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 弦が緩み、絞められていた喉に冷たい夜気が入り込む。


「っ、げほっ……!」


 咳き込みながら、宇晨は腕に絡みついたままの弦を払い落とした。

 滲んだ涙で曇る目に映ったのは、闇夜を切り裂くように飛ぶ白い扇だ。くるくると回転して、宇晨を襲う弦をことごとく弾き返しては断ち切って、やがて持ち主の手に吸い込まれるように戻っていく。

 音も無く扇を受け止めた持ち主は、纏わりついていた弦を一振りで掃った。中庭に植えられた花木の匂いに混じって、爽やかで甘い香りが漂う。


「やあ、黎捕吏。息災かな?」


 中庭の東屋の上に、白い衣の男が立っていた。

 月の淡い光に浮かび立つのは、人とは思えぬ白皙の美貌。古風で上品な白い衣装を風にたなびかせ、悠然と佇む様はまさしく神仙のようで――。


「白孤星……」


 呆然と見上げる宇晨に、ふわりと降り立った孤星が歩み寄る。

 その間にも宇晨に向かって襲いかかる赤い弦を、孤星は軽く扇で弾き返した。宇晨達があれだけ苦戦していたというのに、孤星のそれは五月蠅い羽虫を掃うような手つきだ。

 弦には見向きもせずに、孤星は宇晨を呆れたように見下ろしてくる。


「まったく、だから最初から私を信じていればよいものを」


 閉じた扇で、宇晨の首を示してきた。

 そうされて、まるで思い出したかのように鈍い痛みに襲われる。弦が食い込んでいた皮膚は切れ、にじみ出た血が衿を赤く染めていた。もしも孤星が助けなければ、今頃は首も腕も切り落とされて地面に転がっていたことだろう。


「お前、なぜここに……」

「簡単な事。漂っていた妖気を追ったまでさ」


 孤星は以前とまったく同じ台詞を、おどけた口調で言う。それを否定することは、今の宇晨にはできず、ただ黙るしかなかった。

 孤星はゆるりと首を巡らせて、張亮の部屋の方を見やる。

 ちょうど出てきた柳羽が、孤星に気づいて驚いたように足を止めた。同時に、柳羽の腕の中の琵琶が震えて、びぃん、と音を立てる。それがどこか怯えた様子に見えたのは、宇晨の気のせいだろうか。


「こんばんは、お嬢さん」


 場にそぐわぬ、どこかのんびりとした孤星の挨拶に、柳羽は警戒と困惑の混ざった表情を浮かべる。


「だ……誰よ、あんた」


 先ほどまでは手当たり次第に攻撃していた手が止まったのは、新たに現れた男が見るからに捕吏ではないせいか。

 柳羽にはまだ理性も良心もあり、関係ない者を傷付ける気はないことが分かる。この凶行自体も、世話になった姉のような柳燕のための敵討ちであり、彼女の情の深さを思わせた。


 奇妙な静けさの中、孤星(グーシン)は変わらない口調で柳羽(リウ・イー)に尋ねる。


「その琵琶は、お嬢さんの物かい?」


 扇の先端を向ける孤星の問いかけに、柳羽は眉根を寄せた。


「何でそんなこと、あんたに……」

「正確には、琵琶に新しく張った弦をどこで手に入れたのか知りたい。誰から貰ったんだい?」

「!」


 孤星の言葉に柳羽がはっと息を呑み、警戒の色を強くする。どこか焦りを滲ませながら琵琶を抱きしめる柳羽に、孤星は言葉を続けた。


蚕馬(さんば)が生んだ絹糸に死人の血を吸わせるとは、恐ろしいことをする。……ああ、その琵琶のせいか。随分と大切にされていたようだ。琵琶に魂が宿り、核となって妖魔へと変じたか」


 孤星は流れるように言った後、扇をばさりと開く。


「どちらにしろ、その弦も琵琶も人の世にあってはならないものだ。貴重な霊器だから回収したかったが、もう壊すしかなさそうだね」


 穏やかな声音だが、それは冴え冴えとした月の光よりも冷たく響いた。

 宣告した孤星に、今度こそはっきりと、琵琶が恐怖で震えるのが見て取れる。びぃんびぃんと弦が震えて重なる音が、まるで唸り声のように響き渡った。四本の弦が一斉に孤星に向かう。


「白孤星!」


 宇晨(ユーチェン)は彼を庇おうと前に出るものの、逆に強い力で腕を引かれて後ろに下がらされた。


「君はどこまで真面目なんだい」


 呆れと笑いを含む声で呟きながら、孤星は広げた扇を軽く振るう。

 途端、強い風が孤星と宇晨の周りで吹き荒れた。風は刃となり、襲ってくる弦が次から次に細切れにされていく。

 延々と伸びて繰り出される赤い弦にも限界はあったようだ。赤い光を失った弦が、一本、二本と琵琶から外れ、力なく地面へと落ちていった

 やがて、残っている内の一本の弦が急に向きを変える。負けを悟ったのだろうか。孤星から逃れようとする弦の急な動きに、琵琶を抱きしめたままの柳羽がつられて倒れ込む。


「きゃあっ!」


 そのまま琵琶ごと勢いよく引きずられる柳羽の背後には、四阿の柱がある。このままではぶつかると、宇晨が咄嗟に駆け寄ろうとした眼前を、白い扇が閃いた。

 回転して飛ぶ扇は、残った弦と逃げようとする弦を断ち切り、起こす風で散り散りに吹き飛ばしてしまう。

 はらはらと空に散っていく赤い残滓を前に柳羽は青ざめ、弦の無くなった琵琶を抱えて後退った。そんな柳羽に、孤星が一歩ずつ近づく。


「お嬢さん、それは只人が持っていてもろくなことにはならない。すでに君の手に負えなくなっただろう。早く離しなさい」

「だ、駄目よ! これは、燕姐さんの形見で……!」

「形見と言うなら、人を殺す道具にしてはいけなかった」


 孤星は扇をぱちりと閉じて、剣を振り下ろすように鋭く振り抜いた。

 一筋の風が夜気を切り裂き、琵琶に大きな亀裂が走る。柳羽の手から琵琶が離れ、ごとん、と重い音を立てて地面に転がった。

 琵琶は、異様な形をしていた。平たいはずの胴の部分が、まるで水をたっぷり含んだ梨のように大きく膨らんでいたのだ。

 赤黒い艶を帯びるそれが、ばりばりと裂け目から音を立てて割れる。そうして、熟れた柘榴が弾けるようにして、中身が飛び出した。

 ようやく裏庭から駆け付けた宇晨の部下達が、飛び出した物を見て息を呑む。


 地面に転がっていたのは、血に塗れた二つの首――郭子毅(グオ・ズーイー)高文新(ガオ・ウェンシン)のものだった。



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