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美人なOLの飼い猫になった件について

作者: 666


 こつ、こつ、と遠くから響く音で僕は目が覚めた。


 いつの間にかすっかり眠ってしまっていたらしい。


 窓から差し込んでくる外の光も、さっきまではあんなに明るかったはずなのにもうすっかり暗くなってしまっている。


 意識が覚醒したばかりで、まだ少し朧げな頭の中を少しずつ透明にしていくように、こつ、こつ、という音をどんどん大きく僕の耳が捉える。


 聴覚がとても敏感になっているーーというのは人間の体からこの体になって、すぐに感じることのできた変化の1つだった。


 そのおかげで今まさに小気味良く鳴らされているヒールの踵を鳴らす音が、誰のものなのかも僕にはすぐにわかる。


 机の上に置いてある無機質なデジタル時計によれば時刻は21時30分、時間的にも間違いない。


 彼女が帰ってきたんだ。


 そう理解すると同時に自分の中を駆け巡っていくはやる気持ちが、小さなこの体に高鳴る鼓動が、早く彼女に会いたいと告げていた。


 起きたばかりの少しまだ固さの残る四足歩行で、僕は玄関へと走る。


 到着とほぼ同時にこつこつという足音は鳴りやんで、次に鍵束の鳴る音、そしてガチャリという扉の開く音がして。


 「わっ、お出迎えだね。ただいま、チョビ」


 黒いスーツを、かっこよく着こなす彼女がそこにいた。


 僕がわざわざ出迎えていたことが本当に嬉しかったのだろう。普段は綺麗な彼女の、どこか幼い笑顔を見て僕も嬉しくなる。


 「おかえり」

 

 彼女には決して届かない声で、僕はそう鳴いた。




×××


「おめでとーございます!あなたラッキーですよ!転生です!転生!」

 

 見渡す限りが白の世界で、僕は幼い女の子と対峙していた。

  

 「はぁ……、ところでここどこですか。あとあなた誰ですか」

 

 口にした後に、我ながらテンプレを言ったなと思った。


 視界のほぼすべてを埋め尽くす白で作られた異常な場所も、目の前にいる長い黒髪に白いワンピースを着た、どこか浮世離れした少女も、まるで物語の中の世界の始まりか終わりのような。


 そんな、テンプレート。


 とは言っても意識の覚醒とともに見ず知らずの場所と人物を目にしたらおそらく大抵の人はそう感じて、口にしてしまうんじゃないだろうか。

 

 どうやら僕もその大抵の人の中の1人だったらしい。


 「はえー!こりゃ見事に何にも覚えてないみたいですね」

 

 その瞳には僕のことが珍しく映るのだろうか。


 届く範囲で上から下まで僕の体をひとしきりぺたぺたと触って満足そうな顔をした後、目の前の女の子はニヤリと笑った。


「あなた死んだんですよ。わかりますか?死・ん・だ・ん・です、デスです。そう、Deathです!」


 どうでもいいけどこの場合正しくはDeadではないだろうか。

 

 どうやらこの子の言い分によると、文字通り僕は人生という名のデッドラインを超えてしまって、こんな場所にいるらしかった。


 「はぁ……、死んだんですか。そうですか……」


 あなた死んだんですー!と、そこらへんにいる人にいきなり言ったら、こいつ頭わいてんじゃねえのかと思われるであろう宣告をされたにも関わらず僕は全く動揺していなかった。


 なぜなら僕にとって世界というものは今初めて見たこの年端もいかない女の子と、この見渡す限りが真っ白な不思議な場所のことだからである。


 それ以前のことを何も覚えていない、知らない僕に対して生前の人生の終わりを告げられたところで、僕が思い出せることなんてものはつい何分か前のこの少女との邂逅からでしかない。


 むしろこの子が今から「な〜んて!実はぜーんぶドッキリでした〜!」とでも言ってくれて、何処からかドッキリ大成功と書かれた看板を持ってくる誰かが「あんた記憶喪失なのにタチの悪いドッキリでごめんねぇ」なんて笑いながら出てきてくれた方がまだ理解ができるし、僕の置かれている状況にも納得がいく。

