第3話 屈辱の逃亡
魔法の箒ノノは、主であるアデルを、揉め事があった広場から遠く離れた、町の路地裏まで連れていった。
地に着き、崩れるようにして路上に座り込むアデル。気分は最悪だった。ローブは焦げ、汚れ、降り注がれたワインの、酒精が混じった甘ったるい独特な臭いが染みついている。
頬には血が滲んだ掠り傷がある。また、全身の至る所に痛みがあると思ったら、小さな硝子の破片があちこちに突き刺さっていた。
身体に突き刺さった硝子の破片を、顔を痛みに引きつりながら抜いていく。そして、怒りが沸々と、湧き上がってきた。
「いやー、悪いことは続くものだね。災難だったね、アデル」
メメが、気を利かせたつもりで声を掛ける。それが、アデルの怒りの炎に、油を注ぐ。
アデルの表情に、突如、鬼の形相が現れた。
「あのクソ女ああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
堰を切ったように溢れ出るアデルの怒りの叫び声が、人気のない路地裏に響き渡る。彼女は、何回も拳を固い地面に叩きつけた。手の皮膚が破れ、出血しようとも、全く痛みに頓着することなく、何回も地面を殴打し続ける。彼女の内から噴出した怒りが、地面への殴打を止めさせなかった。
しばらくそのまま、路地裏の地面に向けられた、アデルの怒りの咆哮が続く。
やがて、声が枯れ地面を叩く腕も疲れてきた頃、汗で額をびっしょり濡らしたアデルは、乱れた呼吸を整え、大きく溜息を吐いた。
「少しは落ち着いたかい……?」
冷静になった頃合いだと見極めて、メメが再度声を掛ける。
「ええ、少しは、ね……」
アデルは、地面から顔を上げ、空を仰ぐ。
「はあ……、疲れたわ。とりあえず、宿屋に帰りましょう」
「そうだね。美味しいワインでも飲んで気を取り直そう」
「そうね。また、買い直しましょう。……あ、でも、その前に、服と身体を洗いたいわね。体がワインでべとべと……、ローブもこんなに汚れちゃって……。身体もあちこち痛いし……! あのっ! クソ女……!」
「……アデル? 大丈夫?」
「だ、大丈夫よ……」
アデルは、目を閉じ、深呼吸を繰り返す。油断すれば湧き上がってくる怒りを、必死に宥めていく。
「さ、行きましょうか__」
今度こそ怒りを制したアデルが、表情を切り替えて立ち上がる。
「……ん?」
だが、立ち上がったアデルは、何やら違和感を覚え、ローブの内側を探る。そして、気づくのだった。
「え……、もしかして……」
「どうしたの、アデル?」
「お金、落とした、みたい……」
自分で口にした言葉に、青ざめるアデル。
爆風で転がされた際か、それとも必死に逃げている際か、いずれかは分からないが、またもや硬貨を入れておいた袋を落としてしまったようなのだった。喪失した硬貨は、今日魔法で作成したばかりだというのに。
「えぇ……、また? しっかりしなよ、アデル」
「あ、あっ……」
「?」
アデルの体が震えだす。
「あのクソ女ああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
アデルの怒りが再度噴き出す。
「いやー、お金落としたのは、君に問題があるんじゃ? 飛竜に襲われた時に、少しは学んだはずだよ、これからは、お金の管理はしっかりしようって。ちゃんと袋は体に括りつけておかなくちゃ」
「うるさぁい!」
メメの諭す言葉は、ただアデルの怒りを煽るだけだった。
「これじゃ、ワイン買えないし、お風呂にも入れないじゃない! あ、あ、あ、あの女殺す!」
「やっぱり仕返ししに行く? ……ただし、ほどほどにね」
「ぐっ……! んっぐ! 仕返しは、……しない! 私は、理性的な女! 私の貴重な魔法は、理性的に使われる! 知性的に、理性的に、合理的に!!」
