鉛色の空の日に・異國の地で・水銀体温計を・手に取り細工に見惚れました。
熱を出した。それは自分が生まれた地ではない異国の地である。まだ幼い時分であった。両親が同行していることが何よりの幸いで、子供の己はベッドに寝かされている。熱が出ていた。風邪か疲労感が出た故の体調不良であった。楽しい旅行の最中であった。子連れで遠出した旅行先で見られる、一種の試練であった。どこから取り出したのか、水銀の体温計を母親が持ってきて挟むように言った。言われた子は熱と鼻水で気怠かったから、体温計を挟むのも億劫になって拒んだ。もうと母親が文句を言う。結局服を脱がしてもらって、そ無防備になった脇にその体温計を挟んでもらった。脱いでしまうと、寒さでくしゃみが誘発された。その動きを見越してか、母親は持ってきたバスタオルで体を拭くと服の代わりに体をくるもうとした。何もないよりは大変に楽だが、所々の素肌は寒く、今度は鼻水がでる。暖かいはずのベッドは、なぜか拒むようにシーツが冷たかった。大人が寝るような大きな枕に、冷たいシーツは子供が気にくわないのだろうか。そんなことを熱に魘されて考えながら、弟が横で暇そうに遊ばないかと自分の体をシーツ越しに揺らしてくる。離れなさい、と父親が言った。風邪がうつって二の舞になってはいけないからだ。だが幼い弟は暇を持て余したかのようにぐずり始める。己はそれをどう見ていたのか分からない。全員がコートやジャケットを着込んでいて、裸同然なのは自分だけだった。寒い部屋に耐えかねて厚着をしているのか、先ほどまで町の散策を楽しんでいたのをわざわざ中断して戻ってきたかのようだった。そうであれば悪いことをしたと己は思う。だが子供の時分では、熱が出た己がこの世で一番かわいく、また哀れだと思っていた。母がどこからか風邪薬を持ってくる。
茶色のガラス瓶に、ごろごろと白の錠剤が中に埋まっていた。それをスプーンで一錠だけすくい上げ、子供の己の口に運んでくれた。だがその錠剤は大人用である。飲み込むのには気道が狭い。詰まる!と幼い己は思った。また薬は大変に苦く、糖のコーティングなど皆無であった。今のようにゼリーで飲み込むなどの術もない。ただスプーンに掬った薬を、飲まされて一気に口の中に苦みが広がる。思わず幼い己は吐き出した。枕にべちゃりと唾液と、溶けかけの錠剤が残る。母親が何かを言っていたが、飲めないものは飲めない。だが飲まなければ治らないから、ともう一度同じようにスプーンで薬は運ばれる。それを飲み込んだのかは定かではない。ただ襲いかかる苦みに泣きながら薬を口の中に転がしていなければならなかった。その後、風光明媚な観光が出来たのかは記憶にない。自分は熱が下がったのか、その記憶もあやふやだ。
水銀の体温計は、計るのに時間が掛かるのだ。だが持ち運んでいたプラスチックのケースは好きだった。オレンジ色の、水銀体温計がすっぽりとハマるように設計されたケースを、暇になると意味もなくすぽすぽとはめてみたものだった。その水銀の体温計によってその後の旅行がどうなったのか、今は誰にも分からないままだった。