  

 結論を言おう、僕は「僕が死んだ」という事実に全く実感が湧かない。

 

  物体も何もない、精神世界とでも言うような場所に流れる、なんともいえない空気と沈黙を破ったのは目の前の女の子の幼いかわいらしい声だった。


 「それでは先程の質問に答えましょう!まずここがどこなのかは私にもよくわかりませんっ!なのでお答えしかねます!」

 

 おいおい本当に大丈夫なのかこの子、見た目はかなり幼いし、背も低いし、もしもランドセル背負ってたら小学生にしか見えないけど。


「なんせ下っ端ですからね……あ、そうそうそれから私のことは、どうぞ天使ちゃんとお呼びください!」


 天使、いや自称天使ちゃんはそう言って自信満々に慎ましい胸をえっへんと張った。


 わぁ、痛々しい。

 あいたたた。と口に出して笑ってあげたいのは山々だったけれど、嫌でも視界に入ってくる一面の白が、この異常な空間が、どうやら死後に訪れる場所であるらしいという1つの見解を経て、目の前の女の子が本当に天の使いであるという事実を僕は一旦受け入れることにしてみた。


 「いまいちピンとこないんですけど、僕が何かしらの理由で死んでしまっていることは理解できましたーー」


 厳密には納得ができていないのだけれど。


 「それで僕はこれからどうしたらいいんでしょうか」

 

 「そりゃああなた転生ですよ?宝くじに当たるみたいなもんですよ!スーパーラッキーですよ!第二の人生楽しんじゃいましょうよ!」


 危ない宗教の勧誘の様な口ぶりだった。いや勧誘された経験は無いのだけれど。


 いやまて、この天使の言い分によれば僕は「何も覚えていない」のだから、もしかしたら生前にそういった宗教の勧誘を受けていたかもしれないのか。


 ところでこの天使ーー改め天使ちゃんの言う「転生」という日常生活においては聞きなれない単語に対して、幸か不幸か僕は先見があった。


 まあそのほとんどはアニメや漫画の受け売りなのだけれど。


 なんでも巷で流行している小説の投稿サイトなんかでは、もはや死んで異世界に転生することが当たり前の日常らしい。怖い日常だ。


 「それで僕は一体どんな世界に、誰として転生してしまうのでしょうか」

 

 尋ねる僕に対して天使ちゃんは右手と左手を大きくクロスさせてバツを作る。


 「教えませーん!教えられませーん!神様からダメって言われてます!」


 否定を重ねる言葉を言っているだけなのになんでそんなに嬉しそうなんだろうこの子……。


 「あっ!いけない!もうこんな時間です!」

 

 いつの間に取り出したのか左手に握ったスマホを見ながら焦るように早口で天使ちゃんはまくしたてる。


 いや最近の天使はスマホ持ってるんかい!すげえな!なんて野暮な突っ込みをもちろん僕は口に出してなどいない。


 「それではいきますよ〜、ちちんぷいぷい!」


 まるで魔法の呪文を唱えるかのように、天使ちゃんが右手の人差し指を宙に向けてぷいぷいっとすると、その瞬間に僕は世界の色が反転していくのを感じた。

 

 まるで真っ白なシーツに黒い液体をこぼしてできたシミが広がっていくかのように少しずつ、けれど着実に世界が白から黒に侵食されていく。

 

 「あの……まだ聞きたいことはたくさんあるんですが」


 世界の黒が目の前の天使ちゃんをも塗りつぶしていく。


 「ごめんなさいね。次がつかえてるんですよ……いや〜マジでブラック企業なんですよほんとに!休憩ないですからね、うちの会社!」

 

 自らの労働環境を嘆く幼女に見送られて、第二の人生を迎えようとしている僕だった。


 ちなみに休憩がないというのは労働時間にもよるが立派に労働基準法に違反している。

 裁判すれば高確率で勝てるから訴訟しよう、そうしよう。ところで僕はこれからどうしよう。

 

