碁笥からは見えない景色
こんばんは、碁石です。
黒い方です。
えーと私は囲碁部もない高校の物置にずっと詰めこまれていたんですけれども、今年になって発掘されたんですね。え、なんで囲碁部のない高校に碁石がいたかですって? それはほら、なんとかっていう囲碁漫画が流行したんで囲碁部が一時期できたんですが、一瞬で潰れたからですね。世知辛いですね。
物置にいた長い長い時間は別に辛くなかったんです。
なにせ碁石なものですから、なにも感じません。私、無機物なもので。無機物に意識とかあるわけないでしょう? 九十九神とかいうのも世にはあるようなんですけれど、さすがに囲碁漫画流行から九十九年は経っていないと思いますし、そういうのとも違います。
私が目覚めたのは、彼女のお陰です。
彼女の指で碁盤に叩きつけられる刺激で、私は意識に目覚めたのです。
今日も来ます。
彼女は少子化により使われなくなった空き部屋に、ホームルーム終了と同時に早足で訪れるのです。私はたいてい箱の中で他の碁石たちに混じっているので時計を見ることはかないませんが、たぶん毎日毎日同じ時刻だと思います。
カツカツカツという足音が近付いてきて、ガラリと私の部屋のドアが開くと、もう私はワクワクが止まりません。
ガチャガチャという音はきっとテーブルの上に乗せた椅子を降ろしている音でしょう。なにやら『部屋を使い終わったら清掃し椅子はテーブルに乗せること』みたいな決まりがあるようなのです。めんどくせールールだと思います。私はルールと名のつくものがたいてい嫌いです。
碁盤がテーブルの上にセットされる気配がして、ほどなく、私の入れられた箱が開きました。あっ、箱っていうか茶碗みたいなものですね。なんていうんでしょうねコイツ。私は私を取り巻く物体たちの名前を全然知りませんし、囲碁のルールだって知りません。だって碁石がルール知ってても意味ないでしょう?
早く彼女の顔を見たいのですが、なにぶん私は現在底の方にいまして、しばらく盤面が進むまで登場の機会がありません。場合によっては今日はずっと登場の機会がありません。
パチリパチリという音が響きます。部屋には彼女以外いませんし、今までいたこともありません。この部活動だか同好会だかあるいは不法な部室占拠だかは、彼女一人によって運営されておりまして、この部室にいる有意識体は私と彼女だけということですね。
パチリ。
……。
しばしの静寂があって、黒石たちが私のいる容器の中に帰ってきます。
どうやら全部使うゲームじゃなかったみたいです。大丈夫です。慣れてます。でも邪魔な同じ容器にいる同胞たちは全部砕けて塵になれ邪魔だ彼女の姿が見えねーだろという気持ちになってしまうのは、意識のある碁石としては当然のことでしょう。私の視界は黒石一色です。
しばし『もうちょっと! もうちょっとで彼女の顔を見ることができる!』というシーンが繰り返され、しかし彼女の姿を見ることはかなわず、私は歯がゆい思いをしながら黒石どもに殺意を向けていました。
ガラリ、と部室のドアが開きます。
「ごめんね、待った?」
おや? と私は首をかしげました(碁石なので首はありませんが、そういう気持ちだったということです)。
女の子の声でした。
おかしいな、彼女には友達がいないはず、彼女は囲碁だけが友達で、放課後はずっと碁石を碁盤に叩きつける遊びをしていて、つまるところ私だけが彼女の理解者で友人なのだと、そのように認識していたのですが……
まさか、私の知らないところに、彼女の交友関係が……?
私は愕然としながら、会話に耳をそばだてることにしました(碁石なので耳はありませんが、そういう気持ちだったということです)。
「ううん」
この少しだけハスキーで、物静かで格好いい声が、私の愛しい彼女の声です。
部室への侵入者は応じます。
「そうなんだ!」
そうなんだじゃねーよ。ずっといたよ。かれこれ一時間は一人で打ってたよ、という私の叫びはきっと聞こえないことでしょう。
侵入者の声はいかにも頭の軽そうな感じでした。きっと全身がわたあめでできていて、頭には脳味噌の代わりに蟹味噌が詰まっているのでしょう。囲碁という知的遊戯にふさわしい声とは思われません。きっと見た目も砂糖菓子でできたトロールみたいな感じでしょう。見えませんけど。
「……それで、囲碁できるって……」
「うん。おじいちゃんにねー、教わったんだ」
「……そう。じゃあ、えっと……一局……やる?」
「やろう!」
「……黒石、使いなよ」
え、やだ!
