第一章
第一章
「母さん」
背負ったランドセルをガタガタいわせ、母の姿を認めた僕は走り出した。
いつもの学校の帰り道。家はもう目の前だ。
すっかり秋が深まったせいか、垣根の緑は少し元気がない。けれど、近所の公園に植えてある柿の実がかなり色づいていた。
でも、その柿の実が渋柿だとみんな知っているので、生っている実は誰も取ろうとはしない。
ただ、落ちて来た実を見付けた時にふざけてボール代わりに遊ぶだけだ。
熟した実なので受け取る瞬間にぐしゃりと潰れることがある。
いつ潰れてしまうのか。
そのスリルを味わいながらのキャッチボールは毎年恒例になっている近所の男の子たちに大人気の遊びだ。
(今年もできるかな?)
そんな事を思いながら母の元へ走る。
僕が帰る時間に合わせて買い物をしてきた
んだろう。母は手にスーパーのビニール袋を下げている。
その時、タクシーが僕の横を通り過ぎた。
僕は一瞬、タクシーへと目をやり安全を確かめると、また母のいる方向へと視線を戻した。
そこには母に声をかける男。
男は母よりも背が高く、覗き込むように母の顔を見ていた。そして何やら叫びながら母の体を揺さぶる。
母は恐怖に怯えきった様子で男の手から逃れようと、手にしたビニール袋を振り回し、もがく。
すると男は母の肩に置いていた手に力を込めた。
痛みに母の顔がゆがむ。
だが容赦なく男の手は母の肩から首筋へと進む。
母は男の手を自分の首筋から離そうとする。が、母の手はだんだんと力無く垂れ、男は愕然としながらも母に何かを叫んだ。
「母さんっ!」
僕は母に駆け寄る。
睨み付けた時、男は懐かしげに僕を見ていた。男は二十五歳位だろうか。しかし僕はこのような人物に会ったことなど無い。
男の顔は涙に濡れていた。
母は地に倒れ、俯せのまま動かない。
そんな時、サイレンの音が鳴り響いた。
「智弘、まだ家に居たの?」
けたたましい携帯電話の呼び出し音に起こされ、俺は不機嫌ながらもスイッチを入れた。電話口からは、すぐさまその様な声が飛び込む。
「ああ、すぐ行く」
俺はそれだけ言って電源を切った。これ以上話をすれば響子の事だ、文句を延々と言ってくるだろう。
俺はサイドテーブルに放り出していた腕時計に目をやった。
六時四十分。
待ち合わせは確か七時。遅れるのではないか、と先を見越して電話をくれたのだろう。響子らしい。
(またあの夢か…)
俺は先ほどの夢をふと思い出した。何故だかいつも見る夢。どうしていつも決まってこの夢を見るのだろう…。
回想にふけっていた目が、また腕時計で止まる。
「いっけねぇ」
俺は慌てて身支度を整え、その腕時計をはめた。
何も無い部屋。
まあ男の一人暮らしなんてこんなモノだろう。
特に俺は面倒なことが嫌いで部屋には寝るためだけに帰っている。だから部屋に有る物といえば何着かの服とベッド。仕事柄必要なパソコン。それ以外は壁掛け時計やカレンダーすら無い。
部屋からは夕焼けのオレンジをバックに、都心のビルの明かりが見える。
明け方の取材から帰り、こんな時間まで眠っていたなど自分でも呆れてしまう。
俺はスーツに着替えると、部屋を飛び出した。
仕事の待ち合わせに遅れたなどデスクに知れては大変だ。あの真ん丸な編集長の顔が真っ赤になると茹でタコを思い出してしまい、怒られていても笑いをこらえるほうが大変なのだ。
特に今日は来日中の米国大統領の晩餐会。警戒態勢になっているはずだから、遅れればホテルのロビーにさえ入れないだろう。
俺は五辻智弘。新聞記者をしている。電話をよこした納田響子はカメラマン。二人でコンビを組み仕事をしている。
響子は美人だ。仕事の腕もずば抜けている。ただあの異常なまでのしっかりした性格のせいで、まわりからは疎まれているが…。
そのせいか『年齢が近から』などとの理由をつけられ、一緒に仕事をさせられることが多くなった。
最初は俺も戸惑ったが、仕事はちゃんとできるし、向こうがぽんぽんと言いたい事を言ってくるので、こちらも色々と言いやすいと感じて最近では名コンビになりつつある。
ただ、やっぱり口では女の響子に分がある様だが。