 なんだこれ。


 なんて戯言を考えているうちに世界からは白が消え、目の前の天使ちゃんも消えて、視界の全てが黒に染まると同時に僕の意識もそこで途切れた。



×××


「……っ、……うっ……」

 

 少しずつ鮮明になっていく意識の中で、その声は、聞こえてくる音は、彼女の泣いている声だと分かった。


 どうやら僕はまた寝てしまっていて、つい1週間前の体験を、夢に見ていたらしい。


 声の主はベッドに顔を埋めていてその隣に僕はちょこんと座っていた。

 

 その悲しそうな声を、時折漏れてくる嗚咽を聞くと、僕の心はちくりと痛む。


 僕が『チョビ』になってからーー。

 

 彼女の飼い猫になってから1週間が過ぎたが、夜が更けるとずっと彼女はこの調子だった。

 

 帰宅してテレビをつけては食事もとらずに缶ビールを一心不乱に次から次へと開けて泣いている。

 

 1週間も毎日続いた恒例行事のはずなのに、僕は未だにこれに慣れていない。

 

 彼女が泣けば、僕も悲しい。


 この1週間の中でいつの間にか、それはまるで条件反射のように僕の中に組み込まれていた感情だった。

 

 彼女が泣いている理由には少しばかりの心当たりが見えてきたけれど、それでも猫の僕が彼女にしてあげられることなんてなにもない。


 ただすぐ隣に座って、あるいは寝転んで、彼女の顔に僕の顔を近づけて、彼女のとても綺麗な顔が涙で歪んでいく様を見ていることしかできない。


 それでもこうして僕が自分から体を近づけると、彼女は必ず僕の事を撫でてくれる。


 「チョビ……」


 甘い吐息。そこに微かに混じるアルコールの匂い。

 彼女と彼女の猫はきっと一緒に暮らしてきて長いのだろう。

 彼女が触れる場所も、その触れ方も、名前を呼んでくれる声すらも、僕にとってはとても心地いいものに感じられた。


 「…………」

 

 時間が経って彼女の漏らす嗚咽が寝息へと変わると、少し気が軽くなる。


 眠っている間だけでも、彼女を苦しめるものから彼女が解放されているのなら、それは僕にとっても喜ばしいことだった。


 ベッドの上で安らかな寝息を立てている彼女の綺麗な横顔、少し濡れた長いまつ毛が揺れている。


 酔ったままベッドに倒れこんだから布団をかけていないのが気にかかるが、あいにく僕の体では彼女に布団をかけてあげることもできない。


 2Kのアパートの一室の中を彼女の寝息と、掛け時計の秒針の刻む音だけが支配していた。


 2Kのアパート。その間取りは初めてこの部屋に来た時に感じたほんの少しの違和感ではあった。

 

 その違和感の正体を、僕と彼女の生活の中で流れていく時間の中で、風景に溶け込んだ色んな物たちは教えてくれた。


 玄関にある彼女のヒールとは違う靴、洗面所の歯ブラシ、キッチンにあるマグカップも、青とピンクのスリッパも、1部屋に1つずつあるパソコンも。


 それから彼女の左手で、哀しげに光る指輪も。


 それら全てがこの部屋にいたはずの帰らない「誰か」の存在を明確に主張していた。


 どこの誰なのかはわからない、彼女と「誰か」の間に何があったのかも僕には分からない。


 それでも、彼女を苦しめている、彼女の綺麗な瞳を悲しみで歪めてしまっているはずのその「誰か」の存在が、僕には許せなかった。


 『チョビ』という彼女からの愛情を無条件で受け取れる存在になったことが、箱庭のようなこの空間での生活がそう思わせるのかは分からない。けれど、だけど、どうか。


 どうか世界がーー、彼女にとって少しでも優しいものになってほしい。


 そう願わずにはいられなかった。

 

 そんなふうに彼女のことだけを考えながら、僕は眠った。





 

 次の日の朝、彼女が支度を始めた音で僕は目を覚ました。


 コーヒーの匂いがツンと鼻をつく。


 それは人間の体の時であれば、清々しい朝に相応しく、鼻腔をくすぐる香ばしい香りのはずだったのに、この体になってからはお世辞にも好きになれそうになかった。


 カラカラ、と言う瓶の揺れる音を僕の耳が捉え、嫌でも無意識に体が反応してしまう。


 「チョビ、ご飯だぞー」


 そう言ってどこか悪戯っぽい笑顔を浮かべて、瓶から皿へと僕の餌をよそってくれる彼女からは、昨日の悲しみは欠片も感じられなかった。


 黒のスーツをかっこよく着こなして、髪を後ろで束ねていて、薄い化粧とほんの少しの香水の匂いを纏っている。


 そんな朝の彼女の姿が僕は大好きなのだけれど、少し腫れた彼女の瞼は昨日の夜の出来事が決して夢ではない事を物語っていた。


 彼女の好意に甘えて、僕は皿の上の餌をむしゃむしゃと何口か頬張る、これがどうしてなかなか美味い。


 そうして食事に夢中になっていると、視界の隅に支度を終えて玄関に向かう彼女の姿が映る。


 彼女が仕事に行くときは玄関まで見送りにいくのがこの1週間で培われた僕のルーティンだった。


 彼女はいつもの黒いヒールを履いてコツコツと踵の音を響かせ重たい鉄のドアを開けて。


 「行ってきます」

 

 それは僕に向けられたものなのか、それともここにいない「誰か」に向けられたものなのかは分からないけれど


 「行ってらっしゃい」


 彼女には決して届かない声で、僕はそう鳴いた。


 ガチャリ、とドアの閉まる音が鳴り、さて食事の続きでもしようかな、と皿の上の餌に思いを馳せた時のことだった。


 瞬きをした、瞬間。まるで瞬間移動でもしたかのように、箱庭の世界が一瞬で変貌を遂げた。

 

 記憶に新しい見渡す限りの白、それから


 「あら!お久しぶりでーす!えーめっちゃ可愛いじゃないですか、ちょっとモフモフさせてください!お願いします!」


 一体どこから現れたのか、僕の体の感触をすりすりと楽しんでいる天使ちゃんがそこにいた。


 「可愛い……えへへ」


 満面の笑みで僕の体を撫で回しながら悦に浸っている天使ちゃんに「おまかわ」とでも言ってからかってみたい衝動にかられたが、あいにく今はそんな軽い冗談が言える心境じゃなかった。


 「どうして僕はまたこんなところに来てしまったんですか」


 と思わず口に出してから気づいた。


 どんなに言葉を紡ごうとしても「にゃあ」とか「みゃあ」とか「しゃー!」とかしか言うことの出来なかった僕の口が人間の言葉を発していた。


 「なんかすんごい可愛いと思ってたのにいきなり人間の言葉話すとちょっと引きますね……」


 思わず後ずさる様に僕から少し距離を取り、憐れみにも似た、訝しむ様な視線を天使ちゃんが僕に向けてくる。


 うるさい、早く質問に答えてくれ。


 「あぁ、ごめんなさい。実はですね……」

 

 急に歯切れが悪くなり、若干の間が空いた後にバツが悪そうに再び天使ちゃんは口を開いた。


 「その……実は手違いがありまして……。ごめんなさいっ!ほんっとーにごめんなさいっ!」


 しゅたっ、という擬音が聞こえそうなくらいに見事なまでの土下座を決めて。


 「ほんと、マジで、ごめんなさいです」と呟く天使ちゃんに


 「いや、ちょっと顔上げてくださいよ」


 と声をかけると天使ちゃんは顔を上げてくれた。

 

 どうでもいいけど真っ白な世界で小さな女の子が小さな猫に対して土下座をしている構図がどことなくシュールでおかしい。


 「何の手違いがあったんですか?」

 

