(15)
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夜が更けて皆が寝静まる頃。庭園の木々を揺らす風の音に混じって、ビィン、とかすかな音が響いた。
風に乗せるように細く響くそれは、琵琶の音だ。
一音ずつゆったりと奏でる伸びやかな音から、連続で弦を弾いて重なる旋律となる。速い旋律が止まり再び静けさが戻った時、張家の邸の裏庭に影が一つ降り立った。
それは、大きな琵琶を抱いた女だった。ほっそりとしたはかなげな風情は、まるで風に揺れる柳のようだ。ゆらゆらとした拙い足取りで、女は裏庭に面した張亮の部屋に向かう。
裳裾を引きずり、長い袖を風に揺らしながら進む女だったが、その前に別の影が立ち塞がった。
縹色の官服を纏った捕吏――黎宇晨だ。
鉄尺を手にして立ち塞がる宇晨に、女は足を止める。
夜空は薄雲で覆われ、星の光も月の光も地上には届かない。遠くの灯篭の光が、かろうじて二人の影を浮き立たせている暗闇で互いの顔も見えない中、宇晨が口を開いた。
「張亮から、すべて話を聞いた。彼らが柳燕にした仕打ちは許せるものでは無い。だが、これ以上人を殺させるわけにはいかない」
宇晨が手を上げると、待機していた数人の部下達が灯りを手に出てくる。
灯りに照らされたのは、まだ年端もいかない娘だった。
背は高いが発育の十分でない薄い身体に大きな衣――おそらくは柳燕のものを着て、髪を結い上げ綺麗に化粧を施した姿は、昨日出会った時の地味な風貌とは異なっていたが、その目には見覚えがあった。
じっと宇晨を睨んでくる目には、精華楼で見た時と同じように怒りが滾っている。
柳燕を慕っていた、下女の柳羽だ。
「柳羽。柳燕の仇討ちはもう止めるんだ」
柳羽は眉を吊り上げて、宇晨を憎々し気に見る。
「邪魔をしないで。あいつらのせいで、燕姐さんは……!」
柳燕の形見であろう琵琶を、身体の前で抱える柳羽の手に力が籠った。部下達が彼女に近づこうとするのを手で制し、宇晨は尋ねる。
「柳羽。君はなぜ、あの三人が柳燕の仇だと知っている?」
「……」
「精華楼の女将ですら、彼らの所業を知らなかった。柳燕は、きっと誰にも言っていなかったはずだ。庇護していた妹分の君に、悩みを打ち明けるとも思えない」
「な……」
「精華楼の妓女は客の相伴にあずかる際、飲む物食べる物には充分気を付けるように教えると、女将から聞いている」
それは、妓女が自分の身を守るための術だ。例えば客がこっそり持ち込んだ酒や土産はその場で飲食することはしないし、料理や杯に薬などを仕込まれることのないように目を配る。
柳燕も十分に気を付けていたはずだが、張亮が媚薬を仕込んだ酒を飲んでしまった。
「……張亮は、配膳をする下女に頼んで、酒に薬を仕込ませたそうだ」
「!」
びくりと柳羽の肩が跳ねあがった。怒りに満ちていた彼女の目に、怯えが混じる。紅が塗られた赤い唇を、小さな真珠のような白い歯が噛みしめる。
「君が、薬を入れたのか」
「……」
一瞬、柳羽の顔が泣きそうに歪んだが、すぐに強い怒りにとって代わる。
「だって、張香薬房の特別な薬だって、そう言って……姐さん、あの時風邪が長引いてて体調が悪かったのに、大丈夫だと言って聞かないんだもの! 滋養のお薬だって、そう聞いていたのに……!」
柳燕の華札を手に入れるために熱心に通っていた張亮は、一見すれば感じの良い好青年である。有名な張香薬房の跡取りという肩書もあれば、彼の卑怯な企みを柳羽が察することは難しかっただろう。
ビィン、と柳羽の悲痛な声に呼応するように弦が鳴った。
「だいたい、あんた達が……耀天府が調べてくれないから! 燕姐さんが死んじゃった時、ちゃんと調べてくれていれば、そうしたらあいつらも……あ、あたしのことも、罰してくれたのに……!」
叫ぶ柳羽の声に混じって、琵琶はかき鳴らされ、ますます音が激しくなる。
「でも、誰も知らない……知ってくれない! あいつらは黙ったままで、何もなかったような顔で生きるのよ! だから、あたしが……あたしがっ、あいつらに罰を与えなきゃ‼」
「柳羽!」
宇晨はふと違和感を覚えた。
何かおかしい。……そうだ、柳羽は大きな琵琶を両手で抱きしめていて、弦に触れていない。それなのに、琵琶は激しく鳴っているのだ。
気づいた時には、柳羽の腕の中で琵琶がぶるりと大きく震えた。
四本の弦が、柳羽が触れてもいないのにさらに振動して、激しく大きな音を響かせる。よく見れば、四本のうち三本の弦はまるで血で染めたように赤黒く、禍々しい光を帯びていた。
ビンッ、と強い音が鳴ったと同時に、振動していた赤い弦の一本が切れた。いや、それは自ら動いて外れたのだ。宇晨は咄嗟にその場から飛びのいた。
宇晨がいた場所を、赤い弦が掠めるように通り過ぎていく。弦は鞭のようにしなり、戻る際に地面を深く抉った。