アデルは、手を強く握り締め、再度怒りを鎮めようとする。今すぐにでも、憎きルイーザのもとへ飛んでいって、殺してやりたい気持ちだった。しかし、そのような無益な復讐に貴重な魔法を消費してはならない、とアデルの理性が、必死に憎悪感情を抑え込もうとする。
「君って変なところで我慢強いよね。えらいなぁ」
「私は、私の理性を信じる! あああ! あっ! __知性! 理性! 合理性!」
「何それ?……呪文か何か?」
それからアデルは、路地裏の壁に両手をつき、呪詛のようにそういった言葉を口に呟き、気持ちが鎮まるのを待つのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから、アデルは、意気消沈した表情で宿屋の前まで戻ってきた。
箒から地面に下り、覚束ない足取りで、宿屋の中へ入っていく。
すっかり汚れてしまったローブを、まるで錘をぶら下げるように、力なく羽織っているアデルの憂鬱そうな様子から、宿屋の店主から「どうしたの、お嬢ちゃん……?」と心配の声が掛けられる。
アデルは、「ちょっと色々あって……」と適当な返答をして、さっさと自分の部屋へと入っていく。そして、汚れた服のまま、ベッドへうつ伏せに倒れ込み、大きく溜息を吐く。
先ほどまで、どこかに落としたであろう硬貨の入った袋を探して、暫く町中を駆け巡ったが、結局、無駄に終わった。
「はあー……、これからどうしたものか……。落とした袋は見つからなかったし。お金……」
アデルの声には力がない。騒動に巻き込まれて疲れたことに加えて、不幸が続いている事に気が滅入っているのだった。
「しょうがないから、また魔法を使えば? 背に腹は代えられないよ」
「うーん……、だけど、いざという時の危険を考えれば……」
アデルにとって、実は、お金は生きるために必要不可欠なものではない。
普通の人間ならば、お金が無いと、食べ物に有り付けず、餓死してしまうこともありうる。しかし、アデルは、不老の魔法を習得しており、その魔法の副作用によって、人間が生命を維持する上で必須となる食べ物の摂取が不要となっている。したがって、彼女にとっては、基本的に、お金が無いことは、快適な生活をできない程度の意味合いしかない。
勿論、その快適に生活できることは、アデルにとって極めて重要なことである。しかし、魔法を使い切ってしまい、無防備になる状況を、彼女は看過できなかった。
「……ちょっと、様子見てみる。この町に知り合いの魔法使いが来ているかもしれないし、……あるいは困っている人を無償で助けたがる親切な馬鹿がいるかもしれないし……」
「親切な馬鹿て……、こんな時でも君は相変わらずだなあ……」
「はあー……、せめて宿代を2、3日まとめて払うべきだったわ……」
今夜の宿代は既に支払っているものの、明日からは宿屋に支払えるお金が無いとなれば、野宿することになるかもしれない。野宿しても、直ちに死ぬわけではないのだが、危険が無いわけではないし、何よりアデルとしては心地よいベッドの上で寝たい。
「本当、どうしようかしら……」
アデルは憂鬱そうに溜息を吐く。
それから、暫くベッドの上で、益体も無く横になっていると、部屋のドアがノックされた。
「……誰かしら?」
ベッドから体を離したアデルは、全身の疲労を引きずりながら、とぼとぼとドアのまで歩いていく。そして、ドアを開けてみれば、そこには宿屋の主がいた。
「その……お嬢ちゃんに、お客さんが来ているよ……」
「お客さん? 誰?」
「それが……」
宿屋の店主の歯切れの悪さに、アデルは首を傾げる。
「ここにいたのね、ゴミ虫!」
すると、宿屋の店主の背後から、聞き覚えのある甲高い少女の声が聞こえる。宿屋の店主を押し退けて、アデルの前に傲然と姿を現したのは、ルイーザだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆




