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時の檻  作者: YAEpon
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第三章 ―智弘 過去―

第三章 ―智弘 過去―


「名前は?」

俺の向かいに座った四角い顔の濁声の男が俺に聞く。

ちょっと離れた机には細い顔の男。

どちらの男もとてもごつい体格をしていた。何かのアスリートだと言われれば信じてしまうだろう。

「五辻…智弘です。」

俺は素直に答える。

それを顔の細い男がメモしているのがわかった。

「被害者はお前の知っている人物なのか?」

イライラとしながら四角い顔の男がまた聞く。

「母です。」

「そんなわけないだろう!」

四角い顔の男が机を思い切り叩く。その勢いで机の上に置かれた備品が倒れた。

だが男はそんなことは気にせずに言葉を続けた。

「彼女がお前の母親のわけがないだろう。いい加減なことを言うな!」

「…」

俺は何も返事をしなかった。

いい加減なことを言っているわけじゃない。

本当のことだ。だが、普通は信じられない。それだけだ。

俺が何も答えないので、四角い顔の男がふんっと鼻を鳴らし、倒れた備品を直した。

「じゃあなぜ、彼女の首を絞めた?」

男は俺をにらみつける。

「母さんが…俺に気付いてくれなかったから。久しぶりに会えて、嬉しかったのに…」

そう、本当に会えて嬉しかったんだ。

学校から家に帰ると母さんと一緒にお菓子を作って…それを食べた。

買い物帰りの母さんを見て、それを思い出したんだ。

母さんがいなくなってから、ずっと寂しかった。

授業参観、ほかの友達はみんなお母さんが来ているのに、俺には見に来てくれる母さんはいない。

父さんはできるだけ時間を作ってくれたが、平日の昼間に行われる授業参観にはなかなか来てもらえなかった。

遠足のときのお弁当も、父さんが買ってきたお惣菜を自分で弁当箱に詰めて持っていった。

年齢が上がってからは俺が家事を担当した。

父さんは仕事で遅いから自分の分だけ作って食べることが多かった。

たった一人の食卓。

テレビではパロディーでだって家族で食卓を囲んだ映像だ。

つらくてテレビはあまり見なかった。

思春期になって親の文句を言う友人。

笑って聞きながら、余計に寂しくなった。

俺は優しい母さんしか覚えていない。

母さんがいた時は、まだ俺が小さかったから、やさしかっただけかもしれない。けど、喧嘩や反抗できる人物がいる友人たちがうらやましかった。

うざい親が家にいないのがうらやましいと言われたけれど、俺は怒りをどこにぶつければいいのかわからなくてイライラしていた。

そんな子供の頃の事をいろいろ思い出した。

そしてあの時、母さんに会えたんだ。

だけど、母さんは俺に気付いてくれなかった。

ぱっと母さんの顔が浮かぶ。

あの時の表情のない闇色の瞳。

道路に転がって、動かなくなった。

俺が殺したから…。

「ッ…アァァァァ」

手をばたばたと動かそうとするが、手錠につながれているのでうまく動かない。

手首に金属の輪が食い込む。

痛い。

だがその痛さよりもこの現実が怖く、辛かった。

俺が母さんを殺した。

「医者を呼べ!」

四角い顔の男が叫び、俺を押さえつける。

離れた席の男も呼び出しボタンを押してから俺を押さえつけるのを手伝った。

「舌をかませるなよ!」

そんな声がして口の中に何かが詰め込まれる。

だが、もう頭が真っ白でよく分からなかった。

あわてて部屋の中に入ってくる医者。

「しっかり抑えてください。」

そう指示をして、俺に注射を打つ。

そんなことにはかまわず暴れ続けるのだが、叫びすぎて酸欠になっているのか、薬が効いてきたのか、頭がくらくらとしてそのまま何も分からなくなった。

目を覚ますと自分に振り当てられた病室に一人、寝かされている。

医療刑務所に入ってからというもの、そんな取り調べの毎日となった。

母さんを殺した時の状況を何度も聞かれる。

今でも残る首を絞めた時の手の感覚。

俺の両腕に残された、母さんが抵抗した時についた引っかき傷。

空虚な…表情のない闇色の瞳。

思い出すたびに暴れ、精神安定剤を撃たれた。

そのせいなのか、病室にいるときもずっと俺の手錠ははずされなかった。

しかし、ちゃんと取調べに答えられる時には『母さんを殺した』と今までの発言をずっと繰り返していた。

だがもちろん信じてはもらえず、『いい加減、本当の事を言え!』との警官の怒号は毎日のように続いた。

だが、俺の発言は本当の事だ。

本当の事ではあるが、誰も信じられはしない。それだけだ。

信じていないのだから『では、どうやって過去にやってきたのか?』という質問を、警察にされる事はなかった。

あのタクシーに乗った俺自身、半信半疑だったのだから、経験していない者が信じられないのはあたりまえだ。

だからタクシーの事は警察には話していない。

(でも、あのタクシーはなんだ?)

疑問がわく。

《タイムマシーンが開発された》

なんて事があれば、部署の違う自分の耳にも入ってきておかしくない情報だ。けれど、そんな話は聞いた事はない。

病室のベッドに横になった。

真っ白な天井から、鉄格子のはまった窓へと視線を移す。

白い少し欠けた月が見えた。

隙間風が冷たい。もう季節は冬に変わったのだ。

「静かだ…」

取調べのないときはゆっくりした時間がすごせる。

だが、俺はどうしたいのだろう?

母を殺してしまって、しかも過去に取り残されたまま…

(このまま死刑になるのも良いかもしれない。)

そんな思いにとらわれる。

俺はゆっくりとまぶたを閉じた。


ガチャン

大きな音がして、病室の扉のノブが回る。

「この度、貴方様の弁護士に選任されました桑野と申します」

男は入り口でそう言うと、深々とお辞儀をし俺のほうへとすたすた歩いて来た。

そして握手を求められ、それに応じると次は名刺を差し出した。

俺はその名刺を受け取って、名刺と男の顔を交互に見た。

名刺には【弁護士 桑野誠一】と入っているし、着古した様子の背広には弁護士バッチが付けられている。

確かに弁護士なのだろうが、気弱そうな雰囲気だし、細い顔にかけられた銀縁のメガネがやたらと目立ってトンボのように見える。あまり弁護士らしいとは思えない風貌だ。

「なぜ、弁護士さんが?」

聞いてから、以前の取調べで弁護士がどうのと聞かれていたのを思い出した。

「はい、裁判の日程が三ヵ月後に決定いたしまして、貴方様には懇意にされている弁護士がいらっしゃらないとのことですし、わたくしが国選弁護人ということで派遣されました。」

この男が俺の担当になった弁護士。

無駄に丁寧な口調の男だ。

「よろしくお願いします」

俺は頭を下げた。弁護士は俺よりも深く頭を下げた。

口調といい動作といい、本当に無駄に丁寧だ。

(裁判が決まったのか…)

はーっ

俺はため息をついた。

このままこの状況がよいとは思わない。

だが、裁判をしたところで自分がやったと認めているし、日中の事だから目撃者だっているだろう。有罪は当たり前だ。

わざわざ裁判をするほうが無駄な気がする。

「わたくし、五辻様のために誠心誠意努力いたしますので」

俺のため息が弁護士への不満と取られたのか、桑野は慌てて言う。

「いえ、自分は犯行も認めてますし、死刑になっても良いかと思っているんです」

本心を話す。

いっそのこと、もう殺してくれ。

そう何度も思っている。

「そんな、死刑なんて!命は大切にしなくては。」

『命を大切に』なんて、日常ならばよく聞く言葉だろうが、殺人犯にこんなふうに言う台詞だろうか?