もうかなり日が短くなったので、空は暗くなっていた。
だが、借りている部屋は駅に近いので、街頭や店の明かりなどで道路はとても明るい。
駅から出てきた人々が店に入ったり、バスの停留場に並んだりする姿が機械的に見える。
俺は更に早足で構内へ向かった。
カードを自動改札にかざす。
この時間になると帰りの客の方が圧倒的に多いので、改札もスムーズに通れた。
駅の階段を駆け上がると、ちょうどホームに電車が入ってきた。俺はその電車に滑り込むように乗り込んだ。
(新宿駅からタクシーで行くしかないな)
空の色はもう完全な夜の色で、車窓からは窓明かりが星の様に輝いて見えた。
駅を出ると目の前のタクシー乗り場には一台のタクシーが駐まっていた。
いつものこの時間ならば、タクシー乗り場には多くのタクシーが行列をなしているのだが、今はそのタクシー一台しかない。
晩餐会の客が多く、タクシーが使われたからなのか、もしくは米国大統領が来ているから交通規制がされているのかもしれない。
(助かった。これなら間に合う)
「運転手さん、七時までにクラリオンホテルに着かなければいけないんだが…」
俺はタクシーに乗り込みながらそう言った。
(何だろう、なんか陰気くさそうな運転手だな。車の内装も変わってるし…)
料金メーターとは違う何かの表示。
今は何の数字も表示されていないが、こんな物を付けたタクシーを見たことがない。
そういえば車の外装もちょっと変わっていた気がする。
古い形のスカイライン。最近のスカイラインは角が丸い全体的に柔らかなフォルムだが、このタクシーは角張った感じだ。まあ、俺としてはこの角張った昔の型のスカイラインの方が好きなのだが。
それに普通、タクシーと言ったらボディーにカラフルなラインが入っている。が、このタクシーは白一色だった。
そのせいもあって車の屋根の上に特有のマークが乗っているからタクシーなんだと分かったくらいだ。
それとも扉の部分にはカラフルな柄が施されていたのだろうか?
俺が乗り込もうとしたときには扉が開いていたから分からなかっただけか?
心の中でそう思いながらも顔には出さない。
運転手が機嫌を損ねてワザと遠回りされたら大変だ。
「お客さん、本当にいいんですか?」
運転手はルームミラーを覗き、俺の顔を見た。でも、目深にかぶった帽子のせいで表情は読み取れない。
「あ・ああ、お願いします」
やはりどことなく気味が悪い。こんな人物の車に乗ることになるとは…。
しかしこんな人物の機嫌を損ねる方がもっと怖い気がして俺は出来るだけ下手にでた。
「…」
運転手はもう一度ルームミラーで俺の顔を見ると、何も言わずにハンドルの横から飛び出しているコラムシフトを操作してゆっくりと車を走らせた。
車でならばたいした距離じゃないが、俺は運転手に話しかけられないように外の景色を眺めていた。
いつもなら混雑している目抜き通りも今はバスレーンに十メートルほどの間隔を置いて停まっているパトカーや白バイがあるだけで路上駐車している車は全く無い。
残りの片側二車線にも車はほとんど走っていないので、道端をいつもより広く感じる。
葉が落ちて見通しが良くなった街路樹。その梢の隙間からクラリオンホテルの窓の灯りが見え隠れしている。
クラリオンホテルは今年の四月に開業したばかりの米国外資系ホテルだ。
今日の主賓が米国大統領だから政府や官僚が気を使って米国大使館からは少し遠いが、このホテルを会場に選んだらしい。
視線を少しずらすとホテルの向かい側の街路樹に白い布が括り付けられていた。
【ようこそ日本へ!カードス米国大統領】
街頭に照らされてた布にはそんな文字が浮かぶ。米国大統領を歓迎する横断幕のようだ。
その横断幕の横には五・六人の男女が小さな米国国旗を手に持ちパタパタと振っている。
もうすでに中に入ってしまっている大統領に、しかも日本語で書かれた横断幕など読めるわけも無いだろうに、熱心な事だ。
そこへ警官二人が駆けつけ、男女に声を掛けている。男女の気をひいている間に別の警官二人が駆けつけ横断幕を外そうとしていた。
(あれ?)
視界がぼやけた。
(まだ寝ぼけてるのか?)
