紫煙は月を隠す
息苦しい満員電車から飛び降り、重たい足を引きずって改札を目指す。広告の入ったアクリル板に映る自分の姿があまりにも情けなくてため息が溢れた。
改札を抜けてすぐ目に写ったのは、喫煙所だった。俺と同じ電車に乗っていたサラリーマンたちが明るく照らされる喫煙所へ群がっていく姿は、樹液に群がるカブトムシみたいで、滑稽だと思いつつ自然と足がそちらへ向いた。脳裏に家で帰りを待つ彼女の顔が浮かんだが、気づかないふりをする。本能には抗えないってことだよな、と言い訳をしながら一本の煙草に火を付けた。
すうっと煙を吸って吐くと、今日一日の疲れや、鬱憤が綺麗に洗い流されるような感覚に陥る。実際は肺を汚く汚しているだけだが。それでも煙草を吸う時間が、仕事で疲れた俺にとって至福の時間だった。
吸い終える頃に、手持ち無沙汰になった左手でスマホを取り出し、あたかも今最寄駅に着いたかのように彼女にメッセージを送ると、すぐに既読が付いた。
「ごはんあっためて待ってるね」
可愛いくまのスタンプとともに送られてきたメッセージに思わず頬が緩むのと同時に、微かに罪悪感を感じる。急いで煙草の火を消して喫煙所を後にした。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、パタパタと廊下を走る音が聞こえて、彼女が笑顔で出迎えてくれる。
「お帰りなさい。今日もお疲れ様」
「ありがと」
差し出された手に鞄を渡し、ネクタイを緩めながら彼女の横を通り過ぎようとした時、彼女が俺のスーツをぎゅっと握りしめた。
「煙草、吸った?」
ドクンと心臓が跳ねた。こちらを見る彼女の目には困惑と怒りの色が混ざっていて、頭を掻きながら頷くと、それは落胆の色に変わった。
「同棲始めたら煙草はやめるって約束したじゃん、これ何回目?」
「疲れてて、つい」
「いつもそう、ねえ本当に煙草やめてくれるの?」
「やめるって。今日はすごい疲れてたんだって、ほんとごめん」
まだ何か言いたげな彼女が少しめんどくさくなって、足早にリビングへと向かう。テーブルには俺の大好きなハンバーグやきんぴらが並べられていて、思わず「うまそう」と声を上げる。すぐに席について熱々のハンバーグを頬張ると、肉汁が溢れ出てきて、はふはふと息が漏れた。
「最高に美味しい」
そう言いながら彼女を見ると、不満そうな顔が一気に満足げな顔に変わったので、ほっと息をついた。
彼女と同棲を始めたのは約一ヶ月前だったが、付き合い始めたのは四年前だった。大学のサークルで出会った俺たちはすぐに意気投合し、気づけば恋人という関係になっていた。大学卒業を機に、将来について話し合った結果、お互いの職場から近いところにマンションを借りて、半年ほど同棲をし、互いを深く知った上で結婚しようということになり、現在に至る。
少し温くなった味噌汁を飲み干し、食器を流しに置いてから風呂へと向かう。熱々のシャワーで一日の汗を洗い流してリビングに戻ると、彼女が俺の食器を洗っていた。一つに括られたロングヘアーが揺れるたびにチラチラと覗くうなじが、あまりにも扇情的で、よろよろと彼女の腹へと腕を回した。
「んー、どうしたの?」
「好き」
ぐりぐりと彼女の肩に頭を擦り付けると、くすぐったそうに身を捩るので思わずうなじに噛み付くと彼女の肩がピクリと跳ねた。
「・・・いや?」
「嫌じゃない、けど。お皿洗い終わるまで待ってて」
「えー」
「歯磨いて、先にベッド行ってて。ね?」