 検討もつかないので言葉の真意を確かめるべく聞いてみると、帰ってきた言葉は僕の予想の遥か斜め上を超えていた。


 「実は先日あなたがここに来た時にですね、その……私の説明違いがありまして、それはそれは上司にものすごーくお叱りをくらいまして……、先方にきちんと謝罪をしなさいと……。本当に申し訳ございませんっ!」


 まるで商談相手に不手際をやらかしてしまったサラリーマンのようだった。


 「ですので!説明違いがあったために!大変ご迷惑をおかけしますが!やり直しになります!はい!全部やりなおーし!」

 

 「えっ!?」


 思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


 やり直しって一体なにを、どこから。


 「短い期間ではありましたが、その猫さん人生は終わりになります!ん?猫だから人生じゃないですね…………ニャン生?」


 開き直ったように明るい声音だった、絶対に悪いと思ってないだろこの天使。

 

 「いやそんな急に言われても困りますよ」

  

 本当にその通りだった、急にやり直しだ。と言われても、この体との別れを『チョビ』であることからの離別を、何より彼女との別れがそう簡単にすぐには受け入れられない。

 

 たった1週間でしかないけれど、でも……。


 「本当に申し訳ないんですけれどね、もうこれ決定事項なんです。詳しい説明をすると社外秘情報に引っかかっちゃいますんで……その……」


 天使ちゃんは正座したまま、しゅんとうなだれながらバツの悪そうな表情を浮かべている。


 なんだか少し申し訳ない気持ちになったけど、だからといってはいそうですかと納得はできなかった。

 

 あと社外秘ってなんだ。どんな会社だよ天使が下っ端で上司が神って。

 

 生前の僕がどんな人間だったのか今の僕には分からない。


 何かしら未練の1つや2つはあるだろうし、もしも天使ちゃんの言うやり直しが、生前の僕をやり直せるものなのだとしたらそれは素晴らしいことなのかもしれないけれど。


 けれども今の僕にとっては、あの狭い2Kのアパートが、どうしようもなく流れていく彼女との時間こそが、世界の全てなのに。


 「本当にごめんなさい、だけど神様が決めたことなので私にはどうすることも出来ないんです……」


 「もう……どうしようもないんですか、僕は……チョビじゃなくなるんですか……」


 「はい。本当に残念ですが……」


 「そんな……じゃあーー」


 僕の彼女は、と言葉を紡ごうとしてハッとした。


 彼女は「僕の」彼女では……ない。


 彼女が僕に優しくしてくれるのは。


 体を撫でたり、名前を呼んだり、楽しそうに僕の右手に付いた肉球をぷにぷにしたり、嗚咽を漏らしながら強く僕のことを抱きしめるのは、全部。


 全部それは「僕」を通した「チョビ」に向けられているものであって、「僕」に対して向けているものではない。


 判明してしまった1つの事実に胸が痛くなり、それと同時にその役割は全て「僕」じゃない「チョビ」が果たしてしまえることにも気付いてしまった。


 僕が天使ちゃんの言う「やり直し」によってチョビではない「誰か」になってしまったとしても、あの2Kのアパートの箱庭の中は何1つ変わることなくその世界の時間を進めていけるのだということにも。


 「僕」という役者が「世界」という舞台からはじき出されて、お前はもう用済みだ、消えろ。と選手外通告を受けたような感覚だった。

 

 そんな僕の混沌とした頭の中をまるで見ているかのように天使ちゃんは申し訳なさそうな表情で僕を見つめる。


 「その……せめてもの配慮としてではないのですが、あなたがその体で過ごした時間の記憶もすべて無くなりますので……」

 

 一見するとそれは彼女との別れを永遠たらしめるものにも聞こえたが、見方を変えればありがたい申し出でもあった。

 

 「そうですか。そうしてもらえると……助かります」


 見えている「やり直し」という結末が、神の力か天使の因果かで不変の事象である以上、この1週間を忘れてしまえることは僕にとって救いの一手であることは間違いないと、そう思いたい。


