第8話 少女の恥ずべき行為
アルジーナは、グロス教徒であり続けなければならなかった。
彼女は、グロス教の教えを、血肉と一体になるが如く、刷り込まれながら育てられてきた。グロス教の教義こそが、彼女にとっての正義であった。グロス教の教えを遵守し、敬虔な信者であり続けることが、彼女にとっての人としての誇りだった。
そのことは、今でも変わらない。変わらないはずだった。たとえ、信頼していた銀星聖騎士団から理不尽な裏切りを受け、敬愛していた両親から見放されたとしても、グロス教徒であり続けることは、彼女が自分に残ったたった一つの生きる道標であった。
したがって、彼女は、グロス教徒であり続けなければならなかった。
アルジーナは、眼前で急にぐったりとなったジローの身体を慌てて抱えた。
ジローは、まだ息があった。毒が彼を酷く蝕んではいるが、死んではいない。アルジーナが習得している治癒の奇跡を使えば、助けられるかもしれない。
しかし、アルジーナが、ジローを助けることはグロス教の教えに反することだ。治癒の奇跡は、濫りに行使してはならない。聖騎士の崇高な任務遂行中に重大な必要性が生じたときのみ、例外的に治癒行為が許される。
アルジーナのジローを抱える腕が、怯えたように震える。
彼女は、グロス教の教えを改めて胸の内で繰り返す。__人は苦痛を耐え忍ぶ試練を神から与えられている。苦痛に耐え忍ぶことこそ人の美徳だ。この然るべき苦痛を魔術等で回避しようとすることは、偉大なる神による試練から逃れようとする恥ずべき行為だ。
アルジーナは、自身の胸の内で激しい葛藤が渦巻いていることを感じる。
そして、彼女は、わざわざ自分が治癒の奇跡を習得している事をジローに打ち明けたことについて、浅ましい考えがあった事に気が付いた。浅ましく拙い詭弁を、無意識の内に張ろうとしていた事に。
__せめて、彼が、執拗に命乞いをしてきたのであれば。それこそ、剣を振りかざし、脅してくれたのであれば。治癒の奇跡を使わせようと猛烈に迫ってきたのであれば。それで、やむを得ず治癒の奇跡を行使したのなら。……自分は、自らの意志で、“恥ずべき行為”をした事にはならないのではないだろうか?
アルジーナは、ジローの顔を見る。彼は、顔面蒼白で、目を閉じ、浅く呼吸をしている。黒い前髪が汗で、勇ましい傷を隠すように額にへばり付いている。先ほどの戦闘で見せた軍神の如く猛々しい戦士の覇気は嘘のように消え、ただ弱った病人の姿がそこにあった。
「お前は……」
アルジーナは、瀕死のジローに呟くように語りかける。彼女の心を何かが突き動かしたのだ。
ジローは、呼び掛けられて、うっすら目を開く。彼が目を開くと、アルジーナは今にも泣きそうに、思いつめた顔で彼を見つめていた。潤む瞳を向けながら、彼女は意外な質問をした。
「名前は、何だったか?」
ジローは、アルジーナの思いもよらぬ質問に一瞬戸惑った。
「名前……?」
「お前の名前だ。教えてくれないか。そう言えば、聞いていなかった」
「今さらだな……」
ジローは、若干笑い気味に返した。
「そうだな、今さらだな」
アルジーナも苦笑した。ジローのことは“貴様”と呼べば十分と思っていた自分の態度が、今さらながら失礼だったと気が付いた。
「ジローだ」
ジローが静かに名を告げると、アルジーナの片手が急に強く彼の手を握り締めた。
「ジロー、ありがとう。私は、お前に感謝しなければならない。お前は、私をあの魔物達から守ってくれた。お前は、まさしく私の命の恩人だ。私には、お前に返さなくてはならない恩がある」
「それは……」
アルジーナは、もう片手で聖騎士の剣の鍔の中心に埋め込まれた宝珠に触れた。その宝珠は、強い魔力を帯びた宝石。それは、魔術__聖騎士が特有の拘りをもって呼称するところの“奇跡”__を行使する際に用いられる。
「いいのか、それで……」
ジローは、潤むアルジーナの瞳に決意を感じ取る。彼女が何をしようとしているのか、その瞳が無言で語っていた。
驚いた表情を浮かべるジローに対して、アルジーナは、ゆっくり頷く。
「恩は返さなければならない。だから、私は、お前を助けなければならない。助けなければならないんだ、ジロー。だから、これは__」
__これは、きっと“神様”も許してくれる。そう言い掛けて、アルジーナは口を噤んだ。
アルジーナは、ひとり苦笑する。この期に及んで、まだ浅ましい詭弁を働かせようとしたことに自嘲した。こんなこと、グロス教の教えに反することは明白だ。
それに、彼女は自分の気持ちに、重大な偽りを述べていた。その偽りに、彼女自身も薄々気が付いていた。