俺は目を擦り、また外を見た。
そこには警官の行動が失敗に終わったのか、街路樹に括り付けられたままの横断幕と小籏をにこやかに降り続ける男女が居た。
「智弘、あの電話どこで受けたの?」
俺がクラリオンホテルに着くと響子がロビーの電話コーナーからこちらへと歩いてきた。そして俺を見付けると呆然としながらそう聞く。
真紅の胸元の大きく開いたイブニングドレス。飾り気の少ないタイトなドレスなのでスタイルがはっきりと分かる。
パンツスーツの響子しか見たことのなかった俺はそのスタイルの良さにドキッとした。
衣装に合わせて施された化粧が全体的にシャープできつく見える顔をやわらかい雰囲気へと変えている。大きな二重の目もアイラインのせいかより大きく、黒目がちに見せていた。長い髪もウェーブをかけて胸元で軽やかに揺れる。ただせっかくの軽いうウェーブも真っ黒の髪の色のままでは重たく見えてしまい残念な気がした。しかも手には一眼レフのごついカメラ。これもドレス姿という装いを台無しにしている。
元々美人なのだからドレス自体は似合っている。だが、そんな姿でポカンと口を開けたままなのだから何だかおかしい。
「何言ってんだよ、家に決まってるだろ。あのTELで起きたんだから」
俺は自分の髪をもう一度整えつつ、苦笑しながらそう言った。
「でも今電話したばかりなのに…」
響子は首を傾げ、また口を開く。
「今、電話してここに歩いてきたら貴方の姿が見えたのよ」
俺は苦笑を続けたまま口を開いた。
「お前みたいな真面目な奴が冗談言ってもラシくないぞ。もう電話が掛かってきてから十五分は経ってる」
俺はわざとらしく腕時計を見、そう言う。
そんな俺の行動を見て響子は表情を一転して怒りだした。
「冗談なんか言ってないわよ。本当に今電話したばかりなのよ!」
「じゃあ何だ、俺がタイムマシーンにでも乗ってきたっていうのか?」
俺は面白半分にそう言う。響子は口ごもったまま何も言えずにいた。
俺たち記者は大広間へ通された。さすがに要人の使う部屋だけあってゴージャスで広い。
だがその部屋のセッティングは何だかちぐはぐだった。上座となる奧には横長のテーブル。そしてその近くには丸テーブルに椅子が並べられ、まるで結婚式の様だ。だが、俺たちの側のテーブルには椅子は無く、立食パーティーのようだ。椅子のあるテーブル席と立食形式のテーブルの間には背の低い仕切りが置かれ、奧に入る事は出来ない。
「もう、なんなの」
響子が先ほどよりも更に不満げにしていた。
「あれ、カメラはどうした?」
いつも肌身離さず持ち歩いてるカメラが無かったので思わず口をついた。それに俺たちの目的は取材だ。カメラマンの響子がカメラを持って無いのでは意味が無い。
「主催者に取り上げられたのよ。今日の写真は専属のカメラマンが撮って政府側のチェックを通ったモノを報道に渡すって。こんな格好までして来たのに…なんなのよ」
響子の不満はそれだけではすまなかった。
自分の方が専属カメラマンなんかより上手いだろうとか、最近休みをもらってないのにとか、先ほどの俺の遅刻しそうだった事にまで話題を蒸し返す。
「ま、まあ落ち着けって。こうして旨そうなもの置いてあるんだし、食ってけばいいじゃん」
カメラの話題はとんだ墓穴だった。
響子はまだブツブツ言っていたが、俺に当たって気がすんだのか、少し落ち着いた。だが手だけは手持ちぶさたなのか指を細かく動かしている。よく見とそれはピントを合わせたりシャッターを押したりする動きだった。ここまで来ると職業病だ。
そんな時、奧の横長のテーブルに近い扉が開いた。タキシード姿の男が入って来る。その男に見覚えは無いので政府関係者ではなくホテルの者なのだろう。その男は司会台のマイクに向い軽く息を吹きかけてマイクが通っているのを確認した。
「今日の晩餐会では質問は一斉お受けできません。報道関係の皆様には日ごろの労をねぎらって頂くためにお料理とお飲み物をご用意致しました。どうぞ存分にご堪能下さい。」
司会者はそう言うとまたそそくさと扉の奧に消えた。
ざわめく報道関係者。
カメラマンだけでなく記者もそんな扱いだったとは。
今日の晩餐会では日米友好条約の改訂とその調印式だと聞いてやって来たのだ。その内容やそれぞれ担当者の感想などを聞く事も出来ずに食事を楽しめなんて、馬鹿にするにも程がある。
しばらくすると今度は外人が五名、仕切り近くに等間隔に並んだ。こんなごつい男が前に立っていては同じ部屋なのに奧の様子が見えづらい。
仕切りのガードが完了すると日米の政府関係者や官僚、総理と大統領が次々と席に着く。
そして和やかに晩餐会が始まった。だが奧の椅子に座っている連中の穏やかな歓談とは対照的に、俺をはじめとする記者やカメラマンのほとんどがやけ食い状態だった。
取材という名のやけ食い大会も終わり、俺はまた自分の部屋へと戻っていた。
部屋の明かりもつけずに外を見ると、自分が宙に浮いているような不思議な感覚になる。
面倒でそのまま、外の明かりを頼りにスーツをハンガーにかけた。仕事柄とはいえスーツを着ていると肩がこる。
「でも響子が冗談を言うとは思えないしな…」
俺は先ほどのやり取りを思い出していた。あの時は面白がってあんな事を言ったが、響子は冗談を言うような奴じゃない。
(まさか本当に時をさかのぼったのか?)