 しばしの沈黙の後、1つの疑問をぶつけてみる。


 「それでやり直しとは……その、言葉が漠然としすぎていて意味がよくわかりません。もう少し詳しく教えてください」

 

 一体どこからやり直すというのか、生前の僕からやり直すのか、一度死んだはずの僕がもう一度生き返るのか、それとも生前には戻らず、転生という摩訶不思議な事象をもう一度やり直し、次の僕はどこぞの犬にでもなってしまうのか……。


 「詳しくは説明できません……社外秘です」


 あまりにも釈然としない対応だった。本社はどこだ。

  

 「社外秘のことは決して公開できないように、私たちにはそういう『制限』がかけられているんです。すみません」

 

 言わないのではなく、言えないらしかった。


 現代社会ならば間違いなくそんな会社訴えられてるだろう、裁判になれば絶対に勝てる、だから訴訟しよう、そうしよう、いやこのくだりもういいでしょう……。


 そこそこの時間を正座していて足が痺れてしまったのか「あいててて……」と足をさすりながら天使ちゃんは立ち上がり、大きく体を伸ばした。


 「それでは、時間が押してますので始めますね」

 

 その左手にはいつかのようにスマホが握られていた。


 「あの……あんまり気を落とさないでくださいね」


 僕の姿はいま現在猫のチョビの姿で、だから決して表情から僕の感情が天使ちゃんに伝わることなどありはしないはずなのだけれど、まるで僕の感情を汲み取ったような発言だった。


 「それではいきますよー、あぶらかたぶら!」


 いつかに聞いた呪文とは違う呪文を唱え、いつかのように天使ちゃんの右手の人差し指が宙をぷいぷいっとぷいすると、いつかのようにまた世界の反転を僕は感じていた。


 徐々に侵食されていく白の世界。


 黒の世界の進行と侵攻の中に取り残されている僕に天使ちゃんは言った。


 「もうこんなとこに来ちゃダメですからね」


 胸の前で可愛く手を振りながら、まるで天使のような笑顔を見せる天使の姿が徐々に黒に飲まれていって見えなくなる。


 一見感動の別れのようでもあったがよくよく考えてみれば天使ちゃんの言う「説明違い」がいったい何の説明を間違えていたのかの説明を受けていない気がする。


 慌てて尋ねようとしたが、既に天使ちゃんの姿は見えなくなっていた。


 まあ尋ねたところでまた「社外秘です」と返答されそうな気もするし、あと少しで天使ちゃんとの一切合切の記憶もきっと無くなってしまうのだろう。


 うーん、実に釈然としない。もしもまたこの世界に来ることがあるとすればあの天使ちゃん以外の担当をつけてほしいと切に願う。


 とかなんとか考えているうちに視界の全てが黒になってしまい、地に足がついているのか分からない気持ちの悪い感覚を覚えると、自分と世界との境界線もわからなくて少し恐怖を覚え、それを払うかのように僕は彼女のことを思い浮かべた。


 ああ、どうかーー。


 その祈りが届いたかどうかはわからない、意識までもが、闇に飲まれた。




×××


 見覚えのない天井だった。

 

 「痛っ……」


 体を動かそうとすると全身に鈍い痛みを感じ、視線を動かすと清潔な白いシーツが広がるベッドに僕は横になっているらしいことが分かった。


 はて、どうしてこんなところで寝ていたんだろうと考えを巡らせた時、ガラガラと扉の開く音がして反射的にそちらを見た僕は部屋への来訪者と視線が合った。


 瞬間。ここがどこなのか、自分が誰なのか、なぜここにいるのか、どうして目の前の「彼女」の瞳から涙が溢れているのかも僕には分かった。


 「あっ……ああっ…………」


 スーツ姿の彼女は信じられないと言った表情で、僕の方へ駆け寄ってくる。


 「ごめんね」

 