彼女は、ジローを助けるべきだと思って、助けるのではない。ジローを助けたいと思って、助けるのだった。
許されざる私情を挟んだ治癒の奇跡の行使だった。だが、アルジーナは迷いながらも、その口から治癒の奇跡の言葉を紡いでいく。
奇跡の光が、二人を包んだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
空になったワインボトルとグラスが、店のカウンターに置かれている。
マグの魔法薬店でワインを御馳走されたアデルは、挨拶は十分に済ませたと思い、立ち去ろうとした。もともと、ほんの一言二言会話して帰るつもりだったが、マグが用意してくれたワインに釣られて思いの外長居してしまった。
「じゃあね、マグ。またどこかで」
「もう出ちゃうの? この後何か用事でもあるの?」
「いえ、特にあるわけじゃないけど」
マグは、アデルを呼び止めた。白いローブの奥の灰色の瞳が、儚げにアデルを見つめていた。アデルは、そのマグの視線に対して、首を傾げ、冷淡に見つめ返した。
アデルは、既にマグに背中を向けて扉に手を掛けており、振舞われたワインを飲み干した以上、後はもうここには何も用事がないと言わんばかりだった。
「もう少し積る話があるんじゃないかい?」
と、さり気なく言ったのは、アデルの頭上の魔法の帽子メメだった。
「積る話……うーん……、まあ、無くはないけど……、それが……?」
「それが、って……アデル……」
メメは、やや呆れた様子で呟き、アデルだけに聞こえる声で「もう少しここにいてあげたら」と囁く。
アデルは、少し考えてから、ちらりとマグを見る。
「ねえ、マグ、まだ他にワインはある?」
「残念だけど、もうないわ……」
「じゃ、帰るわ」
「人間の屑がこの女郎……」
素気なく手を振ったアデルに、メメは呆れる。アデルは、メメを強く握り締めて「黙れ、帽子野郎」と言い返す。
「本当に帰っちゃうの?」
マグが、呟くように訊ねる。か細く、しかし、妙に響く声だった。静かな空間に鈴が小さく鳴らされたようだった。不気味な程に含みのあるマグの言葉に、アデルは少し困った表情になる。
「帰るわよ。……何で? もっといて欲しいの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
マグは、顔を伏せる。頭から覆ったローブの影に表情を隠した。そうして、自分の部屋に閉じ籠ったかのように黙り込んだ。彼女は、アデルの言葉を待つ。
アデルは、面倒な性格をしている古くからの知人に溜息を吐く。
「話があるならまた別の日でも良いんじゃない? 暫くこの町にいるつもりだし、またすぐ近くにでも立ち寄るわ。あなたがこの町にいればの話だけど」
マグは、素早く顔を上げる。
「いるわ。もう暫くはこの店にいるつもり」
彼女は、カウンターに乗り出しながらそう告げた。
「ならワインを用意して待っていなさい」
「ええ」
マグは頷き、微笑んだ。それから、愛おしい目をカウンターの端においてある人形ルデアに向けて、その金髪を片手で包み込むように撫でた。
「待っているわ。……ほら、ルデアもあなたが来るのを待っているって」
マグは、ルデア人形の赤い瞳をアデルに向けさせながら、憑りつかれたような笑みを浮かべている。アデルは、その気色悪い人形遊びに苦笑せざるを得ない。
「そういえば……」
と、アデルはふと気になったこと言い掛け、
「いえ……やっぱり、何でもないわ」
やっぱり訊くのを止めた。
首を傾げるマグを背に、アデルは「それじゃあね」の一言と同時に店の扉を開けた。そそくさと店の外に出たアデルは、まるでマグから逃げ出したようだった。
アデルは、マグのことは決して嫌いではないが、時々奇妙な寒気を覚えるのだった。あまり無碍には出来ないが、特別仲良くしたいとまで思わない。アデルとしては、利用価値のある知り合いといったところだ。
そういえば__と、アデルは、マグが大切にしている人形の事で少し気になった事があった。金色の髪に赤い瞳の、ルデアと名前が付けられた人形についてだ。
__あの人形は、最初、茶色の髪に、青色の瞳の人形ではなかったか。
アデルは、頭を捻って曖昧な記憶の中から思い出そうとしてみたが、結局すぐに、大して気にする程のものでもないと馬鹿馬鹿しくなって、思い出そうとするのを止めた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アデルが去った魔法薬店に、静寂が訪れた。独り店に残されたマグは、灰色の瞳でじっとカウンターに置かれていた空のワインボトルとグラスを見つめながら、そのガラスを指で弾いて、静寂を埋めるように澄んだ音を響かせ続けた。