子供をあやすような口調でゆっくりと振り返った彼女の笑顔があまりに可愛くて、小さく頷きながら洗面所へと向かった。歯を磨きながら洗濯機からはみ出た自分のワイシャツを入れ直し、なんとなく戸棚を開けると彼女の化粧水がもう残りわずかなのに気がついた。たまには高い化粧水とかサプライズであげたら喜ぶかな。そんなことを思いながら、口の中を濯ぐと、ちょうど歯を磨きにきたらしい彼女が洗面所に入ってきた。
「洗濯物入れた?戸棚なんて開けちゃってどうしたの」
「入れた。俺の整髪剤まだあるかなって確認しただけ」
「ふうん」
特に気にも留めず歯を磨き始めた彼女の頬に優しく唇を押し付けると、わかりやすく動揺したのでククッと喉を鳴らして笑うとバシッと背中を叩かれたため、そそくさと洗面所から退散する。もう付き合って四年も経つのに、いまだに初心なところが可愛くてつい意地悪したくなってしまう。もちろん彼女にそんなことを言ったら、顔を真っ赤にして怒られるに違いないが。
ベッドに腰掛けて待っていると、どこかぎこちない歩き方をした彼女がゆっくりと寝室に入ってきた。その細い体をぎゅっと捕まえて、窮屈そうに身じろいだ彼女ごとベッドにもつれ込む。
互いの息が乱れ、ベッドのスプリングが軋む音が部屋に響く。こっちが深く求めようとすれば、必死に答えようとしてくれる。そんな彼女が愛おしくて、どうしようもなかった。
気がつけば時計は深夜一時過ぎを指していて、脱ぎ捨てた下着を履いてベッドを降りると彼女が少し掠れた声で俺を呼んだ。
「どこ、いくの」
「水、飲むだろ。入れてくるよ」
「ありがとう」
コップに水を入れて寝室に戻ると、下着姿の彼女がベッドに腰掛けて待っていた。コップを渡すと、すぐに飲み干した彼女が寝転がった俺にぎゅっと抱きついてきた。ペタリ。互いの汗ばんだ肌が張り付く音がする。夏場なら不快に感じるそれは、彼女となら不思議と嫌悪感はない。程よい倦怠感にまどろみながら、瞼を閉じようとすると、彼女が一層強く抱きしめてきた。
「ねえ、私、奏多くんとずっと一緒にいたい」
「どうしたんだよ、急に」
冷やかそうと思い、彼女の顔を見るとその顔は真剣で、なんとなく彼女が何を言いたいのかが分かった。とりあえず、彼女の頬に張り付いた髪の毛をゆっくりとどけてやった。
「おじいちゃんおばあちゃんになったら、縁側でお茶飲みながら笑いあったりしたいの。二人で長生きしたい。だから、煙草をやめて欲しいの」
少し潤んだ大きな瞳は、俺をまっすぐ捉えて離さない。彼女がいかに真剣に俺との将来を考え、どれほど俺の体を心配してくれているのかがひしひしと伝わってきた。
「もう、煙草は吸わないって約束して」
「うん、約束する」
そっと差し出された小指に、自分の小指を絡めると彼女は満足そうに笑ってゆっくりと目を閉じた。少しはだけてしまったシーツをかけ直して、俺もゆっくりと目を閉じた。
それから一ヶ月。改めて約束したのにも関わらず、俺はいまだに煙草をやめられずにいた。理由はわかっていた。
「佐藤くん、これ明日の朝に提出できるようによろしく」
定時まで残り三分というところで、横から「よいしょ」という声が聞こえたと思えば、重たい音を立てて書類の山が俺の机へと置かれる。明らかに一人で今日中にやるには多すぎる量に、思わず苦笑が漏れた。
「あの、さっき今日はこれが終わったら上がっていいって」
「ええっ。頼むよ、佐藤くん。若いから俺らおじさんたちより体力あるでしょ?それに俺が若い頃はこんなのと比にならないくらい仕事こなしていたよ」