「ま、座ってお話ししましょう」

桑野はそう言うと、片隅にたたまれていたパイプ椅子を二脚持ってきた。そして、向かい合う形で置く。

どうぞと促され、俺は椅子に腰掛けた。それを見て桑野もゆっくりと腰掛ける。

「五辻様の場合、状況証拠も物的証拠も揃っていますので、犯行を認めざるをおえません。しかしながら…」

桑野は持ってきていた風呂敷包みを開き、書類を取り出した。

「自分のお母様を殺害されたと供述されていますね。」

俺は頷いた。

「七歳年上の女性をお母様だと言い続けられておられる。」

もう一度頷く。

桑野は納得したように何度も頷き、自分のひざの上に置いた書類をパラパラとめくる。

「そこでですね、五辻様には今後も一貫してその供述を続けていただきたいのです。」

書類から目を離し、俺の目を見てまた話を続ける。

「気分を害されてはなんなのですが、裁判では精神鑑定を要求し、責任能力がなかったとの方針で進めてゆこうと思います」

「でも…」

手のひらを俺の前に出し、続く言葉を制した。そしてにこりと微笑む。だが、その微笑は口元だけで、メガネの奥の目元はまったく笑っていなかった。

俺は急にこの人物が怖くなった。

丁寧な言葉遣いと動作、気弱そうな雰囲気。

そんなことから桑野は弁護士向きじゃない弱い人間なのだと思ったが、内面はまったく違うのだと分かったからだ。

「では、お疲れでしょうし、今日はご挨拶だけの予定でしたので、この辺で失礼させていただきます。」

桑野は深々と頭を下げ、にっこりと笑った。今度は本当の笑顔だ。

「またお伺いしますので、よろしくお願いいたします」

桑野はスタスタと病室を出て行き、ドアの外に待っていた警官に一礼する。

警官は何かメモを取ってから病室の中を確認すると、勢いよくドアを閉め、外から鍵をかけた。


警察の取り調べ、弁護士の訪問が繰り返され、初公判の日が訪れた。

もう季節は春になり、医療刑務所から連れて来られ、裁判所に入るときにチラッと桜の花が咲いているのが見えた。

裁判所の外はざわざわしていた。

報道陣が来ているのだろう。記者の経験からそう思う。

ただ、その報道陣が俺の事件を伝えたくてやってきたのか、ちょうど同じ日にもっと大きな事件の判決があるのでやってきたのかは俺にはわからない。

まさか自分がこのような形で裁判所に出向くことになるとは、記者時代には考えもしなかった。

「座れ!」

立ち止まり、法廷を見回していた俺を警官が小突く。ちょっとよろけたが、すぐに体勢を戻し、目の前の椅子に腰掛ける。

警官は俺の手錠につながった紐を握ったまま、俺の後ろの椅子に座った。

その様子を見ていた桑野はその警官を睨み付け、俺の横に腰をかける。そしてどさっと風呂敷包みを机に置くと中を確認し始めた。

整理を終えると微笑みかけてくる。

「今日は初公判ですが、大丈夫ですよ。あまり緊張なさいませんように。五辻様に今までと違う質問がおよぶことはありませんので。」

桑野はまっすぐ前を見据えた。俺も目の前に視線を移した。

がっちりとした体格の四角い顔の男を中心に、三人の人物が座っている。

四角い顔の男は俺の取り調べをしていた人物だ。

その男の他に向かいの席に見たことはある顔はないか探したが、知っている顔はなかった。

次は傍聴席のほうへと視線を移す。小さい部屋なのにがらがらだ。

裁判所に来ていた報道陣は他の判決の報道をしに来ていたのだ。

俺は少しだけほっとした。

「あっ」

思わず小さく声が漏れる。

傍聴席に知ってる顔があった。

父さんが母さんの遺影を持って傍聴席の前のほうに座っている。

子供の俺の姿はない。

まあ、俺自身が子供のころに法廷を見に来た覚えがないのだから当たり前だが。

遺影の母さんは俺が子供のころ見ていたあの明るい笑顔で笑っていた。

俺はそれ以上写真を見ることができなかった。

これ以上、あの写真を見ていたら母さんの顔が、俺が殺したときのあの顔に変わるのではないかと恐ろしかった。

視線を泳がせる。

(シゲさん…)

シゲさんの姿もそこにあった。

傍聴席の後ろのほうでメモを取っていた。

俺が知っているシゲさんよりも若い。白髪もほとんどないし、引き締まった体つきをしている。

ふとシゲさんが顔を上げたので、俺は別のほうへと視線を変えた。

尊敬するシゲさんに、被告人としてここにいる姿を見られるのはとても恥ずかしかった。

部署は違うが、いろいろアドバイスをしてくれて、俺や響子にとって政治部のデスクよりも頼りになる人。

「どうかいたしましたか?」

桑野が聞いてくるが、「なんでもありません」と返事をした。

知ってる人物が傍聴席にいるという事は弁護士の桑野には言わずにおいた。

言っても信じてもらえないだろうし、シゲさんに迷惑がかかっては困る。

この時、まだシゲさんは俺のことを知らないのだから。

カンカン

木槌を叩いた音が部屋に響き渡る。

音に振り返ると、いつの間にか裁判席に何人かの裁判官が整列していた。

挨拶の後、初公判は粛々と進められていった。

裁判長の目の前に置かれた証言台に連れて行かれる。

「被告人、氏名・年齢・職業・住居・本籍を」

重々しい裁判長の声だけが響いた。

「五辻智弘…」

俺がそう言うと後ろの席からざわめきが漏れた。

「静粛にっ」

裁判長が言うと、傍聴席はまた静かになった。

「被告人、続けて下さい。」

俺は職業を無職とした以外、本当のことを話した。

職業を無職としたのは、俺自身がもう記者としての資格がないと判断したからだ。

シゲさんからも『報道に関わる者がやましい行いをしてはならない』と言われていた。

殺人を犯した俺が記者を名乗る資格などありはしない。

俺が答え終わると証言台から桑野の隣へと移動させられ、また座らされた。

次にあの四角い顔の検察官が起訴状を読み上げる。

「被告人、五辻智弘は昨年一〇月九日、世田谷九丁目路上にて五辻孝子さんを絞殺。これは刑法第二十六章、第一九九条の殺人罪にあたるとして死刑判決をのぞみます。」

検察官は読み終えるとその起訴状を裁判長に渡す。

裁判長は内容を一読して確認すると、隣の裁判官に渡した。

「では被告人、この起訴状に関して事実として認めますか」

裁判長は俺に黙秘権が使えるから言いたくない事は発言を拒否することもできるということを説明してから聞いた。

「はい…間違いありません。」

俺はそれだけ答えた。

全て事実だし、黙秘権なんて使う必要がない。

「では弁護人」

「はい、起訴状に関して内容を認めます」

桑野もそう答える。

次にまた検察が発言した。

通りかかった女性を突然殺した事。現場にはその女性の息子がいて、犯行はその子供の目の前で行われたことなどを訴えていた。

事件の詳細が思い出される。

手にまだ母の首の皮膚の感触が残っている気がして、両手を握り締めた。

手のひらにツメが食い込み、その痛さで母の皮膚の感触は薄れる。

(あのタクシーはなんだったのだろう?)

手はまだ握り締めたまま、そんな疑問が浮かんだ。

(あのタクシーが現れなければ、母は死なずにすんだ)

確かにそうだろう。自分がこの時代に来なければ事件が起こる事はなかった。

じゃあ、自分の起こした行動を、そのタクシーのせいにしたいのだろうか。

(いや、違う)

手に更なる力がこもる。

自分は己の罪を受け入れる事を放棄したい訳ではない。知りたいだけだ。あのタクシーの秘密を…。

思いをめぐらせていると、隣の桑野が立ち上がったので、そこで思考が終わる。

桑野はそのまま裁判長の前へと歩み出ると、裁判長に『精神鑑定』を求めた。

それは容易に認められた。

警察官の方は不満げに俺を睨んでいるような気がしたが、この状況ならばしかたがないのだろう。

その後も証言調書の提出などの事務的な作業がなされ、一通り終わると裁判長はまた木槌を打ち鳴らした。

「立て」

後に座っていた警官が紐をひっぱる。桑野がまた警官を睨んでいる様子だったが、警官はまるで気にしない様子で歩き出した。

この警官は桑野がホントは恐ろしい人物だと知らないのだろうか?それとも平静を装っているだけなのか?