独り寂しげにも見えるマグだったが、その表情には笑みがあった。喜びを分かち合うように、カウンターの端に置いてある人形に、「楽しかったわね、ルデア」と呟いて微笑み掛けた。
すると、ワインボトルとグラスを指で弾き続けていたマグは、突然思いついたように引出しの方へ駆けより、中から手鏡を取り出した。頭を覆っていたローブを外し、水色の髪を露にすると、手鏡の中に映った自分を見つめる。
鏡の世界に囁き掛けるように呪文を唱える。魔法の光が一瞬だけマグを包み、弾ける。
光が去った後、マグの髪と瞳の色が塗り替えられる。儚げだった水色の髪と灰色の瞳は、煌めく光を吸い取ったように、ともに桃色へと変じていた。彼女を囲む季節が冬から春へと一瞬で転じ、薄暗く埃っぽい部屋に鮮やかな一輪の花が咲いたようだった。
マグは、手鏡で魔法の成功を確認すると、満足そうに頷いた。そして、「似合うかしら」と艶っぽい声で人形ルデアに話し掛ける。人形は当然何も話し返したりはしないわけであるが、まるで素敵な返答を貰ったかのように「そう、ありがとう」と、聞こえないはずの返答にマグは独り言をして嬉しそうに微笑む。
それから、マグは、ローブで再び頭を覆い、店の奥の椅子の上に置いていた本を取って座った。読書を再開した彼女は、そのローブの奥で微笑みを浮かばせ、小唄を歌うように上機嫌で本の文字を追った。
その後は、誰も来店することなく、時間は過ぎて行った。読書に没頭していたマグは、窓の外が夕闇に染まっているのに気が付き、そろそろ店を締める時間かと考え始める。
だが、来客が突然現れることになった。
「毒を治す薬はあるか!?」
店の扉が壊れるくらいに勢いよく開けられ、怒鳴るような声が響く。マグは、びっくりして、乱暴に現れた客に振り向く。
「ここは、“マグの魔法薬店”で間違いないか!? 貴様が店主か!?」
ひどく乱心した様子の来客は、カウンターの前まで突進して、身を乗り出してくる。マグは、目をぱちくりさせながら、物凄い血相の来客を見つめた。
銀色の瞳と髪の少女だった。見た目は十代前半くらいと幼く、ボロボロの白いマントを羽織り、精工な装飾が施された剣を腰から下げている。マグは、目を細め、この奇妙な来客を観察した。
「ええ、そうだけど。……どうしたのかしら、お客様? そんなに取り乱して」
マグは、椅子から立ち上がり、ゆっくりとカウンターの前に立つ。グラスを取って、魔法で水を注ぐと、息を荒くしている白マントの少女に差し出す。
「見かけない顔ね。どこから来たの?」
白マントの少女は、差し出された水に目もくれない。
「西だ! 西の森の方から来た! 森の向こうから来たんだ!」
「西の森……? まさか、あそこの森を抜けて来たの?」
マグの問いに、白マントの少女は頷く。
「私の__」
白マントの少女は少し言葉に迷い、
「__私の仲間が、魔物の毒にやられた! 私の治癒の奇跡でどうにかしようとしたが、治しきれなかった! とにかく酷い状況なんだ! 今にも死にそうなんだ!」
マグは、血気迫る客の話を何とか理解しよと努めつつ、訊ねる。
「ええっと……何の魔物の毒かしら?」
「その……、赤い蜂の……」
「赤い蜂……? ああ、鮮血蜂ね。それは、確かにまずいわね。猛毒よ。まず死ぬわ」
淡々と告げるマグに、白マントの少女は青ざめる。
「魔法薬とやらでなんとかならないのか!? ここの店は、どんな病でも傷でも治してくれると評判らしいじゃないか! 町の人が言っていたぞ!」
「流石の私にも限界はあるわ。……というか、鮮血蜂の毒にやられて、その仲間はまだ生きているの?」
「生きている! だから、何とかしてくれないか!」
「まあ、落ち着きなさいって。そんなに声を張り上げられても、逆に聞き取れないわよ」
マグは、鼻の先にまで迫ってきた白マントの少女から距離を取る。
「ふーむ……あなたみたいな客は少し珍しいわね。もしかして、教会の人じゃないの、あなた?」
マグは、白マントの少女の容貌を上から下まで見ながら言った。マグは、眼前の少女の恰好が教会の聖騎士と似ている事に気が付いていた。
「そんな事は今はどうでも良い!」
「……とりあえず、名前ぐらいは伺っても良いかしら?」
マグは、再度グラスに入った水を勧めながら、訊いた。
白マントの少女は、やはり水に一瞥もくれずに、
「アルジーナだ!」
時間が無いとばかり、焦ったように名乗った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