太い手が俺の背中を軽く叩いた。「よろしくね」とだけ言って消えた上司に、唇を噛み締める。これが初めてではない。いつも、明らかに面倒な仕事が俺へと回ってきた。「若いから頭の回転早いでしょ?」「俺らが若い頃は」「これくらい普通だよ」これが仕事を押し付けるときの上司の常套句だ。まだ新入社員の俺が、上司に口答えできるわけもなく、ただ与えられた仕事をこなすしかできないことが、大きなストレスだった。
結局、書類の山を片付ける頃には、俺一人になっていた。上司の机の上に書類の山を提出してから会社を後にする。時計を見ると二十三時を指していて、いつもより遅くなってしまったと歩調を早めた。
乗り込んだ電車の中は、みんな死にそうな顔をしたサラリーマンばかりで、俺も側から見ればゾンビのように見えるんだろうなと思うと悲しくなった。最寄駅につき、鞄の中から煙草の箱を取り出す。喫煙所に留まる時間さえ惜しくて、周囲に誰もいないことを確認してから、煙草に火をつけて重たい煙を吐き出しながら家を目指す。疲れた。眠い。ムカつく。溜まった一日の鬱憤を煙と一緒に吐き出した。じわじわと心に余裕ができ始めた頃には、マンションの前に着いていた。煙草をアスファルトに投げ捨て、足で揉み消す。さすがにポイ捨てをする勇気はないので、それを拾って昼にコンビニで買い物したときにもらったビニール袋に吸い殻を入れた。
「ただいま」
ゆっくりと玄関を開けると、部屋は真っ暗で、寝室を覗くと穏やかな顔をして眠る彼女の姿があった。作り置きされた夕飯を温めて直して食べ、お風呂に入り、そっと彼女の眠るベッドに潜り込む。もうすでに時計の針は一時半を指している。こんなのは日常茶飯事だった。
彼女は、スーツに染み込んだ煙草の匂いや鞄の奥にぐちゃぐちゃに仕舞われた煙草の空き箱を見つけるたびに怒ったが、怒るだけではなかった。
ある日、会社で昼休憩に煙草を吸おうとカバンを漁ると、出てきたのは煙草ではなくココアシガレットだった時があった。唖然としていると、見計らったかのようなタイミングで彼女からメッセージが届いた。
「ココアシガレット懐かしいでしょ、煙草の代わりにココアシガレット休憩どうぞ」
あまりにも突飛な発想に危うく笑いそうになった。その日は仕事も落ち着いていたので、ココアシガレットを齧って煙草を我慢できた。家に帰り、空になったココアシガレットの箱を見せると一瞬驚いた彼女があまりにも満足そうに笑ったので思わず吹き出すと、彼女も一緒になって大きな声で笑った。他にも、煙草の代わりに、棒付きキャンディーや禁煙用に開発された煙草型のアイテムであったり、ニコチンなしの電子煙草を渡してきたこともあった。どれも渡されたその日は我慢できても、やはり本物の煙草には敵う訳もなく、次の日には我慢できずに吸ってしまった。誰がどう見ても俺は煙草依存症だった。そんな俺に彼女は頭を抱えていたし、俺も彼女のそんな姿を見たくないと思いつつ、もう煙草をやめることをやめたほうが楽なのではないのかというよくない考えも浮かんできていた。
「ねえ、奏多くんこれ見て」
久々に出勤時間が被り、一緒に駅に向かっている時、にっこりと笑う彼女の手に握られていたのは、ミントのガムだった。
「禁煙したときの口寂しさを和らげるのに、ガムって結構効くんだって」
「へえ、ありがとう」
「じゃ、今日も一日頑張ろうね」
「おう」
反対側のホームへと向かう彼女の背中を見送りながら、俺はガムをポケットの中に入れた。
