第14話 悍ましい声
黒い体を渦巻かせながら迫ってきた悪霊は、まず、『コル』の残骸に飛び付いた。悪霊は、『コル』の残骸__焼け焦げたローブと灰燼のみになったものの周りを、唸り声を上げながら旋回する。
<……ヴァ、ガギィ、ォ……、ガァア、グァ……!>
悪霊は、『コル』の残骸の周りを、激しく旋回し続ける。何度も何度も、その残骸を確認するように、旋回を続ける。
<……ヴァ、ガギィ、オ!! ガァア、グア!!>
そして、悍ましい声を轟かせる。その『コル』の残骸が既に人の身体として機能していない事を、嘆き悲しむようだった。
<ヴァガギィオ!!! ガァアグア!!!>
次の瞬間、悪霊が方向を変えて、突如、アデルへと迫ってくる。
悪霊は、疾風の如く駆け、驚き竦み上がったアデルへと覆い被さる。
「うっ……!?」
アデルは、吐き気を催す。悪霊の黒い煙のような体が、アデルの視界を埋め尽くし、負の感情に満ちた唸り声が、両耳を捩じり取るかのように悍ましく響く。アデルは、意識が飛びかけそうになり、体をふらつかせる。
「伏せて下され、赤リボン殿!」
キルシュタイン博士は、悪霊に覆い被さられたアデルに向けて、杖を振る。その杖の先から一条の雷が迸り、上手くアデルを避けて、悪霊の黒い体を穿つ。
<ギギギギギギ……ッ!>
悪霊は、キルシュタイン博士の魔法の雷撃を受けて、悲鳴を上げてアデルから離れる。そして、痛みに悶え苦しみ、アデル達の上空でのたうち回る。
「ふむ……、これはもしや、赤リボン殿を『コル』と勘違いして乗り移ろうとしたのですかな? 興味深い反応ではあるが、やはり、早々にあれを消さなくては、赤リボン殿にとって危険ですな」
キルシュタイン博士は、上空でのたうち回る悪霊をじっくり見据えつつ、杖の先に魔法の光を灯す。
「待って!」
その時、杖を持ったキルシュタイン博士の腕に、アデルがふらつきながら飛び掛かる。
「……どうされましたかな?」
「待って! あれは……、あれは……!」
「あれは?」
アデルは、震える声で叫ぶ。
「あれは、コルよ! 私と一緒にいたあの子よ! そうでしょう!?」
「そうですな。あれは、昨日まで『コル』の中に入っていた霊魂__それが悪霊となったものですな」
「なら、止めなさい! 止めるのよ!」
「……それは出来ませんな。この“後始末”は、魔術省と魔法結社と取決めたことですので。__何より、敬愛する貴女のためにも、あれを始末しなくてはなりません」
キルシュタイン博士は、肩を竦ませると、軽く杖を振る。彼が使ったのは風魔法。突風が吹き、彼の体からアデルを引き剥がす。
突風によって地面を転がされたアデルは、直ぐに起き上がり、キルシュタイン博士を睨み付ける。
「この……っ! 何するのよ!」
「少し大人しくして下され、赤リボン殿。今の貴女は、見るに耐えない」
キルシュタイン博士は、上空でのたうち回る悪霊に向けて、魔法の光が灯った杖を構えている。
「我輩が、責任を以って片付けましょう」
そして、再び、キルシュタイン博士の杖の先かから雷が迸る。その魔法の雷は、蛇のように宙を駆けて、悪霊の黒い体を鎖のように縛り、激しい雷鳴と共に稲光を瞬かせる。
<イッ……ギャギャギャギャギャギャッ!>
悪霊は、絶叫を上げる。稲光の中で、黒い体を苦しそうに震わせる。アデルは、その苦しむ様を、呆然と地上から見上げる。
<……アッ……、……アッ!>
苦しみ藻搔く悪霊は、一瞬だけ、体の動きを止める。
<……ア、……ゲェ……グ……!>
そして、黒い体から、小さく滑らかな手が伸びる。
<ア、デ……ッ! ……グ……>
その小さな手は、アデルに向けられたようにも見えた。だが、その手は、直ぐに霧散してしまう。
それから、悪霊の黒い体は、力尽きたように、地上に落ちて行ったのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その少女は、自分が誰なのか分からなかった。
自分がどうして生まれて来たのか、どうして此処にいるのか、分からなかった。
ただ唯一、彼女の分かる事は、自分の名が“コル”であることだけだった。
その少女__コルは、意識が芽生えた瞬間、ノーク町の中にいた。