それは全く分からなかった。

傍聴席の前を通る時、横目でまず父さんを見た。

遺影を抱きしめてうなだれていた。

そしてシゲさんを見る。

尊敬する先輩にこんな状況で会いたくはなかった。

シゲさんも俺を見ていた。そして、手帳に何かを書き付け胸のポケットにしまった。

この裁判の事を記事にするのだろう。

俺は歩くスピードを変えずに、そのまま部屋を出た。


「はじめまして五辻さん」

白衣を着た小太りな男性が入ってきた。

それはいつも俺のことを見ている医師とは違う人物だった。

「先日の公判で精神鑑定が請求されたのは覚えていらっしゃいますか?」

柔和な笑顔で俺に問いかける。

「はい」

公判が行われたのは一週間ほど前だ。まだ忘れるわけがない。

「そこで桑野弁護士に依頼されてきました田沼です。よろしくお願いします。」

精神科の医師だからなのか、それともこの医師の性格なのか笑顔を崩さない。

「よろしくお願いします」

返事をするが、笑顔で挨拶する気持ちにはなれなかった。

この結果しだいで俺の罪が決まる。

「では早速はじめますね」

医師は何枚かの紙を取り出した。

「これは何の形に見えますか?」

カラフルなインクのしみが対称の形になっている。

確かロールシャッハテストとか言うものだ。

「蝶に見えます。」

思ったとおりに答えた。

どのように答えればどう判断されるか、とういう事までは知らなかったので、正常だと判断されるにはどう答えれば良いかなんてわからない。

でも、俺が精神的に疑われているのは過去に来てしまったと発言し続けていることだけだ。

なら、変に小細工をしなくても責任能力はあったと判断される可能性が高い。

「ではその蝶の形をこの絵の上で説明しながらなぞってもらえますか?」

医師はまるで表情を変えず、ずっと笑顔のまま質問する。

「こことここが羽で、ここが胴に見えます。」

手錠でつながれている手が邪魔だが、両手でその図形をなぞる。

「ありがとうございます。では次にこれは何に見えますか?」

今度は黒一色の絵だ。

俺は先ほどと同じように思ったままを正直に答え、医者も同じように形を聞いた後はどこら辺がそう見えるのかとの質問を繰り返した。

「今日はお疲れ様でした。また後日お伺いします。」

十種類ほどの絵でこのテストをやり終えると、医師は使った紙をしまい、そう言った。

ずっと笑顔を絶やさず、俺の目の前でメモを取るようなことがなかったので、この医師がどんな判断をしたのかはまるで分からない。

「あの…どんな判断をされたんですか?」

つい聞いてしまう。

「このテストだけでは判断しませんから。」

医師はやはり笑顔のままだ。

そしてもう一度挨拶をして、病室から出て行った。


田沼医師はその後も何度か訪れた。

その日によって診断のテストは違い、幾つもの設問に答えさせられたり、絵を描くように言われたりすることもある。

医者が来ていない時は警察か桑野が来ている事が多く、一人でゆっくり考える時間が少なくなった。

けれど第二回公判の日程はなかなか決まらない。

「次の裁判の日程はまだ決まらないのですか?」

そう桑野に聞いても、にっこりと笑顔で「まだ日程は決まっておりません」と答えるだけ。

この様子から桑野の作戦通りなのだろうと思った。


「裁判の日程が決まりましたよ。」

桑野は入ってくるなりそう言う。

初公判からもう一年は経過していた。

《裁判の長期化を避けるために…》

と云う様な記事を記者時代に読んだ。

この時代はまだ裁判に長い時間をかけるのが当たり前だったのだと思い出す。

冤罪防止にはしっかり調べた方が良いのかもしれない。

けれど、俺の場合は犯行が明らかなのだから、すぐに判決を出してしまっても良いのではないかと思う。

「第二回公判からはより多くの証言を求められます。ですが、今までの証言を続けて頂ければ結構です。」

桑野は書類を確認し、また口を開く。

「それとですね、被害者の夫が呼ばれていますが、何があっても攻撃的な態度は取らないで下さい。」

「父さんが…来る?」

一瞬いぶかしむ表情を見せた桑野だが、満足そうにうなずいた。

「その調子でお願い致しますね。」

その言動から桑野も俺が未来から来た事など信じてないのが明らかだ。

しかも、この裁判に関して俺がそんな言動をとることで、自分に有利に進むと思っている。

「父さんは何を…?」

「警察官側は家族の心情を訴える事によって、貴方様の罪を重くしようと考えています。本当は息子さんを呼びたかったそうですが、父親である夫に拒否されたとの事です。」

桑野は更に満足そうだ。

子供が母親のいない辛さを訴えれば、公平を常とする裁判官でも心動かされるはずだ。しかもその子は母親を目の前で殺されているのだから辛さは人一倍強い。

桑野はそんな不利な条件が減った事を喜んでいた。

(父さん…)

俺は子供の頃、裁判なんて一度も出た事がない。それどころか、母親が殺害されたということ自体知らなかった(覚えていなかった)のだ。

それは父が俺の事を思って隠していてくれたのだと気付いて心苦しかった。

傍聴席で遺影を抱いてうつむいていた姿が思い出される。

俺が黙っていると、桑野は自分の腕時計を確認した。

「時間が決められておりますので、今日はこれで。何かありましたら四日後にお伺いしますので。」

パイプ椅子から立ち上がり、書類を片付けるとその椅子を元の場所に戻した。

毎回、律儀だなと思う。

桑野の出て行く姿を目だけで見送って、外から鍵が掛けられると俺はため息をついた。


第二回公判が始まった。

傍聴席は今回もまばらで、シゲさんの姿を確認する事ができる。

カンカン

木槌が打ち鳴らされ、静寂の中、裁判長の木槌を机の上に置く音と衣擦れだけが聞こえる。

俺は警官に押されるように裁判長の向かいの証言台へと移動した。

「被告人、氏名・年齢・職業・住居・本籍を」

前回の裁判でも聞かれたと思うが、素直に質問に答える。

【五辻智弘】という言葉で、前回の傍聴席はざわついた。被害者の息子と同じ名前、と言うことが報道されていたのだろうと容易に想像できた。

だが、今回は特になんの反応もない。今回もそう答える事を皆、予想していたのだろう。

そしていくつか質問をされ、また弁護士の隣の席へと座らされた。

「では、検察側の証人を」

父さんが部屋へと入ってきて、先ほど俺が立たされていた場所へと進み出た。すっかりやつれてしまっている。

子供の頃、父が憔悴しきった様子を見ていた。

それは母さんがいなくなってしまったからだろうと感じていたのを思い出す。


両親は子供の俺から見てもとても仲が良かった。

おっとりした母さんと、厳格な父さん。

母さんは家にいる父さんに暖かいお茶を入れていた。すると、いつも恐い顔の父さんの顔が微笑んだ。きっと家族でしか分からないくらいの微妙な笑顔だったが、とてもうれしかった。