その日の仕事は散々だった。明日締め切りの報告書に大きなミスが見つかり、それを修正しつつ、今週末までの企画の原案をまとめ、取引先へメールを送る。社内は上司の怒号と誰かが駆け回る音とひたすらにパソコンのキーボードを打ち鳴らす音だけが響いていた。やっとのことで昼休憩を迎え、昼食を取った後すぐに俺は喫煙所へと駆け寄った。限界だった。
ポケットからライターを取り出したところで、指先に別の固いものが当たった。取り出してみると、それは今朝彼女からもらったガムだった。一瞬、ライターの火をつけるのを躊躇う。彼女の真剣な目を思い出すが、喫煙所に漂う煙草の香りが俺を誘惑する。喫煙所の外を歩く同僚たちの顔はやつれていて、午後も激務に追われることは目に見えていた。午後を乗り切るのに、ガムなんかじゃ無理だよな。そう言い聞かせ、ガムをポケットに再び戻して俺は煙草に火をつけた。口元から漂う紫煙は彼女の真剣な瞳をかき消し、肺に沈み込んだ重たい煙がムカムカを沈めていった。
上司の理不尽な叱責にも耐え、なんとか一日を乗り切ったものの、心も体もボロボロだった。電車の窓に反射する自分の姿に、またため息が漏れた。ネクタイが曲がっていたが直す気力も湧かず、重たい足を引きずりながら自宅へと帰った。
玄関を開けると彼女が笑顔で出迎えてくれる。
「おかえりなさい」
「ああ」
「すごく疲れた顔してるね、大丈夫?」
俺の後ろをひょこひょこと付いてくる彼女が、いつもなら可愛いと思うはずが今日は鬱陶しく感じた。なんで俺ばっかり怒られなきゃいけないんだ。なんで彼女も仕事をしているはずなのに俺と違って笑顔でいられるんだ。心の底に沈澱した黒い何かが、段々と重みを増していく。
食事が用意されたテーブルに座ると、いつもはお風呂を温め直しに行く彼女がゆっくりと向かいに座った。
「奏多くん、また煙草吸った?」
その言葉にピクリと眉が動いた。その反応を彼女が見逃すわけがなかった。
「朝あげたガムは?」
ズシリ。黒い何かがまた一層重みを増した。
「同棲したら煙草吸わないって約束したのに。もう同棲して三ヶ月になるよ」
無言で味噌汁を啜る。少ししょっぱい。
「おじいさんおばあさんになっても一緒にいたいっていうのは、本当は私だけの願望なのかな」
あさりの酒蒸しを口に入れる。じゃりっと不快な食感がした。
「それにさ、同棲する前、奏多くん、子供は二人くらい欲しいよねって言ってたじゃん。煙草って子供たちにも良くないでしょ?」
焼き鮭と一緒に白米を頬張る。鮭の骨が舌に突き刺さり、思わず手で取り出した。
「ねえ、聞いてるの?」
無言を貫く俺に痺れを切らした彼女が俺の箸を取り上げた。その瞬間、黒い何かが俺のキャパシティを超え、溢れ出した。
「うるさいんだよ」
想像以上に大きく響いてしまった声に自分でも驚いたが、もう止まれなかった。
「煙草をやめろ、やめろ、やめろって。口を開けばそればっかりじゃないか。家では吸ってないからいいだろ。俺と同時に出勤しても俺より早く帰ってこられるお前に俺の何がわかるんだよ」
「私は、奏多くんの体を心配して」
「余計なお世話なんだよ。大体、子供とか年取ってからとか、正直言って、重い」
肩で息をしながら、言いたいことを全て言ってやったという満足感が心を支配した。彼女の手から箸を抜き取り、再び食事に戻ろうとした時、か細く震えた声がリビングに響いた。
「そう、思っていたんだ」
顔を上げると、目の前で立ち尽くしていた彼女の体は小さく震えていて、いつの間にかポロポロと涙が溢れ出していた。
「重くて、ごめんね」