ただ、彼女には、そこが町だとは分からなかった。彼女を取り囲むのは、混沌だった。自分の周りに並ぶ多くの建物が建物だと分からず、自分の横を通り過ぎていく多くの人達が町の人々だと分からず__分かる事は、何らかの雑多な物質と流れが自分の周りに存在している、という事だけだった。
彼女は、訳も分からず歩き続けていた。歩いて、歩いて、歩いて、とにかく、歩く。長い間ひたすらに歩き続け、やがて、体が疲れを覚える。しかし、その時の彼女には、まだ疲れるという事の意味が分かっていない。分かるのは、今自分が採るべき適切な行動というのは、歩くのを止めることなのだという事。そして、何処か物質の少なく、流れの穏やかな場所で横になり、目を瞑るべきだという事。
コルは、一度眠りに就き、そして、長い眠りの果てに、目を覚ます。すると、周囲の世界が変わっていた。混沌としたはずの物質の世界が、意味のある輪郭と色を持っていた。彼女は、生まれ変わった気分で、また歩き始める。
コルは、歩く。歩いて、歩いて、歩いて、やがて、自分が空腹で苦しんでいる事に気が付く。そして、今自分が採るべき適切な行動というのは、何か物を食べることである事が分かった。また、分かっただけではなくて、そうしたいとも思った。
コルは、食べ物に行きつくまでの手段を知っていた。自分の着ている大きすぎるローブの内側に、財布がある。財布の中には硬貨があり、食べ物を売っている場所にいる人にこの硬貨を出すと、食べ物と交換できる。不思議な事に、彼女には、最初からその知識を持っていた。
食べ物でお腹を満たしたコルは、また歩き始める。彼女は、徐々に、混沌の世界から抜け出していく。周りの建物の違い、道行く人々の顔や体格の違いが明確に分かるようになり、その違いが楽しくなっていった。
そうして、歩いて、歩いて、歩いていくと、体が疲れを覚える。今自分が採るべき適切な行動というのは、歩くのを止めるだという事が分かった。分かっただけではなくて、休んで、眠りに就きたいと思った。
コルは、再び眠りに就き、そして、目覚める。それから、眠りから覚めた後、彼女は、わくわくしながら、町を歩いた。周りの様々なものに、興味を惹かれ、目を輝かせた。自分を取り巻いていた世界は、こんなにも面白く、楽しいものである事に気が付いた。
しかし、そんな楽しげだったコルに、黒い影が忍び寄る。
<……ヴァ、ガギィ、ォ……、ガァア、グァ……!>
コルが見上げた先に、その悍ましい声の存在がいた。黒い煙のような体の謎の存在。最初、彼女は、それの敵意が自分に向けられているとは思わなかった。
<……ガァゲェ……、ィブェ……!>
その黒い影は、コルに飛び掛かる。負の感情に満ちた黒い体が彼女に覆いかぶさる。背筋が凍るような怨嗟の声の渦巻きが、彼女を包んで苛める。彼女は、その悍ましい敵意が自分へと向けられている事に気が付く。気が付き、恐怖の悲鳴を上げる。
コルの悲鳴と共に、紫色の光が体から迸る。その光に貫かれて、黒い影は痙攣しながら彼女の体から離れる。
そして、コルは、走った。走って、走って、走って、あの黒い影から逃げた。やがて、息を切らして、座り込む。そして、怯えて震えた。楽しいはずの世界に、あのような恐ろしい存在がいることに愕然となった。
その後、暫くしてくると、またお腹が減ってくる。彼女は、震えながらも立ち上がる。空腹を満さなくてはならなかった。そうしなくては、胸の内に広がっている不安感が、やがて自分の息の根を止めてしまうように感じられた。
しかし、コルは、ある重要な事に気が付く。ローブの内側にあった財布が、見当たらなかった。どこかに、落としたようだった。おそらくは、あの黒い影から逃げている際に、落としたのだ。
コルは、慌てて落とした財布を探した。町中を駆けて、探して、探して、探した。しかし、落し物は見つからない。地面に這いつくばって、探し回るも、やはり、見つからなかった。
コルは、泣きそうになる。恐怖と不安に震えて、途方に暮れる。
誰か、助けて欲しかった。しかし、一体誰が自分を助けてくれるというのだろうか。
コルは、その時初めて、自分が孤独である事に気が付く。自分が、寂しさの中にいる事に気が付く。自分と周りの世界に敷かれた、見えない線の存在を感じ取る。
不安と恐怖に打ち拉がられたコル。そんな彼女に、声が掛かる。
「あなた、どうしたの?」
その声に、コルは顔を上げる。
そして、その魔女に出会う。
不思議な煌めきを纏った長い金髪と、赤い瞳の魔女__『赤リボンのアデル』に出会う。
自分と似た顔の魔女に出会う。
コルは、アデルに助けてもらい、それから、彼女と行動を共にすることになる。コルにとってアデルは、自分を恐怖と不安から救ってくれた恩人であり、初めて出来た友達であった。彼女達は、一緒にノークの町を遊び回った。そして、特別な思い出を作っていった。
コルは、アデルが大好きだった。一緒にいられて、楽しかった。アデルと一緒にいると、世界が輝いて見えた。
コルは、アデルが大好きだった。だから、アデルの笑顔をもっと見たかったし、アデルにも自分の事を好きになってもらいたかった。
だから、コルは、アデルの気持ちを確かめたかった。
コルは、不安になることがあった。アデルは、自分に笑顔を向けてくれる事がある。けれども、時々、アデルが本当は自分の事を見てくれていないと、感じてしまうこともあった。自分に向けられたアデルの赤い瞳に、自分が写っていないように感じることがあった。アデルが、何か別のものを見ているような、そんな気配を何故だか感じてしまうのだった。
それに、アデルは、コルの前で辛そうな顔を見せる事があった。アデルは、何かに思い悩んでいた。コルには、アデルのその悩みが具体的に何であるか分からなかったが、おそらくは、自分に関係するものだということを感じ取っていた。
だから、コルは、アデルの気持ちを確かめたかった。アデルが、自分と同じ気持ちなのかを確かめたかった。
「ねえ、教えて欲しいの、アデル。アデルは、私と一緒にいても楽しくないの……?」
コルは、怯えながら、アデルにそう訊ねた。勇気を振り絞って、そう訊ねた。
それに対して、アデルは、コルに歩み寄り、その幼い頭に優しく手を置く。
「私自身、このもやもやが何なのか分かっていないけど……。__けれど、同じよ、コル」
「……同じ?」
「ええ、同じよ。私達、同じなのは顔だけじゃないみたい」
そして、返答する。
「私も、あなた一緒にいられると楽しいみたい」
柔らかく笑いながら口にしたアデルの言葉に、コルの不安が拭い去られる。コルの表情に笑みが広がった。その言葉は、大好きな人から欲しかった言葉だった。
アデルは、言葉を続ける。
「だから、そうね……コル、これからも__」
しかし、アデルが言葉を言い切る前に、コルに異変が生じる。
突如紫色の閃光が迸り、コルの意識が宙に浮く。体が不気味な浮遊感に包まれ、全身の感覚が曖昧になる。
コルは、自分が宙に浮いていることに気が付く。突然の事に驚きつつ、眼下を見下ろす。
見下ろした先には、アデルがいた。そして、淡い紫色の髪の少女が地面に倒れているのを、アデルは、必死に起こそうとしている。淡い紫色の髪の少女__自分の体だ。
そして、コルは、自分が霊魂の状態になっている事に気が付く。肉体を持たない、誰の目にも映らない存在になっていた。彼女は、何が起きているのか分からず、混乱する。だが、やるべき事は一つだ。
コルは、自分の体へと戻ろうとする。そこは自分の戻るべき場所なのだから、戻らなくてはならなかった。
しかし、『コル』の体は、コルを受け入れない。コルが自分の体に入ろうとするが、そこには既に、別の何かが埋まっていた。何度も何度も試しても、入ることは出来なかった。焦るコルは、強引に体に入ろうとするが、その瞬間、体から紫色の光が閃き、弾き飛ばされる。
コルは、誰にも聞こえることのない悲鳴を上げ、のたうち回る。痛かった。痛くて、痛くて、痛くて、苦しみ悶える。痛みで、思考が千切れそうになる。
暫くのたうち回っていたコルは、痛みが治まってきたところで、やらなければならない事を思い出す。自分の体に戻らなくてはならなかった。見失った自分の体を探さなくてはならなかった。