そしてそんな時、俺は必ず母さんにまとわり付いた。すると母さんは俺の頭を撫でて冷たい麦茶を持ってきてくれるのだ。

父さんと一緒にテーブルにつきながら麦茶を飲んでいると、母さんが嬉しそうに笑う。

他愛無い事だったかもしれない。

でもそんなちょっとした幸福感を…、俺自身が奪っていた。

やつれた父さんの姿を見ていられなくて、下を向いた。

証人尋問が始まる。

まずは検察官からの質問だった。

「被告人に見覚えは?」

検察官と父さんが一度こちらを向いたのだろう。少し間があって

「ありません」

と父さんが答える。

声も弱々しかった。

だがその声に怒りが含まれているのはハッキリと分かった。

「奥様の性格など教えていただけますか?」

父さんが小さく息を吸う。静かな法廷ではそんな些細な音さえもはっきりと聞こえる。

「明るく、おっとりした女性でした。」

語尾が弱々しく震えていたように感じる。

「では他人とトラブルになっているという話を聞いたことは?」

検察官はちょっと間を空けてから聞いた。

父さんの心情に配慮したのかもしれない。

「ありません。どちらかというと近所との関係は良いほうでしたから。」

傍聴席から鼻をすする音が聞こえた。

母の友人が来ているのかもしれない。そう思った。

「最後に今現在のお子さんの様子をお聞かせ願えますか?」

「異議有り!」

間髪を入れずに桑野が叫ぶ。

「現在の容疑者の息子さんの様子と、この事件の真相解明とは関係がないと思われます。」

桑野が裁判長に訴える。

「却下します。」

裁判長は桑野の発言を軽くあしらい、父さんに向き直った。

「証人、質問にお答えいただけますか?」

桑野は静かに椅子に座った。自分の意見が却下されることは予想していたらしく、全く気にしていない様子だ。

「はい。」

父さんはそう答えた。

しかし次の言葉までにかなり間があった。

「息子は事件の記憶をなくしています。あまりのショックのため、一時的な記憶喪失ではないか、との医師の診断です。」

傍聴席から嗚咽がもれ聞こえてきた。

先ほど鼻をすすっていた人物が耐え切れなくなったのだろう。そのまま退室したようだった。

「ですから、息子を捜査に協力させることは遠慮願います。」

父さんの声は力強かった。

このことだけは守ってほしいという気迫が感じられる。

その言葉に検察官が困った顔をした。それとは対照的に、桑野は表情にこそ出さなかったが喜んでいるようだった。

「検察側からの証人質問を終わります。」

四角い顔の検察官はそう裁判長に言い、自分の席へと戻った。

「では、弁護側から証人質問はありますか?」

「はい」

桑野が父さんの方へと歩み寄る。

「質問をさせていただきます」

いつもの桑野らしく深々とお辞儀をする。

父さんも会釈を返した。

「では、お伺いしますが、奥様とご近所でトラブルがあったという話はございましたか?」

「いいえ、ありません」

先ほどと同じ質問ではないかと思われたが、検察官も裁判官も何も言わなかった。

「では、恨みを買われることは?」

「ありません」

父さんは怒った口調で答える。

母さんはおっとりした人だったので恨みを買うという表現は似合わない。

「この件で被告人は貴方様のご家族のことをよく知っております。その事についてどう思われますか?」

父さんは言葉に詰まった。

「…わかりません」

「被告人は貴方様の息子であると証言しております。どう思われますか?」

「嘘をついているとしか思えません。私たちの息子がそんな年齢であるはずありませんから」

はっきりと答える父さん。

父さんも信じていない。

でも、それは仕方のないことなのだと思う。

「では、なぜ被告人は嘘をついていると思われますか?」

「わかりません」

父さんが困惑していた。

「奥様がこの男性になにか苦痛をあたえる行動をなさったとは考えられませんか?」

「考えられません」

「しかし貴方様が仕事でいない時間、お子様も学校にいかれている時間。奥様がご自宅でどうされていたかは、分かりませんよね?」

「孝子はそんな女ではありません!」

「しかし貴方様は被告人を知らないとおっしゃっていますが、被告人は貴方様のお宅の家族構成をよく知っておられる。奥様と通じでいたと考えてもおかしくないのでは?」

「母さんはそんなことしない!」

法廷内がざわついた。

「母さんと父さんはとても仲がよかった。もうこれ以上、父さんを苦しめないでくれ!」

俺は立ち上がり、叫んでいた。

「静粛に!」

裁判長は自分が呆然としていたことを隠すかのように咳払いをし、木槌を叩いた。

「被告人、こちらが求めるまで発言は控えるように。」

俺は激しく肩で息をしながら、憮然と腰掛けた。

こんなに大きな声を出したのは久しぶりだ。

法廷内はまだざわついている。

「静粛に」

裁判長がもう一度木槌を叩き、法廷内がやっと静かになった。

「弁護側の質問を終わらせて頂きます。」

桑野が俺の隣に静かに腰掛ける。

俺はまだ息が切れて呼吸が早くなっていた。

「弁護人、このまま審議を続けますか?」

裁判長は俺の様子を気にしてか桑野に聞く。

「大丈夫ですか?」

桑野に声をかけられ頷いた。

「ゆっくりと大きく息を吸って。」

桑野は俺の背中をさする。

俺は言われた通り大きく深呼吸をした。少し息がラクになる。

「はい、続けて下さい。」

俺の息が整うと、桑野は裁判長にそう言う。

「審議を続けます。証人、ありがとうございました。」

父さんは証言台を離れ、傍聴席の一番後ろの席に向かった。シゲさんのすぐ近くの席だ。二人はお互いに会釈して、父さんが椅子に座る。

今、何があったのか理解できない。

父さんの表情はそんな感じだった。

「弁護人、資料の提出を」

裁判長の言葉で、桑野は精神鑑定の結果を発表し、その資料を裁判官へと提出した。

精神鑑定の結果は“精神障害がある”という意見と、“虚言である”との意見に分かれ、判断を次回まで見送るとの事だった。

この結果も桑野には満足であった様子だ。

しかも、俺の先ほどの行動が桑野を更に喜ばせたのは明らかだった。

裁判長は中の書類を確認し、隣の裁判官に手渡す。

「では、次回公判の日程は追って連絡します。」

木槌が打ち鳴らされ、第二回公判も終わった。

俺は前回のように警官に押されるように部屋を後にした。その時、父さんの俺を睨み付ける顔が忘れられなかった。


「上出来でしたよ。」

公判後、戻された病室に入ってくるなり桑野がそう言う。

正直ムッとした。

「精神鑑定の結果にもよりますが、次回で終われるでしょう。」

ベッドに腰掛けていた俺の前に椅子を持ってきて桑野が座る。

「桑野さん、貴方が優秀な弁護士であるのはわかりました。」

確かにそう思う、無罪になりたい人物にとってはだが。

「しかし、もうこの事件から…、俺の弁護はもう止めてほしい。」

単刀直入に言う。

父さんへの質問が許せないと思った。

父さんを苦しめた…。

母さんをはしたない女のように言った。

あの状況でなら、弁護士はあのような質問をするものなのだろう。けれどやはり納得がいかない。

「かしこまりました。代わりの弁護士をお探ししましょう。」

あっさりとそう返事をされて、戸惑った。

『なぜ解任されるのか?』

などと言われるのではないかと思っていたからだ。

「お願いします。」

内心ほっとしつつそう答えた。

「では、次からは新しい弁護士が謁見に来ると思われますので。」

桑野は立ち上がり、また椅子を元の場所へと戻した。

「短い間でしたが、ありがとうございました。」

桑野は右手を差し出した。握手を求めているのだ。俺も右手を差し出すと、桑野は俺の手を包み込むように握手をし、深々とお辞儀をした。

今まで記者としていろいろな人物を見てきた。だが桑野のようなつかみ所のない人間には始めて会った。きっともう二度とこのような人物に会うことはないだろう。

俺は桑野が病室から出て行くのを目で追いながらそのようなことを考えていた。


今日はいつもと違っていた。

今まで目にしたことのない女性がこの病室に入ってきた。茶色い猫っ毛の髪をしたかわいい感じの若い女性だ。

でも、この病室に今まで女性が入ってきたことはない。

俺の部屋に入ってくるのは看護士でさえ男だ。

「は、は、は…」

入り口に張り付いたまま動こうとしない若い女性。

声が裏返って、あわわわわわっと両手を口の前で大きく振った。若い女性だとは思ったがここまで来ると子供のようだ。

「は、はじめまして。」

女性はやっとそれだけ言い、両頬を引きつらせながら笑顔を見せようとする。

「あの、私、桑野先生の紹介で来ました弁護士の藤野あゆみと言います。」

ちょこっと頭を下げ、そのまま扉の近くに突っ立っている。桑野とはまるで違うと思った。

「あの…」

声を掛けると、ビクッと肩を震わせ、きょろきょろと周りを見る。

(大丈夫だろうか?)

桑野を見慣れたせいか、逆に新鮮な反応だと思った。

でも普通、犯罪者と一対一で会うといったらこんな反応が正しいのかもしれない。

しかも若い女性ならなおさら恐怖心を抱くだろう。

「は、はい。なんでしょう?」

「よろしくお願いします」

これ以上恐がらせても(といっても俺はまだ、この女性には何もしていないが)しょうがないので、動かずベッドに腰掛けたまま頭を下げた。

そして自分はずっと手錠をされているから大丈夫なことを見せようと、女性にソレだとわかるように両手を膝の上に置いた。

カチャッ

手錠の鎖が音を立てる。

「あっ、え?は、はい。よろしくお願いします」

(もしかして、桑野が解任された事を根に持って【頼りない弁護士】を送り込んだのだろうか?)

ふと考えてしまう。

まあ俺にとっては能力の低い弁護士の方がありがたいが。

「あの、五辻さん?」

遠くから小首をかしげ、覗き込むように俺を見ている。

「はい。」

俺は何事もなかったように返事をした。

「桑野先生のどこが気にいらなかったんですか?」

ぼそぼそと話すが、部屋が静かなのでどうにか聞き取れる。

「桑野さんは優秀な弁護士さんだと思います。」

「そうですよね!」

急に態度が変わり、ずかずかと俺に近寄る。

「桑野先生はすごいんです。これまでだって何度も不利だと言われていた事件を担当して、かなり有利に進めちゃって。」

陶酔しているらしく何度も頷く。

「私の憧れる弁護士さんなんです。」

そう言った後、俺の目の前にまで歩み出ていると気付き、きゃっと小さな悲鳴を上げ一歩下がった。

俺はベッドに座ったまま彼女の様子を見ていた。

感情の起伏が激しいと表現したら良いのだろうか?見ていて退屈はしない。

女弁護士はそのまま話し出しそうもないので、先ほどの質問の続きを答える。

「桑野さんは優秀で、俺を無罪にしてしまうかもしれない。そう感じました。でも、俺は自分が有罪になるのを望んでるんです。」

「え、何故?」

女弁護士がその場で小首をかしげる。

有罪になりたい犯罪者なんて珍しいだろうから、この反応は当たり前なのだろう。

「母さんを殺してしまって、父さんや子供の頃の自分を苦しめた俺が、のうのうと生きている事に疑問を感じて…」

でも自殺する勇気さえない。

「そうですか…」

女弁護士は腕を組み、悩みだす。

そしてぱっと俺を見ると頷く。

「わかりました。どんな判決が出ても弁護はそこで終わりにしましょう。」

女弁護士の表情はすっかり変わっていた。

先ほど入って来た時とは違い、弁護士らしいきりっとした顔だ。

「五辻さんに有利な判決が下った場合、検察側が控訴して来るでしょう。その時は私を解任し、そのまま変わりの弁護士をつけなければ検察側の求刑に近い判決が下ると思います。」

本当に先ほど入ってきたのと同一人物なのだろうか?

