行された。大人しくと言うより、放心して逆らう気力も無かったと言った方がいいだろう。
耀天府の地下牢に捕らえられた柳羽は、やがて訥々と話し出した。
「……姐さんの部屋を片付けていたら、あの人が来たんです」
柳燕の遺体を運び出した後、牀榻の前に残る血だまりを前に立ち尽くす柳羽に、その男は声を掛けてきた。
若い男だった。高級妓楼である精華楼ではよく見かける綺麗な衣で貴公子然とした見目ながら、不思議と目立たず、部屋に入ってきたことにも気づかなかった。
いや、そもそも部屋は封じていたはずだが、どうやって入ってきたのか。
今思い返せば奇妙なことだが、その時の柳羽は悲しみと後悔で頭がいっぱいだったのだ。
――柳羽は、柳燕が近頃塞ぎこんでいることに気づいていた。
そもそも華札を張亮達――柳燕の元に熱心に通ってはいたが、彼らが柳燕の琵琶を理解しているとは到底思えなかった――に渡したことも不思議で、幾度か柳燕に尋ねてみたものの、返ってくるのは諦観したような暗い微笑だけだった。
気になった柳羽は張亮達が来た日、こっそりと柳燕の部屋の様子を窺ってみた。そうしたら室内で行われていたのは、柳燕の尊厳を踏みにじる卑劣な行為であり、柳羽は愕然とした。
聞こえてくる彼らの会話の端々から、柳燕を脅して華札を手に入れたことを悟った柳羽は口元を覆った。出てきそうになる声を必死に堪えた。
彼らが華札を得たのは、あの日――張亮に渡された薬を柳燕用の酒に混ぜておいた日だった。
柳羽は廊下の影に潜み、張亮が一人出てきたところで問い詰めた。あれは滋養の薬じゃなかったのか、と。
すると、張亮は鼻で笑って答えたのだ。
『もちろん、滋養の薬さ。少し強めのな』
張亮が渡した薬には、確かに滋養強壮の効能があった。だが、効き目が強くなれば媚薬にもなる。薬房の跡取りで知識が豊富な彼はわざと強い薬を作り、それ以外にも興奮を高めたり身体の自由を奪ったりする効能の素材を混ぜて、柳燕を貶めた。
張亮は酔っているのか、したり顔で柳羽に話したものだ。
あまりの仕打ちに柳羽は怒り、精華楼の女将である羅緋にこの事を話そうとしたが、張亮が止めた。
『おいおい、お前も共犯だろう。柳燕に恨まれてもいいのか?』
そう言われて、柳羽は息を呑んだ。
媚薬と知らなかったとはいえ、薬を入れたのは自分だ。しかも、柳燕には内緒で。
柳燕の体調を気遣ってしたことだったのに。裏目どころか、自分は彼女が今まで必死に守ってきた矜持を傷付け、裏切ってしまった――。
青ざめる柳羽の肩を張亮は親し気に抱く。酒精の混じった熱い息がかかり、怒りと嫌悪と後悔で目が眩んだ。
『何なら、お前も一緒に混ざってはどうだ? そうすれば、柳燕の負担が減るかもしれないぞ――』
下卑た話に慄き、柳羽は思わず張亮の腕を振り払い、その場から逃げてしまった。
その後、柳羽は柳燕に何度か本当のことを話そうとして、結局できずにいた。女将の羅緋にも話せなかった。
そうして数日が経ったある日。
支度の手伝いに訪れた柳羽は、事切れた柳燕を見つけたのだ。
柳羽の目には、今もあの光景が焼き付いている。
牀榻に寄りかかるように座った柳燕の首から伸びる、細い弦。半分切れた首から下は、まるで赤い衣を纏ったかのように血で染まっていた。
残る血だまりを拭きとってしまえば、柳燕がここにいた証を消してしまうようで、柳羽は動けずにいた。だからといって誰か別の者に頼むこともできなかった。
そんな最中に現れた若い男は、『かわいそうに』と柳燕の死を悼んだ。
どうやら柳燕の客だったらしく、琵琶をもう一度聴きたかったと言う彼は、棚に置かれた琵琶に弦が張られていない理由を問うた。
柳燕が首を吊るために使った弦だ。持ち主もいない今、新たに弦を張ったところで弾く者はいない。何より精華楼の皆が、自死の道具となった琵琶を不吉に思って触らずにいた。
かわいそうに、と男はもう一度言った。
その声は琵琶と、そして柳羽にも向けられていた。
主と弦を失った琵琶は、まるで柳羽そのものだ。琵琶は二度と流麗な美しい楽を響かせることはなく、柳羽は二度と柳燕に謝ることも許しを貰うこともできない。
己の罪を白状し、張亮達の所業を訴えることも一瞬考えた。だが、役所がまともに取り合ってくれるとは思えなかった。
柳燕は自害したのだ。例え、心身ともに甚振られて殺されたようなものだとしても、彼らが直接手を下したわけではない。それに相手は高官の息子や商家の御曹司であり、柳羽は身寄りもいない妓楼の下女だ。役所がどちらに味方するなんて、分かり切ったことだった。
『ごめんなさい、姐さん、ごめんなさい……』
誰もいない牀榻の前で謝る柳羽の後ろで、男がふいに聞いてくる。
『仇を討ちたいかい?』
『え……』
何を言われたのか最初は理解できず、からかわれているのかとも思った。
柳羽が呆然と後ろを振り返ると、男は黒い眼差しで静かにこちらを見据えたまま、淡々と言葉を続ける。
『仇を討ちたいなら、力を貸すよ』
男がそう言って袖から取り出したのは、白い絹の弦だ。垂らされた白い弦の端が柳燕の血だまりに触れて、ゆっくりと、赤く赤く染まっていった――。