コルの霊魂は、焦燥に駆られながら、町中を飛び回る。一刻も早く、元の体に戻らなくてはならなかった。彼女は、自分の存在に起こっている恐ろしい変化に気が付いていった。
思考の纏まりが、徐々に崩れていく。記憶が、色褪せていく。自分の名前すら、思い出せなくなっていく。そんなふうに、自分が、自分でなくなっていくのを感じた。
コルの霊魂は、町中を飛び回り続ける。時間の経過の感覚が、曖昧になっていく。自分が飛び回っている目的も、忘れそうになる。そんな不安定な存在になりつつあったコルは、遂に、見失っていた還るべき場所を見つける。
コルの霊魂は、淡い紫色の髪の少女の姿を見つける。町の中を、金髪の魔女と一緒に歩いていた。その金髪の魔女に、微かに見覚えがあった。けれども、誰だったかは思い出せない。もしかしたら、大切な人だったかもしれない。__いや、今は、そんな事を思い出すより、やるべき事がある。
コルの霊魂は、淡い紫色の髪の少女に飛び付く。戻るべき元の体に、戻ろうとする。しかし、前と同じ拒絶を受ける。戻るべきはずの体から、紫色の光が閃き、弾き飛ばされる。
弾き飛ばされたコルの霊魂は、悶え苦しみ、絶望する。そして、苦しみと絶望の中で、心が負の感情に支配されていく。
__自分には、還るべき場所がある。取り戻さなくてはならない、場所がある。あれは、自分の場所だ。自分がいるべき場所だ。そうあるべき場所だ。だから、何としても、取り戻さなくてはならなかった。何としても。
コルの強い思いが、霊魂に変化を齎す。黒い何かかが内側から湧き上がり、それは、自分の姿となる。突如虚空に現れた、黒い煙のような不気味な体__それが、自分の新しい姿だった。悪霊と化した姿だった。
<……ヴァ、ガギィ、ォ……、ガァア、グァ……!>
そして、声を得たコルは、叫ぶ。
<……ガァゲェ……、ィブェ……!>
私の体を返してと、悍ましい声で叫ぶ。
悪霊と化したコルは、『コル』の体へと襲い掛かる。『コル』の体は、逃げる。傍にいた金髪の魔女と一緒に箒に乗って飛ぶ。その後を、悪霊のコルは追いかける。『コル』の体は、とある店の中へと逃げ込んだ。
<……ヴァ、ガギィ、ォ……、ガァア、グァ……! ……ガァゲェ……、ィブェ……!>
悪霊のコルは、その店の中へと駆ける。店の中には、『コル』の体がいた。他にも、あの金髪の魔女と、白いローブを着た魔女がいたが、今のコルには彼女達が誰だったかの覚えはない。
白いローブの魔女は、呪文を詠唱し、杖を振る。その杖の先から迸った雷が、悪霊のコルの黒い体を貫く。
<ギッ……ギギギギギギッ!>
悪霊のコルは、悲鳴を上げて、痛みに身を捩る。その痛みに苦しむ中で、悪霊のコルは、あの金髪の魔女と視線が合う。金髪の魔女は、『コル』の体を守るように抱きしめ、そして、悪霊のコルには鋭い視線を向けている。
<……アッ!>
__悲しかった。悲しみの理由は、分からない。けれど、その金髪の魔女の敵意に満ちた視線に、どうしようもなく悲しくなった。彼女にそんな目を、向けられたくなかった。
彼女は、大切な人だった気がする。大好きな人だった気がする。愛おしいその人の名前を、覚えている気がする。名前は、確か__
<……ア、……ゲェ……グ……!>
愛おしいその名前を呼ぼうする。けれど、自分の口から出て来るのは、聞き取ることが出来ない悍ましく醜い声。悪霊となった自分の声が、愛しい人の名前を呼ぶことを許してくれない。
悪霊のコルは、愛おしいその魔女に向けて、手を伸ばす。黒い体から、小さく滑らかな手で伸びる。彼女は、愛おしいその魔女に、この手を取って、この悲しさから引きずり出して欲しかった。
だが、悪霊のコルに返って来たのは、杖から振るわれた雷だった。
<イギャギャギャギャギャギャギギギギギギギギギギギギ……!>
叫ぶ。痛かった。苦しかった。悲しかった。
悪霊のコルは、店の中をのたうち回り、そして、店の外へと逃げていった。
<ガアアアアアアァァァァァァアァアァアァッ!>
悪霊のコルは、ノークの町の空で、醜い声で泣き叫ぶ。
誰か、救って欲しかった。
この悲劇から、誰か……。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