そう思うほど、はっきりとした口調で分かりやすく内容を話す。

「ありがとうございます。」

弁護士の評価と言えば関わった裁判の結果だ。先ほどこの女弁護士だって不利な裁判を有利にした桑野に憧れていると言っていたではないか。

それなのに、この女弁護士はここまで有利に進めた裁判をふいにしても良いと言ってくれる。

「ではそのような方向で。しかし気が変わった場合はすぐに教えて下さいね」

女弁護士は何やら手帳にメモをすると、それを裁判資料の一番上に仕舞い込んだ。

そしてまた、ちょこっと頭を下げると病室を後にした。


入院してから四年がたっていた。

弁護士が籐野という女弁護士に代わってから裁判は行われていない。

俺は取り調べ後、検察官に『何か仕事をさせてほしい』と願い出た。

ここは刑務所であるのだから作業をさせられるのは普通だし、俺の病院での態度を診て医者が安全と判断して監視付ではあるが病院内の掃除夫として働けることになった。

ただ、人の出入りが多いところ、危険物(メスなどの管理庫や薬品庫)がある所には近付かないと言うことを約束させられた。

「これからよろしくねぇ。」

おばさんにぽんぽんと腕をたたかれ、モップを手渡された。背が低いので俺の腕の高さがちょうど良かったのだろう。

「お願いします。」

モップを受け取りつつ挨拶する。

「じゃあ、あたしが床を掃くから、あんたはモップで水拭きしてね。」

おばさんがちょこちょこと廊下の端まで歩いて行くので、俺はその後に付いて行った。小柄なおばさんがちょこまか動く様子は小動物のようで微笑ましくさえある。

そのまた後に俺の病室の前を監視している警官が付いて来る。他人から見たら変な光景だろう。

「そういやぁ、あんたの名前を聞いてなかったね。あたしは(くぬ)()律子。あんたは?」

掃除の手は止めないままおばさんが聞く。

「五辻智弘です。」

俺もリノリウムの床にモップをかけつつ後ろから答えた。

同じ材質の床のはずなのに俺の病室とは違って廊下は張替えたばかりの様に真っ白だった。このおばさんが毎日こうして掃除をしているからだろう。

「じゃあ、智君だ。」

おばさんは何が楽しいのか豪快に笑う。

薄暗い病院の廊下だというのに、急に明るくなった感じがした。

「椚木さんは、その…俺の事、恐いとか思わないんですか?」

おばさんは手を止めてこちらに振り返った。

「俺は殺人犯だし、精神異常だとか言われてるんですよ」

あんなに明るく、楽しそうに語り掛けて来るのはそのことを知らないからではないかと思えた。

「何言ってんだい。この病院じゃそんな入院患者はゴロゴロいるよ。医療刑務所だからねぇ。」

おばさんは首を上へと向け、俺の顔をじっと見た。

「それにあんたの目を見れば、本当は悪い人間じゃないって分かるよ。」

また俺の腕をぽんと叩いた。

うれしかった。

この四年間、こんな風に普通に接してくれて、優しい声をかけてくれる人物はいなかった。

「椚木さんはこの仕事、長いんですか?」

ちょっと照れくさくなってバケツの水でモップをゆすぎながら聞く。

「そうだねぇ、もう二十年位になるかねぇ。」

おばさんはまた床を掃きはじめた。

「すごいですね。」

単純に感心した。

「別にすごきゃないよ。」

おばさんは集めたホコリをちりとりへと入れ、ダストシュートへ捨てた。

「じゃ、次の階に行こうかねぇ。」

おばさんが階段を掃除しながら降りて行くので、俺もその後をモップがけしながら降りて行く。

警官が退屈そうにそれについてきた。

「智君は彼女とかいないのかい?」

突然聞かれて手が止まってしまった。

「はあ、残念ながら。」

動揺を悟られないように、また手を動かす。

「智君はハンサムだからモテそうだけどねぇ。でも、好きな人くらいはいたんじゃないかい?」

今まで思い出すことなどなかったのに、響子の姿が浮かんだ。だが、良い相棒だと思ったことはあったが、響子の事を恋愛感情で見たことはない。

「いないですよ。椚木さんは、ご主人とかは?」

自分の事から話題をそらせたくてそう聞く。

「うちのは五年前に亡くなってね。息子も結婚して別居。気楽なもんさ。」

おばさんは一度伸びをしてトントンと自分の腰を叩く。

「すみません」

「何で謝るんだい?」

全然気にしていない様子でおばさんは笑いかけ、また掃除を続ける。

おばさんはまた、たわいのない話をし、俺はそれに相槌を打ったり、聞き入ったりしていた。

警官はそれを困惑気味に見ていたが、注意することはなかった。

「この階も終わったね。じゃあ次の階だ。」

またダストシュートにゴミを捨て、おばさんは階段へ向かおうとする。

「大丈夫かい?」

付いて来る様子のない俺を振り返っておばさんが聞く。

俺は『だいじょうぶか?』の言葉に対して頷くが、モップを杖代わりにして立っている状態はとても大丈夫には見えなかっただろう。

「顔色悪いよ、今日はもう部屋にもどんな。」

おばさんが警官を手招きして呼ぶ。そして警官が俺の体を支えると、そっと俺からモップを取り上げた。

「智君のおかげで楽しかったよ。またよろしくねぇ。」

俺の腕をまたぽんぽんと叩く。

これはおばさんの癖なのかもしれない。

「途中なのに…すみません」

ここまで体力が落ちているとは思わなかった。

でも、四年も病室に閉じこもっていたのだから当たり前か。

「気にすることはないよ。」

おばさんは豪快に笑い、掃除用具を階段の踊場の端に立てかけ、鼻歌まじりにまた掃除を始めた。

その鼻歌を聞きながら、俺は警官に引かれるように自分の病室へと戻った。


病室に戻るとそのままベッドに倒れこんだ。

警官はそのまま外へと出て行き、いつものように外から鍵をかける。

この四年間、外に出るのは法廷の時だけ。しかも四年が経っているにも関わらずそれは二回だけだ。

記者時代はあちこち飛び回っていたので体力には自身があったが、さすがにそれだけ筋肉が落ちているということだろう。

寝返りをうち、姿勢を変えた。

鉄格子のはまった窓から見上げる空は夕焼けで黄金色に染まっている。

色づいた銀杏の葉が風に吹かれて舞っている。

また季節は秋なのだ。

この中にいてはまったく気付かないが…。

また今日も一日が終わる。今日はここに来て初めてゆっくり休めそうな、そんな予感がした。


「最近、顔色が良いですね。」

弁護士なのに看護士のようなセリフだと思いつつ聞いていた。

藤野はすっかり落ち着いた様子だ。

初対面の時にあんなにおどおどしていたのが信じられない。

「体を動かすようになったからかもしれません。」

俺はそう答えた。

確かに体を動かしていることで良い影響は出ているだろう。

けれどそれよりも椚木さんとの会話ややり取りに癒されているのだと思う。

入院してからずっと事件の時の夢を見ていた。

昔とは違って犯罪者目線の夢。そして、起きていてもその情景が離れずにまとわりついていた。

けれど椚木さんと話している時はその幻影に脅かされることがない。

椚木さんを生きていた頃の明るい母さんとダブらせて見てしまう事すらある。

「お掃除のお手伝いをされてるんでしたよね。」

「はい。」

俺はベッドに腰掛けたまま返事をする。

藤野はもう俺を恐がったりはしないが、俺はベッドに腰掛けて、藤野は部屋をあちこち歩きながら会話をするのが常になってしまった。

「あ、今日は次回公判の日が決定したのでお知らせに来たんです。」

がさごそと自分の荷物を開き、一枚の用紙に目を通す。

「六ヶ月後との事ですよ。」

その用紙を俺にも見せる。その用紙には次回公判の日時と場所、そして細々と他にも何かが書かれているようだった。

「あと何回ぐらい公判があるんですか?」

こんな平凡だけれど穏やかな気持ちでいるのが申し訳ないような気がして、処罰をのぞみたい気持ちも強くなっていた。

「そうですね、あと二・三回と言った所です。でも…」

藤野は先ほどの用紙をしまい、こちらをじっと見た。

「五辻さんの望まれる結果を出す、と言うことでしたら、あと五回くらいはあると思います。」

「そうですか…」

今までのペースを考えると、まだまだ先が長そうだ。

「あの、本当に良いんですか?このまま行けば無罪だってありえるのに」

本当に心配してくれているのだと、表情からハッキリと分かる。

「はい」

心配してもらえるのは嬉しかったが、俺の気持ちに変わりはなかった。

「残念です。」

本当に残念がっていた。

「でも、担当している間はかんばらせてもらいますね。」

藤野はこわばった笑顔を見せ、病室を出て行った。


やっと第三回目の公判だ。

傍聴席を見ると今回はさらに傍聴人が減ったようだ。俺としてはありがたい。後ろの方には父さんとシゲさんが並んで座っている。そことは反対側の後ろの席に桑野が座っていた。

