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私はウィトゲンシュタインと宮沢賢治の同一性を証明したいわけでもないので、最後に自分の感想を書いておく事にする。
過去に様々な宗教戦争があり、それはそれぞれの神の戦いだった。神が戦いの原因だったわけだが、もし民族とか、一つの集団が神を上に戴いていなければ、それぞれの個人レベルで闘争が起きるかもしれなかったので、神による統一は平和的達成とも言えるだろう。
共産主義は今から考えれば、キリスト教の変質したものだったと言えるし、現代においても「神」は様々に変形したものとして現れている。「AI救国論」なんてものを書いていた人間がいれば、これは古い宗教がいかに最新の見かけを装って出てくるのかのいい例だろう。結局、人は古いものに新しい衣装を身に付けさせて崇めるというゲームをやり続けるだろう。そのゲームはそれぞれの神の戦いという形を取るだろう。
宮沢賢治という人は、普遍宗教を目指していたが、その愛と平和の総合性は語り得ないものとしてしかありえないのだと直感していたように思える。「銀河鉄道の夜」が夢物語的であり、彼の物語が童話的なのは彼の資質による。しかし、この童話的な物語が「現実に可能」だという風に考えると、それは現在のサブカルチャーや俗な知性が広げている観念に近づいていってしまう。
「君の名は。」や「シン・ゴジラ」という作品は今から考えると、子供向けの作品だったように思われる。それは実際の子供向けではなく、子供の精神を持つ大人向けのファンタジーだった。そしてそういう人が今や主流だからこそ、それは流行るし、容認される。子供が、自分の怖いものから目を背けた時、その子に対して「あれは存在しない。嘘なんだよ」と言うのが良き大人のする事だろうか。あるいは大人も一緒になって「子供」になるのがいい事だろうか。
宮沢賢治の追求した普遍的な神が現実性を持つのは、それが現実的な効力を持つ優れた宗教概念たりうるのは、現実にはそれは達成不可能であると感じられていた為に他ならない。ジョバンニが口に出したように、言えば誤解されるものだと深く宮沢賢治が認識していた限りにおいて、それは現実的な物語だった。口に出せば嘘になるような真理を心に抱えて生きる事しか人間にはできないのだと思われているからこそ、その裏側には宮沢賢治がおそらくは辿ったであろう苦い現実経験がほのめかされている。
おそらく、現代における宗教性はこんな風にしてあくまでも現実性を徹底的に敷衍するその先にしか得られないだろう。それが語り得ないものだと認識されるまでには、自分の理想を挫折させておかなければならない。
現代は集団でまとまって中途半端な夢と現実を混淆して楽しんでいる状況にある。これらの人達には「語り得ない」という言葉の意味は通用しないだろう。ジョバンニの言葉のように、それを言う『彼』の語る言葉は彼らに対しては空転し、意味のないものとして映るだろうが、それでも語り得ない言語を有しているという意味において彼は彼らよりも優位を保っている。この優位は現実における彼らの挫折が進んでいくにつれ、よりはっきりしていくだろう。精神の深い部分を極めた部分がよりくっきりしていくだろう。そしてその事は宮沢賢治の作品が現代にも通用するという事と、どこか通底しているだろう。