泣きながら苦笑を浮かべる彼女に、俺が放った最後の一言が脳内でリピートされ、頭が真っ白になった。後悔するには遅かった。止めどなく溢れている涙が彼女の綺麗な瞳から溶け出しているように見えて、このままでは彼女の目が溶けてなくなってしまうのではないかという馬鹿な考えが頭に浮かんだ。足先が冷え、次の言葉がうまく出てこない。もし、うまく言葉が出てきたとしても、その言葉はきっと胡散臭く聞こえるに違いない。こんな時でも、心の底で「俺は悪くない」という思いが残っているから、素直に「ごめん」と謝る気にはなれなくて、俺に背を向けて寝室へと向かう彼女をただ無言で見送るしかできなかった。
味のしなくなったご飯を食べ終え、自分で風呂を温め直す。その間、寝室から彼女の啜り泣く声が絶えず聞こえ、なんとも言えない気持ちになった。そんな声を聞きたくなくていつもよりテレビの音量を大きくした。そうすれば、彼女のことを気にしなくて済むと思ったが、そんなわけもなくただ時間だけが過ぎていった。風呂も歯磨きも済ませても、寝室に入る気が起きなくてその日はソファで眠った。
次の日の朝、彼女は起きてこなかった。死んでいるのではないかとこっそり寝室を覗いたら、ただ眠っているだけのようだ。いつもなら彼女が俺より先に起きて朝ごはんを作って待っていてくれるが今日はそうじゃない。自分で朝ごはんを作るのすら億劫でいつもより早く家を後にした。「いってきます」は言わなかった。
コンビニで買ったおにぎりを食べながら会社へと向かう。彼女に「昨日はごめん」とメッセージを送ろうか迷ったが、まだ心の奥底で自分の非を認めるどころか、怒鳴ってしまった手前、素直に謝りたくないという変な意地を張ってしまっていた。同棲したら煙草をやめるとは言ったが、彼女と違って朝早く出勤して遅くまで残業し、上司にも理不尽に当たられている。そんな可哀想な俺に、煙草ぐらい許してくれたっていいじゃないか。そもそも、煙草を吸っているからといってそんな極端に寿命が縮むという確証はないではないか。俺は悪くない。煙草をやめろと言ってもやめられない俺をさっさと諦めてくれればよかったのだ。俺のことを愛しているなら煙草を吸っている俺だって紛れもない俺じゃないか。考えれば考えるほど、思考が狭くなり、自分が正当なものに思えてくる。
結局、彼女に謝罪のメッセージを送ることも、彼女から連絡がくることもなく、今日も激務を乗り越えた。家に帰ったら、何事もなかったかのように振る舞おう。そうすれば、いつもの痴話喧嘩をした時みたく彼女も「おかえり」と笑顔で迎えてくれるだろう。
だが、そんな考えは甘かったと玄関を開けて思い知らされた。
「ただい、ま」
家の中は真っ暗で、いつもなら駆け寄ってくる彼女の足音すら聞こえない。
「昨日のことまだ怒ってるのか?」
部屋の電気をつけながら、リビングへ向かう。リビングも、寝室も、クローゼットの中身もいつも通りだったが、彼女の姿だけが見当たらなかった。仕事で疲れていることもあってか頭は冷静だった。同棲し始めた頃にも一度、些細なことで喧嘩した時に彼女が無言で出て行ったことがあった。メッセージを送っても既読しか付かず、彼女の実家に連絡すると「うちには帰ってきていないが、連絡はついたから大丈夫」と言われ、その三日後に何食わぬ顔で彼女が帰ってきたのだ。帰ってきた彼女に駆け寄り、「心配で死ぬかと思った」と泣きそうな顔で彼女に縋ると、彼女は「ごめん」と笑った。後で聞くと、近所の安いビジネスホテルに泊まったと聞き、彼女の行動力と大胆さに頭を抱えた。彼女を本気で怒らせるのはやめようと心に誓った日だった。