前回俺の隣に座っていた桑野があんなに離れた場所にいるというのは不思議な感じがした。今、隣には藤野が座っている。

「五辻さん、大丈夫ですか?」

藤野に声をかけられ頷いた。以前、法廷の場で不必要に声を出さないようにと桑野に言われていたので動作だけで示す。

カンカン

木槌の音が響く。公判が始まった。

もう三度目ともなるとこの場の雰囲気には慣れてくる。

検察側は現行犯逮捕であり、証拠も証言もそろっているということを訴えた。

弁護側は請求していた複数の医者に判断を仰いでいた精神鑑定で、わずかな差ではあるが障害があると判断した医師の方が多かったとの結果を提出する。

最後に俺がこの事件についてどう思っているのかを裁判長に聞かれ、実刑を望んでいることを伝えた。

担当の弁護士が桑野のままならばそんなことを発言するのを止められたかもしれない。けれど藤野は俺の気持ちを知っているので止めはしなかった。

だがとても悲しそうな表情で俺を見ていた。

裁判長はそれぞれの資料を受け取って中を確認し、第三回公判が終わる。

今回はあまりにもあっけなく終わったとの印象がぬぐえなかった。


「次回で判決が出そうですね」

寂しそうに藤野が言う。

「すみません、途中からお願いして、しかも中途半端に解任する事になってしまいそうで」

俺の勝手でこの人には迷惑をかけた。そう思う。

「い、いえ…」

藤野は目を伏せ、言葉を続けた。

「この件、最初から関わってたんです、私。桑野先生のお手伝いで資料集めとか…」

「そうだったんですか。」

あのような優秀な人物なら他にも弁護を引き受けて忙しいだろう。それならばアシストをしてくれる人物がいてもおかしくはない。

「はい。私、桑野先生に憧れてて…先生の事務所でお手伝いをしながら司法試験を受けたんです。そして合格したばかりの時に五辻さんの弁護をするように言われました。資料の内容をすべて知っているし、君にならきっとできるだろうって」

「桑野さんに信頼されているんですね」

藤野がほほえむ。

「今日はゆっくり休んでくださいね。」

藤野はお辞儀をしてそのまま病室を出て行った。


精神鑑定のための検査が減り、取調べの時間も減った。

その分、掃除夫としての仕事は増えたが、あきらかに自由な時間も増えた。

自由といっても病室からは出られないので、日記のような物を書いているのだが。

俺は机にしまっていた今までの事を書き溜めた手帳をパラパラとめくる。

職業柄か(といっても、もう何年も記者として働いていないのだが)メモ魔だとよく言われていた。

だからこのような紙と鉛筆を持って机に向かう時間は特に苦痛と思うこともない。むしろ落ち着くことができる。

ここに来てから八年。手帳は十二冊目になっていた。

二冊目から五冊目だけ微妙に種類が違い、一冊目と六冊目以降は同じメーカーの同じ手帳。

『必要なものは無いか』と聞かれ、桑野にお願いした時の物がバラバラの手帳で、藤野にお願いした時にはきちんとメーカーなどを聞いてくれ、その物をそろえてくれたのだ。

ここら辺は男女の差ってヤツなのだろうか。

ちなみに一冊目の手帳はここに来る前…、あのタクシーに乗り込む前に自分で買った物だ。

あの時、すぐにポケットに入れてまだ使っていなかった。そのおかげで一時、《証拠品》として持って行かれたが、すぐに返してもらえた。

手帳の中を見ると、始めはかなり動揺しているのが分かる。字も乱れているし、内容も支離滅裂だ。

でも最近の文章はかなりまとまっている。それに最近の文章には取り調べや藤野とのやり取り、掃除夫としてのことが多く、母さんのことがあまり書かれていない。

今では母さんを殺したときのあの感覚もこの手からすっかり薄れてしまった。

母さんに付けられた腕の引っかき傷も消え、あの闇色の瞳を思い出す事もあまりなくなっていた。

それが自分にとって良い事なのかは分からない。

けれどこの手帳を見れば思い出せる。

戒めとしてこの手帳は持っていよう。この手帳だけか今の俺にとっての唯一の財産なのだから。


「…公判の日が決まりました。」

元気のない様子で藤野が告げる。

「何かあったんですか?」

俺の問いかけにあいまいな返事だけをして、書類を取り出し俺へと手渡した。

前に見せてもらった書類と同じような項目が書かれている。

「今度の公判で判決が出ます。」

俺がその書類を返すとその書類をしまい、藤野はまた口を開く。

「あくまでも予想ですが、前回の精神鑑定の結果を考えると無罪、もしくは保護観察付きの執行猶予判決がでるのではないかと思います。」

「俺が望んでいるような結果は出ないと言うことですね。」

何気なく床に視線をうつす。

床の上の影が不気味にうごめいた気がした。こんな軽い刑になる事を母さんが怒っているのではないかと、そう思った。

「でも…」

藤野が声をかけて来たので、ゆっくりと顔を上げた。

「本当に死刑の判決が出まで裁判を続けるんですか?せっかく軽い刑ですみそうなのに。」

「そのつもりです。」

俺はハッキリと答えた。

「この判決後は本当に一人で裁判を続けるんですか?」

「はい」

俺はまた床を見た。

だが、もう影は動かない。

俺の意志は変わっていない。いや、先ほどの影を見て、更に気持ちは強くなったと言っても良い。

「今後も私がお手伝いしてはいけませんか?」

「え?」

藤野の顔を見た。

彼女は自分の口にした言葉が信じられないかのように目を見開き、両手で口を押さえている。

「い、いえ…。あの、この話しは判決が出た後にしましょう。」

ぺこりとお辞儀をし、慌てて病室から出て行く藤野。

仕事ができる女性なのに、時たま暴走ぎみにおかしな行動をする。でもそれがほほえましく思えた。


「判決を言い渡す。」

法廷内がいつにもまして静かに、緊張感が張り詰めている。

今回の公判は今までとは違う緊張感が続いていたが、この判決のせいなのだということがこの空気でよく分かる。

「責任能力がなかったとして無罪。」

裁判長の言葉に傍聴席はざわついた。だか、検察側も弁護側もその内容は予想していたかのようで、静かだ。

傍聴席の方を見ると、父さんはただうつむいていた。父さんもこのような結果が出るだろうと聞かされていたのかもしれない。

裁判長は事件の反省を忘れず、今後の治療と更生を望むというような内容を付け加えて告げていた。

「五辻さん?」

隣から心配そうに覗き込む藤野に、静かに頷きで返した。

この前の『裁判を続けるのか?』との問いを確認されたように感じたからだ。

カンカン

いつもの木槌の音で閉廷した。

裁判官や検察官、傍聴席の人々が出口へと向かう準備をはじめている。

俺の後に座っていた警官が立ち上がり、俺の前まで来ると手を出すように言う。今までならば引っ張られるように立ち上がらされ、「早く歩け」と言われていたのだが、様子が違う。