なんで愛しい彼女がよりにもよって黒石を勧めたのか、そこになんらかの意味があるのか、囲碁のルールを知らない私には想像もできませんが、理由があろうがなかろうがイヤでした。
私は、彼女の指で碁盤に叩きつけられたいのです。
パチン、という音とともに碁盤に全身を叩きつけられる衝撃は自我が目覚めるほどのものでした。
彼女の冷たく、少し硬い指につままれ、弾かれるように碁盤に接すると、私の想像上のつま先から想像上の脳髄まで、想像上の脊髄を雷のような刺激が駆け抜けるのです。
それは碁石の絶頂でした。
私は彼女の指の冷たさを思い出しながら、盤上で想像上打ち震え、想像上息を荒げるのです。
「わたし、黒でいいの?」
「うん。……あたし、プロ目指してたこともあるし。……小学生のころ、ちょっとだけだけどね」
彼女の物静かなポツリポツリと言葉を宙に置くような口調からは、過去になにかがあったことがうかがえました。
きっと挫折を経験し、それでも囲碁を捨てきれないのでしょう。
私は想像が得意なので勝手に彼女にはそういったストーリーがあることを想像しましたが、なにせ彼女の名前も知らないただの黒石ですので、彼女の過去なんか知りようもありません。碁石に向かって唐突に自己紹介したり過去語りをする人間はまずいないのです。
しばし私の同胞たちが碁盤にその身を叩きつけられる音が響き合いました。
カチッ、パチン、カチッ、パチン、カチッ……
侵入してきた小娘の方は、音がよくありません。
私は碁盤に叩きつけられるのが好きなのですけれど、それは叩きつけてもらいさえすればなんでもいいというわけではないのです。
愛と技術が必須です。
その点、愛しの彼女の手つきには、碁石に対する愛があり、そして碁石を何度も何度も叩きつけてきたであろう技術が感じられます。
人間は碁石を碁盤に叩きつけるゲームを数百年繰り返しているようなので、碁石をどうしたらよりよく碁盤に叩きつけられるかの技術も連綿と積み上げられているのでしょう。彼女にはそうした人類の遺産を受け継いでいる、見事な『叩きつけ』技術がありました。
うっすらと、私の視界に光が漏れてきます。
ゲームはどうやら思ったより続いているようです。最初リズムよく聞こえていた叩きつけ音声も、次第に間が空き、どうにも愛しの彼女が悩むように沈黙する時間も多くなっているようでした。
まさか囲碁の腕前では拮抗しているのでしょうか。
けれど私は知っています。愛しの彼女。名前も知らない彼女の叩きつけ技術は、圧倒的に侵入者小娘を上回っていると!
私が審判ならすでに勝負はついているところですが、ゲームは続き、そして――
「……強いね」
彼女が、例のぽつりとした口調で言います。
侵入者小娘が耳障りな大きく高い声で応じます。
「そうなの? わたし、おじいちゃん以外とやったの初めてだから、よくわかんなくて」
「うん、強い。……定石とかって、勉強したことは?」
「本とか読んで覚えるアレだよね? ないかな……おじいちゃんも教えてくれなかったし」
「そうなんだ」
愛しの彼女は微笑みを想像させる声でそう言ったあと、
「……あたし、やっぱり才能なかったな」
その声は寂しそうで。
でも、なぜだか、嬉しそうでした。
「……うん、投了。ありがとうございました」
「わ、勝った! ありがとうございました!」
「……ねえ、あの……」
「うん?」
「……これからも、こうやって、放課後、対局してくれる?」
「いいよー。その代わり、放課後、対局以外のことも一緒にしようね。おいしいもの食べたり、遊びに行ったり……夏には海とか行ったり!」
やめて。
私は必死に叫びます。黒石たちの隙間からわずかに見えそうで、しかし見えない侵入者をにらみつけます。お前ら邪魔なんだよお! どけよお! 敵の姿が見えないだろお!
私は仕方なく念じました。
だって愛しの彼女と私の心はつながっているはずなのです。私は必死に念じます。行かないで。ずっと囲碁やってて。なんなら囲碁はやらなくてもいいから意味なく私を碁盤に叩きつける遊びだけ永遠にやってて。私と一生一緒にいて――
しかし、彼女は。
「……うん。わかった。行こう」
……。
もし私に五体があれば、そして直立していれば、膝からへなへなと崩れ落ちていたでしょう。
彼女は私よりも侵入者小娘を選んだのです。
碁石よりも、人間を選んだのです。
それは、それは、悔しくって、悲しくって。
でも、なぜか晴れやかな気持ちでした。
いつもここにいた彼女。いつも一人で碁を打っていた彼女。しなやかで真剣で、笑うことのなかった彼女。独りぼっちだった彼女が、独りでなくなった。
彼女にはもう、碁以外の友がいる。
……なるほど、私はこのためにいたのでしょう。
私の意識はきっと――
「……ありがとうね」
彼女は言いました。
それは、侵入者に――彼女の人間の友にではなくって。
私に、言ってくれた言葉のような、気がしました。
「ん? なに?」
「……なんでもない。……どうする? もう一局やる?」
「うーん……その前にさ、定石を覚えたいかなって。何度か『やべー』って箇所があったし、それ覚えたらもっと楽しく遊べるんでしょ?」
「……そうだね」
「これからも一緒にやるんだったら、ちょっと鍛えないとね! というわけで本屋とかでおすすめの定石が乗ってるような本を教えてくれたらと思うんですが、どうでしょう!」
「……わかった」
立ち上がる椅子の音。
片付けられていく。
じゃらじゃらとこぼれる碁石が奏でる音は甘美で爽やかだった。
しばしして、二人は連れだって部屋を出ていく。
「忘れてた!」元気な方の彼女が叫んで、パチリ、と音がして、照明が消える。
施錠。
シンと静まりかえった部屋。
夕暮れを映し出す窓の外には世界が広がっていた。
狭い器の中からでは決して見えない、広い、広い世界が。