そんなことがあったからこそ、どうせまたどこかに泊まって三日くらい経てばふらっと帰ってくるだろうと思った。それに、実家に帰るとしたらいくらか荷物は持っていくだろう。しょうがない彼女だな、と思いながら俺は眠りについた。
次の日も、そのまた次の日も彼女は帰ってこなかった。仕事から帰ってきて自炊する元気もなく、帰り道で買った冷たいコンビニ弁当を口に運ぶ。そういえば洗濯物も溜まってきたな、お風呂もまだ沸かしてないな。疲れ果てた体に、やるべきことが課されていく。段々苛立ってきて、煙草を咥えながらベランダへ出た。涼しい夜風に吹かれながら吸う煙草は格別だった。空には僅かに欠けた満月が浮かんでいて、はあっと吐き出した煙が、月へと重なった。スマホを開いても、通知は一件もきていない。彼女が出て行ってから、一回も連絡をとっていなかった。何か送ろうとも考えたが、どうせ帰ってくるだろうから、その時にまだ彼女が怒っていたら謝ろう。そう思っていた。
彼女が出て行って四日目。彼女のいない初めての休日を迎えた。彼女が帰ってきても大丈夫なように溜まりに溜まった食器や洗濯物を片付け、ひと段落していた時だった。机の上のスマホが小さく震えた。慌てて画面を見ると彼女からのメッセージのようだった。「今から帰ります」とかかな。少し頬を緩めながらメッセージを開いて、唖然とした。
「この四日間で、奏多くんの気持ちがよくわかった気がする。今までありがとう。重い彼女で、ごめんね」
は、と小さな声が溢れた。全身が一気に冷え、固まっていくのが分かる。慌てて通話ボタンを押した。一コール、ニコール・・・。しんと静まった部屋に無機質な呼び出し音だけが響く。十コールを過ぎたあたりでスマホが手から滑り、大きな音をたてて床に落ちた。彼女の実家にかけようとスマホを拾い上げようとしても、手が震えてうまくスマホを掴めない。ようやく掴んで彼女の実家に電話をかけた。出たのは彼女のお母さんで「奏多さん、彼女から連絡がきているでしょう。そういうことですから。私も、残念だわ」と言われすぐに切られてしまった。全身の力が抜け、思わず壁に背中を預ける。何も考えられなくなった頭の中で、ただ「もう煙草を我慢しなくていいんだな」とだけ思った。
それからどう過ごしたかあまり思い出せない。仕事から疲れて帰ってきて、コンビニで買ったお弁当を食べ、風呂を沸かすのも面倒でシャワーを浴びて死んだように眠る。それの繰り返しだった。俺が仕事に行っている間に、一度彼女が帰ってきたらしく、彼女のものは何もなくなっていて、部屋全体に不自然な空白が生まれていた。その時も特に連絡はなく、ただ机の上に、合鍵だけが置かれていた。もう、全てがどうでも良く思えた。
やっと仕事もひと段落した週末、部屋の空白をなくすべく久々に部屋の掃除を始めた。とりあえず彼女との写真やお揃いで買ったマグカップなどをゴミ袋へ入れていく。想像以上に物が多く、掃除を怠っていたこともあり、大体の作業が終わる頃には大禍時になっていた。最後に、リビングに置かれた棚の引き出しを整理する。もはや閉まり切らなくなった引き出しの中からは、いらなくなった書類や彼女と二人で水族館に行ったときに買ったキーホルダーなど色々なものが出てきた。それらを全てゴミ袋に入れ、引き出しを閉めようとすると、「ガコン」と鈍い音がしてきちんと閉まらない。どうやら勢いよく開けた際に、引き出しに入っていたものが奥へ落ちたようだった。大きくため息をつきながらゆっくりと引き出しを外し、手を突っ込むと、転がり出てきたのはプラスチック製の緑色の瓶と吹き棒で、すぐにシャボン玉だとわかった。瓶を振ると、まだたくさん入った中の液体がぶくぶくと泡立つ。ぼうっとそれを見つめる俺の頭に浮かんだのは半年前ほどの記憶だった。