けれど俺は素直に両手を前へ出した。

すると警官は腕につけられた手錠を外す。

自由になった両手首をさする。八年間、外される事の無かったものが今、無罪になって外された。

両手首に青黒くなった痣がくっきりと浮かび上がっている。

それを見て藤野が涙を流した。

手首の痣の痛々しさになのか、俺が自由になったことを喜んでいるのかはよく分からない。けれど心配してくれていたのはハッキリ分かる。

俺は手首をさすったまま立ち上がり、警察官の後に続いて歩いた。

もう繋がれていないとはいえ、俺の帰れる場所なんてあの病室しかない。

傍聴席ではまだ父さんがうつむいて座っていた。俺は何も言えずそのまま法廷を後にした。


病室に戻っても外から鍵をかけられる事は無かった。

もう罪人ではないと判断されたので人道的配慮と言うやつなのだろう。

俺はベッドに腰掛けた。

ふとした動作で両手が同時に動いているのに気付き、一人苦笑いする。

ずっと手錠で繋がれていたので、両手を同時に動かすことが習慣になってしまったらしい。

腕をあちこちに動かしてみる。どこかぎこちなくて、変な感じだ。

自由になった手で机の引き出しを開ける。そして今日の判決の結果を手帳に記入した。


「五辻さんっ!」

藤野があわてて病室に飛び込んでくる。

「検察側が控訴を取り下げました。被害者家族の要望だそうです。」

あわてていたせいで、はあはあと肩を上下させている。

右手で胸を押さえ、自分の息を整えていた。

「五辻さん、完全に無罪です。あなたの罪はもう完全に消えたんですよ。」

嬉しそうに言い切る藤野。

「なぜ…どうして父さんは控訴を取り下げたんですか?」

藤野の表情とは逆に俺は困惑した。

控訴されると思っていたのに、信じられない。

「そこまでは分かりません」

ふるふると藤野が首を振る。

そして、はっと思い出したように付け加える。

「あと、退院の手続きをするようにとの連絡も来ています。」

「退院?」

「はい、こちらの病院の医師は裁判中でも『異常なし』の判断をしていたので、無罪になって、しかも健康と判断しているあなたをここに入院させる理由がないんです。」

この病院は警察側の考えが強いと考えて良い。

それならば俺を有罪にするために《精神的な異常が無いのに罪を犯した》とする方が裁判を進めやすい。

まあ、ここの医者が検察側の裁判に有利になるために虚偽の検査結果を出していた場合だが。

「これからどうされるんですか?」

「…」

聞かれて困った。

控訴されるだろうと思っていたので、またここに残るのだろうと漠然と思っていた。

ここから出たとしても、この時代のこの年齢の俺には戸籍をはじめとする自分を証明できるものが一斉ない。

しかも逮捕歴のある人物など誰が雇ってくれるだろう。

「あの…」

言いかけて、藤野は口ごもった。しかし意を決してもう一度口を開く。

「私の家に来ませんか?」

意外な言葉だった。いや、予想はしていたのかもしれない。けれど…

「私、上京して、一人暮らしなので、気を遣わせてしまうような家族はいませんし…」

答えられなかった。

迷惑をかけるだけだとわかっているのに、彼女の家に転がり込むなんてできない。

「あ、でも、すぐにお返事いただけなくても大丈夫です。選択肢の一つとして考えて頂ければ。」

藤野は矢継ぎ早に言葉を続ける。

俺の出す結果をまだ聞きたくないのだ、というのがはっきり分かった。

「あと…、被害者の夫が五辻さんに面会を希望してきています。」

藤野がまた別の話題をふってきた。

「父さんが!」

「え?」

藤野も俺の言葉を信じていないのだろう。一瞬、言いよどむ。

だが、俺の今までの発言を思い出したようで言葉を続けた。

「はい、お知り合いの新聞記者さんとご一緒に面会したいとのことです。どうなさいますか?」

知り合いの新聞記者と言うのはシゲさんの事ではないかと思う。

二人は傍聴席でいつも近くに座っていた。

何らかのやり取りがあって、父さんはシゲさんに気を許したんだと予想できた。

「会います。会わせて下さい。」

父さんに会えば、なぜ控訴をしなかったのかを聞く事ができる。

「五辻さんはもう自由なんですから、どなたに会うのも自由です。」

藤野はそう言うと目を伏せた。

「でも、新聞記者さんと一緒と言うのは…。私は反対です。無罪になったあなたのことを悪意で色々と書くつもりかもしれませんし。」

藤野の心配はもっともなことだと思った。正義感の強いシゲさんならそのような内容を書くかもしれない。けれど俺は父さんに会ってどうしても確かめたかった。

今まで何度も父さんに手紙を書いたが、その手紙は一斉受け取ってもらえず、返されている。

そんな父さんの方から、わざわざ来てくれるのなら願ってもないことだ。

「それでも良いです。会わせて下さい。」

「分かりました。ではそのようにお伝えします。」

「ありがとうございます。」

つい笑顔になってしまう。

「その面会、私も同席して良いですか?」

「いえ、俺一人で大丈夫です。」

藤野の心配は分かった。

けれど、これ以上甘えてしまっては彼女に余計な期待を持たせてしまうので、ハッキリと断った。


父さんとシゲさんは約束の時間ちょうどに病室に現れた。

そういえば二人とも生真面目な性格だったなと思い出す。そこらへんが気のあった理由なのかもしれない。

シゲさんはきょろきょろと病室を眺め、医療刑務所の病室がどんなものであるかをしっかりと観察していた。それとは逆に父さんはずっと下を向いたまま、俺と顔を合わせようともしない。

俺は二人に椅子を勧め、自分はベッドに腰掛けた。この部屋には二脚しかパイプ椅子がないのだ。

沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのはシゲさんの咳払いだった。

そして早速質問をぶつけて来る。

「君はこの五辻さんの息子だと?」

「はい」

取り調べでも、裁判でも散々聞かれた質問だ。

「それは無実を勝ち取った今でも?」

「はい」

シゲさんは俺が裁判を有利に進めるために嘘を付いているのではないかと思っているのだろう。

「無実になったことについて、どう思いますか?」

シゲさんは記者らしい口調で続けた。

隣にいる父さんは組んだ足の上に両手を組んで置き、床を見つめていた。

「なぜ、控訴しなかったんですか?」

俺は父さんに聞いた。

「それは私がしている質問と関係ないのでは?」

シゲさんが静止するように言う。

父さんはその言葉に目を見開いて、俺の顔を見つめていた。

「俺は有罪になりたかった。」

これはもう、独白だった。父さんやシゲさんに聞かせたくて言った言葉ではない。

「判決後、藤野弁護士を解任して一人で裁判を受けられるように話をしていた。そうすれば求刑通りの判決が下るだろうと聞いたからだ!」

父さんはまた俺から視線をはずして、床の方を見ていた。

「父さん!何か言ってくれ。」

俺は立ち上がり、父さんを見下ろした。

シゲさんは俺が父さんに掴み掛かるのではないかと思ったらしく、慌てて立ち上がり俺の体を抑えた。

「重本さん、申し訳ありませんが席をはずしてもらえますか?」

父さんは俺とシゲさんのそんなやり取りがあっても動じている様子はなく、静かに言った。

シゲさんはしぶしぶと俺を抑えていた手を離し、病室から出て行った。

「…君は、誰なんだ?」

完全な静寂が戻ると父さんは呟くような小さな声で聞いた。

「智弘です」

正直に答える。

「なぜ…なぜ、こんなことに」

膝の上に置かれた手がぎゅっと握られる。

「俺が智弘だと…信じてもらえたんですか?」

父さんはそのままの姿勢で動かなかった。

「それで控訴しなかったんですか?」

父さんの頭がかすかにタテに動く。

「中学生になって君に似てきたよ。智弘は。」

小さな、弱々しい声だった。

俺の知っている父さんはいつも堂々としていて、こんな弱々しい声で話したことなどない。

「父さん…」

父さんの辛さが、なんとなく分かった。

「もう、終わりにしたいんだ。このまま裁判を続ければ智弘が母親の死因に気付いてしまうかもしれない。せっかく忘れている、目の前で起こった不幸な出来事を…」

父さんは俯いたまま、話しを続ける。

俺の顔を見ないようにしているのだという事が分かった。

「それに、年齢が上がればマスコミがまた智弘に取材を申し込んでくるかもしれない。そうなれば犯人の君と智弘の顔が似ていると騒ぎ立てるだろう。」

父さんが子供の頃の俺をこんなに思っていてくれていたと分かって嬉しかった。

「あとは私が、耐えられない。君と智弘が似ていると気付いてしまった今、自分が智弘にあたるのではないかと…。自信がないんだ。」

更に弱々しい声で語る父さん。

そんな事は決して無かった。

厳しいこともあったけれど、男手一つで俺を育ててくれた。父さんは今でも尊敬できる人物だ。

「だから…、もう君と会うことはないだろう。」

寂しかった。

けれど、俺の時代の父さんはもう亡くなっているのだ。今、こうして話を聞くことが出来ただけでも、ものすごい事なのだ。

「じゃあ、元気で」

立ち上がり、目線を合わせる事無く、父さんが言う。

「父さんも、体に気をつけて」

俺の言葉に歩きかけていた足を止め、小さく頷いた。そしてまたゆっくりと歩き出し、病室を出て行った。

「五辻さん。」

廊下でシゲさんの声が聞こえる。

父さんの事が心配で、廊下で待っていたらしい。だが、俺たちの会話は聞こえていなかったようで、色々と質問していた。

そのシゲさんの声がどんどん遠くなる。

また病室の中は静寂で包まれた。

今まで誰も信じてはくれなかったのに、父さんだけは信じてくれたこと、そしてなにより父さんが子供の頃の俺を大事に思っていてくれていたことを確認できたのが嬉しかった。


「明日の午前中に退院しますとの手続きを済ませました。」

藤野は俺に書類を手渡した。

一応、内容をチェックして、読み終えた書類をサイドテーブルに置く。

「すみません、色々と」

藤野には色々な手続きまでお願いしてしまった。本当に、ありがたいと思った。

「何時頃ここを出られる予定なんですか?」

「…十時に出ようと思っています」

俺は嘘を付いた。

本当は九時にここを離れようと思っている。でも藤野には嘘の時間を伝えた。もう一度会ってしまったら、彼女の世話にはならないと云う決心もぐらついてしまいそうだったからだ。