 と謝る僕に


 「よかった……もう目を覚まさないかと思って……ほんとに……よかった……」


 そう言ってまた止めどなく溢れてくる涙の出所を塞ぐように、彼女は寝ている僕の胸に顔を埋めて、何度も何度も僕の名前を呼びながら子供のように泣きじゃくった。


 「心配かけて……本当にごめんね」


 そう言って僕は不意に握った彼女の左手の、自分と同じ場所にある指輪を見て、婚約者を1人残したままこの世を去った大バカヤロウにならなくて良かったと、安堵した。


 「ーーくん」

 

 顔を上げて僕の名前を呼ぶ彼女。


 「もう絶対に……私を1人にしないでね」


 「ーー約束するよ」


 そう言って僕は彼女の涙を拭った。



 

 彼女の言葉を一部借りると、事の顛末はこうだった。


 二人で仲睦まじく夕食を取っている途中に、やたらと食卓に乱入してくる飼い猫のチョビを見て、彼女がその日すっかり猫の餌を買って帰るのを忘れてしまっていたことに僕たちは気付いた。


 まさか人間だけご飯を食べて同居人の一人である猫のご飯が無いのも由々しき自体なので、彼女を自宅に残して僕が自転車で近場のスーパーへと買い出しに出かけていた時のことである。


 詳しくは僕も記憶があやふやなのだが、そこで僕は交通事故にあった。


 外傷は殆どないものの、どうやら頭をひどく強くぶつけたらしい僕は、そのまま意識不明の重体として救急搬送されて……。


 戻るかどうかもわからない意識のまま、生と死の境目を彷徨っていたらしい。

 

 今日でちょうどその事故から1週間なのだそうだが、そんなに長い間寝ていた自覚はもちろんない。


 まだ新しい会社に入社したばかりだった彼女は有給が取れずに毎日仕事が終わっては病室へと足を運んでいてくれていた。


 そんな日々が1週間繰り返され、このまま一生目覚めなければどうしようと思われていた矢先に僕は目を覚ました。

 

 きっと泣き虫で心配性な彼女の事だから、毎日一人で泣いていたんじゃないだろうかと考えると胸が痛くなる。


 

 僕が生きててよかった。なんて月並みな言葉が誰かから向けられることも、それで救われてくれる誰かが居てくれることも本当に嬉しかった。


 僕の胸の中で泣く彼女と、ドタドタと医者と看護師の人たちが部屋に入ってくるのを見ながら、僕はそんなことを思っていた。




 ーーそれから僕の退院までには一ヶ月の月日を要した。


 

 「なんか久しぶりだね、今日すごい美味しいご飯つくるから!」


 実に一ヶ月ぶりに帰ってきた僕たちの家を前にして、彼女はそう言った。


 「楽しみにしてるよ」


 彼女の作るご飯はとても美味しい。やっとあの塩気の薄い病院食から解放されたと思うとたまらなく嬉しい。


 

 とはいえまだまだこれからやることはたくさんある、定期的に検査があるから通院しないといけないし、復職もしないといけないし、保険の手続きも、ああそれからーー。


 「式の段取りも決めないとね」


 僕がそういうと彼女はどこか恥ずかしそうに、だけどとても嬉しそうに笑った。


 玄関の扉を開けて、そこに出迎えてくれているもう一人の同居人を見ながら彼女は幸せそうな笑みでこう言った。


 「チョビ!ただいま」


 彼女と僕のことを見てなんだか嬉しそうなチョビを見て、なんだか僕も嬉しくなる。


 そんな光景は物語に例えるならば、きっとありふれた一ページ。

 どこにでもあるささやかな日常の一欠片。

 そんな中で僕は

 

 

 どうかーー。

 彼女が幸せでありますように。

 


 そんなことを、考えていた。

 




 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

 

 稚拙な作品だったとは思いますが、少しでも面白いと思っていただけたのであれば幸いです。

 

 何か一言でも感想をいただければ本当に嬉しいです。


 読了いただき、本当にありがとうございました。


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[一言] とても面白く、スラスラと読むことが出来ました。 次回作、期待してます。
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