同棲が決まった後の初めてのデート。新しく買う家具の下見を終え、二人で帰路についている時だった。
「ねえ奏多くん。シャボン玉やろう」
突然の提案に驚く俺を引っ張った彼女は、カバンからシャボン玉を出すと近くの河川敷へ俺を連れて行った。平日の夕方ということもあってか、人通りはほぼない。彼女から吹き棒を受け取り、「せーの」という掛け声に合わせて思い切り吹いた。風の向きが悪く、彼女の吹いたシャボン玉が全て俺の顔面へと直撃する。
「おいっ」
「あはは、ごめん」
顔についたシャボン液を必死に拭う俺を見て、彼女はお腹を抱えて笑った。シャボン液が目に染みてムッとした俺に気づいた彼女は、靴を脱ぎ、足だけ緩やかな流れの川に浸かりながら俺に当たらないようにシャボン玉を吹き続けた。
「でも、急にシャボン玉なんてどうしたんだ?」
「煙草の代わりになればいいなって。体に害はないし、綺麗だし、一石二鳥でしょ?」
夕日に照らされる水面を背に笑いかける彼女の笑顔があまりにも美しくて、目を奪われると同時にそのまま流れて消えて行ってしまうのではないかと不安になった。気づけば靴のまま川へ入り、彼女を抱きしめていた。
「どうしたの、奏多くん」
「俺、同棲始めたら煙草やめる」
「えっ」
驚いて離れた彼女の目をまっすぐ見つめる。
「もう、これ以上不安にさせたくないって、思った」
「嬉しい、ありがとう。奏多くん、大好きだよ」
「俺も」という一言が恥ずかしくて、少し涙ぐんだ彼女にゆっくりと唇を重ねた。
懐かしい記憶を辿りながら、バキバキと鳴る腰をさすりながらベランダへと出る。藍色になりつつある空は雲に覆われていて、ぼんやりとした月の光が、低い位置で輝いていた。ぽんっと小気味いい音を立てて空いた瓶に吹き棒を付け、ふうっと思い切り息を吐いた。吹き棒の先端から飛び出していく小さなシャボン玉たちは藍色に染まりながら風と共に流れていく。風に乗れず、俺の周りを飛んでいたシャボン玉がぱちっと小さな音を立てて弾けた。その拍子にシャボン液が目の中に入った。鋭い痛みに、ぽろりと涙が溢れる。
「くそ、なんだよ」
顔についたシャボン液を拭っているうちに、いつの間にかぼろぼろと大粒の涙が頬をつたい、ぼたぼたと音を立てながら地面にシミを作っていく。
「なんで、どうして、俺は」
今更走馬灯のように、彼女との楽しかった思い出が頭の中を駆け巡っていく。体の力が抜け、砂浜に打ち上げられたクラゲのようにへなへなと地面にへたり込んだ。ポケットからスマホを取り出し、彼女へと電話をかける。もちろん繋がるわけもなく、大量にメッセージを送っても既読すらつかない。
遅すぎる後悔が俺を支配していく。スマホを置いた拍子に、傍に置いたシャボン玉の瓶が倒れ、俺の足を濡らした。ヌルついた足のまま部屋へ戻り、鞄に入った煙草を全てゴミ袋へと押し入れた。きつく口を結び、玄関へと放り投げる。
前よりも少し広く感じる空白だらけのワンルームが俺を押し潰す。逆らう気力もない俺は、ただ冷たいフローリングに背中を預けた。揺れるカーテンの隙間から、いつの間に雲から顔を出したのか、綺麗な満月だけがこちらを覗いていた。