「それで…」

俺はまた口を開き、言いかけた。伝えなければ、彼女に…。

いつものように俺はベッドに腰掛け、彼女は立って話をしている。

「五辻さん」

藤野が俺の肩に手を置く。

反射的に見上げた。

藤野の唇が俺の唇と重なる。彼女の腕が俺の首に回され、すとんと隣へ座った。

「今は…言わないで…下さい」

耳元で言う。

こんなに近く、彼女を感じた事はなかった。

薄い化粧の匂い、シャンプーの香り、彼女の肌のやわらかさ。

「藤野…先生?」

背中をちょっとのけぞらせ、彼女の肩に手を置く。そして彼女を少し引き離した。

彼女は潤んだ瞳で俺を見つめている。先程触れた艶やかな唇が、かすかに動く。

俺は狂っているのかもしれない。そう裁判の結果通りに。

こんな事をすれば彼女を更に傷付けると分かっていて抗えなかった。彼女の「抱いて」と言う囁きに。


「お世話になりました」

椚木さんは仕事中なのに玄関ロビーまで退院の見送りにきてくれた。俺はその椚木さんに深々と頭を下げ、お礼を言う。

「本当に大丈夫かい?」

「はい…」

椚木さんにも住む所が見つかるまで家に来ないかと誘われたが断っていた。心遣いは嬉しかったが、それだけに迷惑をかけたくない。

「何かあったらおいでね。あたしはずっとここで働いているだろうから。」

いつもの笑顔で椚木さんが言う。

「ありがとうございます。」

俺は笑顔で答えた。しかしこれからの不安が出てしまったのか、顔が引きつる。

椚木さんはそんな俺を目を細めて見つめ、いつものように腕をぽんぽんと叩いた。

「智君なら大丈夫だよ。」

ほっとした。

やっぱり俺は椚木さんと母さんを重ねて見ていたんだと改めて思う。

「はい」

今度はちゃんと笑顔を見せられた気がする。

俺はそのまま外へと歩を進めた。

ほとんど手ぶらの状態で病院の玄関ロビーを出た。

俺の持ち物といえばちょっとした着替えと手帳。そしてここへ来る前に持っていた財布が返されただけだ。でもこの時代とは紙幣のデザインがまるで違うから数万入っているが使うことは出来ない。ただ掃除夫として働いていた分の給料がもらえたので、無一文と言うわけではなかった。

(あのタクシーを探そう)

とりあえず自分がやる事として思いつくのはその位だ。

ただ、今考えると時間をも移動するタクシーにめぐり合える偶然なんていかばかりかとも思う。

そんなタクシーに二度も遭遇するなんて…、奇跡だったのだ。

俺は医療刑務所の薄暗い色の自動ドアを二箇所抜け、外に出た。

少し高くなった太陽が眩しい。

医療刑務所の敷地に植えられた木々の緑は色濃く、熱気が俺の体を包む。

手帳に日付などをメモしていたので、今が七月だというのは知っていた。

だが、外に出て改めて夏を実感する。

しばらく目がなれなくて、手でひさしを作ったままその場で立ち止まっていた。

いつもこの時間は他の入所者が朝の運動をしたりでごった返しているのだが、日曜日だし、面会時間よりは早い時間なのでほとんど人がいない。

やっと目が慣れて、二・三歩足を進める。

すると目の前のロータリーにすっとタクシーが止まった。

「!」

あのタクシーだ。

真っ白の、屋根にタクシーのマークだけ乗せたスカイライン…。

扉には紺色で『五辻タクシー』と書かれている。

それには今日初めて気付いた。

俺が乗り込んだ時は二回ともすぐに扉が開いたので、文字を見ることが出来なかったのだ。

タクシーから運転手が降り、こちらに歩いて来る。

前に会った時の様に目深にかぶった帽子で表情などはまったくわからない。

「なぜ。どうしてここに?」

俺の問いかけに動じる事無く、運転手は胸ポケットから手帳を取り出し、その中の一ページを開いて俺に見せた。

今日の日付、そして退院する時間が書かれている。

「これは…俺の手帳?」

いや、そんなはずはない。

でもそこに書かれているのは俺の字だ。

けれど今日の事はまだ手帳に書いていない。

胸元を確かめるとそこには自分の手帳がしまわれている。

「久しぶりだな」

運転手はそう言い、帽子を取った。

そこに立っているのは…俺だ。

正確には年をとった俺。

「どうして…」

「俺を、いやこのタクシーを探すつもりでいただろう?」

確かにそうだが。

「とにかく乗ってくれ。そうじゃないとせっかく時間をずらして伝えたのに藤野が来てしまう。」

運転手はすたすたとタクシーに戻り、後部座席の扉を開いた。まるでハイヤーの運転手だ。

俺は後部座席へと座る。そして運転手は運転席へと座った。

エンジンがかかる。

すると窓から藤野が玄関ホールへ入って行くのが見えた。

ゆっくりとタクシーが動き出す。

玄関から慌てて藤野と椚木さんが出て来る。もうかなりの距離だ。

藤野が両手で顔を抑えていた。それを椚木さんが支えるように抱く。

きっと泣いているのだろう。藤野には返事をせず、そして会わぬまま病院を後にしたから。

俺はそれを見えなくなるまでミラー越しに見ていた。

「良い娘だったけどな…」

意味深な運転手の言葉。

けれど俺は何も答えなかった。

答える必要もないだろう。彼は俺自身だ。

「これからどこへ?」

「そうだな…」

運転手はギアを入れかえ、スピードを上げた。


「ここは…?」

野原の中のバラック。その目の前にタクシーは止まった。

タクシーから降りると周りの塀は朽ちており、遠くには高層ビル郡を望むことができた。ここら辺は昭和初期のような感じなのに、なんだか背景がちぐはぐだ。

「時に忘れられた場所…。俺の家だ、入ってくれ。」

運転手は玄関の戸をガラガラと開け、中へと入る。俺も後に続いた。

部屋に入り運転手に進められるまま座る。

初めて来た部屋なのに、なんだか落ち着く部屋だ。

余計な物が何もないせいかきれいに片付いて、それが昔の俺が住んでいた部屋と似ているからかもしれない。

運転手はお茶を俺の前へ置いた。

「これから、お前はどうするつもりなんだ?」

自分の湯のみを両手で包み込むように持ち、目線はその中身に注いでいる。

「わかりません。」

この問いはこの運転手自身、昔聞かれた事なのだろうか?それとも新しい別の出来事なのだろうか?

「やはり…な。」

運転手はそう言うとお茶をすする。

それがとても穏やかで、俺は逆にイライラした。

「あなたは俺なんでしょ?ならばなぜ、俺をあの場所に連れて行ったんですか?俺が母さんを殺してしまうと分かっていて…」

ただ、時を渡る事の出来る機械を持った人物と言うだけなら、あの後どうなるかを知らなかったかもしれない。だから俺の希望通り連れて行っただけだと考えられる。けれど、この運転手が俺自身ならば、あの場所に行けばどうなるかを知っていたはずだ。

「責任転嫁したいのか?お前をあの時に連れて行った俺に」

湯のみをそっと置き、俺の顔を見つめる。

「違うっ!俺自身のためじゃない。あそこに行かなければ、母さんは死なずにすんだはずだ。」

それに、母さんを殺さなければ彼女に合うことも無かった。あんな風に彼女を悲しませることも…。

「じゃあ、お前はそうすれば良い。俺はもう長くない。この家も、あのタクシーもお前が自由に使ってくれ。」

「そのために連れて来たのか?」

「そうだ…。だが、無理にとは言わない。お前が望むのならば、最後の仕事に希望する所へ連れて行ってやる。」

言われても思いつかない。あのタクシーに乗った日に戻っても肉体が急に八年分も年をとっているのだ。回りに怪しまれる。

だからと言って肉体どおりの時間に戻っても八年間行方不明だった人間に行ける場所などない。

事件の日に戻れば、俺を止めることが出来るかもしれない。だがそれっきり移動手段がなくなってしまう。

俺はとりあえずこの場にとどまる事にした。

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