あのタクシーの奇妙な内装が気に掛かった。あの車なら…、とさえ思ってしまう。そんな自分が馬鹿らしくなり俺はさっさとシャワーを浴び、ベッドへと潜り込んだ。
「!」
俺は飛び起きて回りを見た。
いつもと変わらぬ自分の部屋。
「またあの夢か…」
何故だろう。最近、より鮮明に…まるで本当に見たかのように感じるあの夢。
確かに俺の母親は子供の頃に亡くなっている。そう小学一年生の…。
(?)
母の死因は何だった。今まで勝手に病気だと思い込んでいたが、本当に病気だったのか?ただ俺が夢だと思い込んでいるだけでアレが事実だったんじゃないのか?
俺は思考を巡らせた。
でも、何も思い出せない。
あの頃の…母の亡くなった頃の記憶だけが抜け落ちている。
父に確認したいところだが、父も昨年亡くなってしまった。
(どうすれば分かる?)
ベッドの上からゆっくりと立ち上がり、パソコンの横に置いた手帳に手を伸ばす。だが、母の死因を確かめられそうな人物の名前は見つからなかった。
(そうだ!あのタクシーに乗って確認すればいい。そうすればあのタクシーが本当に時をさかのぼるのかも分かる。もし違うなら上手く誤魔化せばいいし…)
手にしたままの手帳のスケジュールを確認すると明日は仕事が休みだ。俺は明日、あのタクシーを探すことに決めた。
待ちに待った休日。
俺は新宿駅に居た。
とりあえず乗り込んだ駅周辺にいる事が多のではないか、と考えてここに来た。
まだあの時乗り込んだ時間よりも早いので文具屋へと足を伸ばす。
手帳の残りページが少ないと昨日気付いたからだ。
仕事道具の一つだから、ちゃんと用意をしておかなければ。
俺が愛用している手帳は大きな文具屋へ行かないと売っていない。
その手帳は亡くなった父が就職祝いにプレゼントしてくれたのと同じ物。
あまりこだわりなんかない俺だが、この手帳は書きやすくて、ずっと同じ物を使い続けている。
文具屋に入ると、店内はハロウィンのかぼちゃの柄であふれていた。
天井には紙で作られたジャックランタンがふらふら揺れている。
(もうそんな季節か…)
ふと思う。
季節感のない生活をしているので、こんな時に急に季節を思い出す。
そういえば元カノがやたらイベントごとが好きでこの時期もはしゃいでいたっけ。
ジャックランタンというその名称も彼女から教わったんだ。
でも、社会人になって時間が合わなくなり、自然消滅した。
三年も経って、もうすっかり忘れていると思ったのに。
だが、今のこの気持ちが感傷といったものではなかったので、ジャックランタンを一瞥しただけでそのまま奥へと進んだ。
手帳を扱っているコーナーもかなり様変わりしていた。
この時期だからなのだろう、“来年のスケジュールはこれで決まり!”とのPOPが付けられた、多くのシステム手帳が置かれていた。
いつもの所に目的の手帳がなかったので、少し戸惑ったが、どうにか買うことが出来た。
俺はレジで『すぐに使うので』と伝え、袋に入れてもらわず、代金を払うとすぐに自分の胸ポケットにしまった。
袋をもらってしまうとゴミを家で捨てなければならないので面倒くさいからだ。
また、紙で作られたハロウィンのジャックランタンの下を歩きながら店を出る。
(そういえば、あの夢の季節も秋だったな…)
同じ季節だからあの夢を見たのだろうか?
いや、季節などほとんど意識しないで生活しているじゃないか。
じゃあなぜ…?
考えてはみるが、やはりよく分からなかった。
俺は駅へ向かって歩き出した。
買い物をした文具屋と、あの時に乗ったタクシー乗り場とは出口が違うので、一度駅の構内を通ってタクシー乗り場に向かった。
一台のタクシーを探すなんてどんなに大変だろうと想像したが、意外にもそのタクシーはすぐに見つかった。
そのタクシーは駅を出た俺の目の前を滑り込むようにやってきて、止まった。
しかもまだ手をあげていないのに、だ。
真っ白な、屋根にマークが乗っているだけのタクシー。
「まだ手をあげていなかったのに、何で俺がタクシーに乗りたいなんて分かったんですか?」
俺は乗り込みながらそう聞いた。
「客商売ですから」
運転手はそれだけ言うと料金メーターをセットした。
「二十年前の世田谷まで」
俺はそう言い運転手の様子を伺った。運転手のほうはルームミラーでチラッと俺の顔を見た。
「本当にいいんですか?」
「お願いします」
運転手は料金メーターの下に有るデジタル表示の時計の様な別のメーターをセットし走り出した。
車のスピードに反して、外の景色はめまぐるしく変わる。
乗り物酔いなどしたことの無い俺だが、さすがに気持ち悪くなってきた。
俺は景色を見るのを諦め、運転手に話しかけられたくなくて、ただ俯いていた。
俺が降ろされたのは確かに俺が小学生だった頃の世田谷。まだ発展も疎らで、民家もそれなりに残っている。
屋根と屋根の隙間から公園に植えられている柿の木の天辺が見えた。
だがここからはそこに実がなっているかはわからない。
俺は自分の育った家の前に立っていた。
隣の家にある垣根の緑は夢のとおり、やはり元気がない。
そこへ買い物袋を両手に下げた母の姿が近付いて来る。俺は久しぶりに逢えた嬉しさに我を忘れて駆け寄った。
「母さん」
しかし母は怪訝な表情を浮かべ、関わり合いたくないと逃げる。
「母さん、俺だよ。智弘だよ」
俺は母の肩に手を置き、大きく揺さぶる。
「だっ、誰か…」
母は恐怖に顔をひきつらせ、助けを呼ぼうとした。
「母さん、俺だよ。分からないの?母さん!」
俺はなおも母を揺さぶる。しかし母はこの場から逃れようと買い物袋を振り回し、俺の手を離そうとした。
「母さん!」
分かってもらえない怒りから俺の手には力が入り、母の首に食い込む。母は力無く膝から倒れ込んだ。そこへ少年が駆け寄る。俺は愕然としながらもその少年の顔を見た。俺だ、小学生の頃の…。
「母さん…?」
目線を下に落とすと母さんの後頭部が見える。
俺の両手の指は中途半端な輪っかの形のままで固まっている。しびれて感覚がない。
俺は膝を折り、足元に倒れている母さんの肩をゆすった。
うつ伏せの母さんの体をゆっくりと仰向けにする。
見開かれた瞳。だがそこにもう光はない。
その光のない瞳が闇の色で俺を向いていた。
怒りも、苦しみも、何の表情もないその瞳。
「ワァァァァァー」
俺は急に怖くなった。
しりもちをついた状態のまま後ろにズルズルと逃げる。
だが母さんのその瞳はずっと俺を見ていた。
俺は叫んだまま両手をぶんぶん振り回す。
母さんの瞳から逃れたかった。だかもう動くことができない。
叫びすぎて頭の中が真っ白になる。
すると何処からかサイレンの音が鳴り響いてきた。
「母さん…」
俺は鉄格子の掛かった窓から空を見上げた。何事も無かったような穏やかな空に鳥が舞っている。
ここは医療刑務所。俺は精神異常者としてこの病院に入れられた。それもそうだ、この時代の母は三十三歳なのだ。こんな大きな息子が居るわけがない。しかし俺は『母を殺した』としか言えない。わざわざ嘘を付くつもりもない。ただあの夢の、母を殺した男が俺だった事だけがハッキリとした。
(俺は何のためにこの時代に来たんだ?母親を殺すためか。けどあの子には悪いことをしたな、まさか自分で自分の母親を殺してたとはな…)
俺の気の抜けた笑い声が部屋の中をこだましていた。
「先生、あの少年はどうなるんでしょうか?」
「そうだな。母親を目の前で殺されたんだ、精神障害を残す結果にならねばいいのだが…」
医者と助手の会話は廊下の片隅へと消えた。
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