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ここで今話している問題はさほど難しいものではない。簡単なものと言ってもいいだろう。
例えば、平和というものを考えてみよう。ここに、一人の平和を愛好する紳士がいるとする。彼は誰よりも平和を愛する。
さて、その温厚な紳士に誰かが「いや、私は平和に反対する。私は戦争を、暴力を望む」と反論する。紳士は最初、平和の素晴らしさを説くのだが、相手は聞き入れない。その内に双方激してきて、喧嘩になる。最後には紳士が反対者を殴り殺す。彼は手についた血を洗いながら「やれやれ、これで平和は守られた」と独語したら、そこに「平和」はあるだろうか。
とある他人にしつこく付き纏っている人を観察するはめになった事があるが、彼は自分のしている事が相手の為になっていると信じていた。その人はほうぼうで揉め事を引き起こしてきたが、本人は全く善意のつもりだった。その人間は色々な事に通暁する賢い人物だったが、書物に向ける知性を自分のしている事にだけは向けるつもりはなかったらしい。彼はずっと正しく、ずっと清いままで、それ故、まわりの人間はみんな彼を避けるようになった。
平和というものも、一つのイデオロギーなので、平和を巡って喧嘩すれば、戦争になり、平和ではなくなる。では、平和とはただの言葉なのか。それは実行すべき概念なのか。もし平和を望むなら、最終的には無条件に相手の暴力に服従し、自分が死ぬのを許可しなければならないが、そこで流される血は「自分のものだからいいのか」と考えると、それを平和と呼んでいいのか、わからなくなる。
またこの逆の、平和の為の戦争、というのも正当な概念として通用しうるが、それはどこまでも平和の為に世界中を支配し、一人残らず自分の考えと一致させなければならないという強迫観念に繋がっていく。宗教における伝道は、異質な他者に対する恐怖から始まる。他人が他人であるのが怖いという事から、平和(同一化)と戦争(殲滅化)の闘争が始まる。