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宮沢賢治が目指していた普遍宗教が、意味を持つのは先に言ったようにそれが「語り得ないもの」として認識されているからである。これが単一の概念となってしまえば、イデオロギー闘争になってしまう。
言い換えれば、普遍宗教は語り得ないもの、作中の設定で言えばあの世のような、この世ではない場所でこそ展開しうる概念であって、それは地上においては数々の闘争となって、その闘争を制しようとするとまた新たな闘争を引き起こすだけになってしまう。だからジョバンニの言葉は空転するしかない。この言葉が虚しく空転する事に最大の意味がある。それに比べれば青年の言葉は、通用し、意味として通じるからこそ、ごく普通の党派的段階に留まる。
作中では、ジョバンニは一人だけ、「どこまででも行ける」切符を持っている。これはジョバンニがいじめられっ子であり、その受動的な世界に対する姿勢が「聖性」を持っているからとも考えられるが、私はそれ以上に、ジョバンニが普遍的な語り得ないものを心の中に握っている、その為に作者がジョバンニを「どこまででも行ける」のだと規定したように思われる。それに比べると青年や女の子は「語りうる」次元の概念としての神を信じているから、途中で列車から降りる。そこに違いがある。
そういう意味においては、哲学という道においてもウィトゲンシュタインは「どこまででも行ける」切符を持っていたとも言えるだろう。