家出旅
元木さんへ
96に振られました。
それよりも元木さんが女性と暮らしていた事を聞き、ショックを受けてしまい…
離婚して4年たつので私がどうのこうの言うことではないと思いながら、やっぱりショックです。
身勝手かもしれませんが。
飼い主にいきなり殴られた猫のような気持ちです。
お腹に注射を打ってまでしてなぜ生きなければいけないのか。
この世で頼っていい唯一の人を失ってしまった気持ちで打ちのめされています。
鍵を郵送して下さい。
悲しくて胸が痛くて苦しいです。
会いたくも、声も聞きたくありません。
身勝手とは思いますが、歪んだ魂の持ち主の私をお許し下さい。
なんとか生き延びるので、その点のご心配はなさらぬよう。
第2章
星樣
お久しぶりです。
昨日は仲間に退院祝いをしてもらい、退院したときも元木さんと上橋さんに迎えに来て頂き、とても有り難かったです。
3週間の入院生活はとても辛く、退院してからの生活にインスリン注射が欠かせなくなり、いくら注射が進歩したからと言って、毎日自分の腹に針を入れなければならない生活、食べる楽しみをほとんど奪われた生活は辛く、そんな中、仲間がしてくれたお祝いは、とても嬉しかったです。
しかし、そのお祝いで、ひょんなことから、元木さんが女性と暮らしていたということを知ってしまい。
元々、毎日の注射でへこたれ気味だった私は、フラッシュバックを起こしてしまい。。。
何のフラッシュバックかと言うと、10年前、別居に至る行程で、元木さんは頻繁にトモという女性を私が留守の間に私たちの部屋に招き、父の遺品の和皿を勝手につかったり、私の化粧品を使ったりしていました。
耐えかねた私は、家を出て、ネカフェ難民となって、風俗の面接を受けたところで、倒れ、実家に連絡が行ったのです。
倒れる前、体調が悪くなった私は、結婚してた部屋に戻り静養したいと元木さんに懇願しましたが、「友達が来て居るから」と断られて、私はそれについても信じていました。
倒れて、実家に連絡がいき、小さなアパートを母に借りてもらい、静養していた時期の事など、一気に押し寄せ、今、本当に混乱しています。
それで、落ち着く為に、少し旅をしようとしています。
自分で自分を傷つけたりは絶対しません。
苦痛な注射や消毒、薬液もちゃんと持ってきています。
少し、自分を見直したいのです。
ちょっと私の部屋から離れたいのです。
身勝手ですが、自分本位ですが、生き延びることを考えると、少し環境を変えてみたいのです。
この事を上橋さんにお伝え下さい。
心配かけてやる!とかヤケには本当に思っていないので、ご安心下さい。
なぜか上橋さんのラインが繋がらないので、星樣を介することをお許し下さい。
星樣がご多忙な事は存じておりながら、この様な頼み事をしてしまった事をお詫びします。
星樣のご健勝のことをお祈りしています。
長文失礼しました。
第3章
朝、8時台で駅前でタバコを吸おうと思ったら、コメダ喫茶店しか無い。
向ヶ丘遊園駅で私は大きな黒いボストンバックを手にコメダ喫茶店に入っていった。
喫煙席は存外静かで、1人の人が多かった。
モーニングセットを頼むと、若奥様風のウェイトレスはびっくりするくらい、素敵な笑顔で注文を受けた。
「あんな素敵な笑顔で、人を喜ばせるには、どうやって生きたらいいのかな。」
と思って私は逡巡した。
注射が二本入っているポーチをボストンバックから探し出してトイレの個室に入る。
針を注射液にセットする時、消毒綿のワンショットを持って来るのを忘れた事に気づいた。
仕方がない。
消毒無しでリキスニアの針をから打ちする。
薬臭いいやーな匂いがする。
今まで、消毒綿の匂いだと思って居たのが、薬液そのものの匂いだと気づいて落ち込む。
20単位測って腹に打つ。
リキスニアは鈍い嫌な痛みがいつもする。
続けてトレシーバをから打ちしてから16単位腹に打つ、トレシーバは無臭で痛みも無い。
隣の個室で「バリバリ」とナプキンを剥がす音が聞こえてくる。
針をセットしたままペン型注射器のフタは閉まらない構造なのに初めて気づく。
仕方なく針を安全に取り外してから針を汚物入れに捨ててしまおうかと一瞬思ったが、入院生活で繰り返し言われた「針は医療廃棄物です」という言葉が頭から離れない。
針用の茶筒はボストンバックに入っている。
宿に着いてから茶筒に入れ替えるとして、とりあえず、ポーチに挟んで、低血糖が起こって無いか確かめる。
大丈夫だ。
トイレから席に歩いてるひたいが汗ばんでる。
でも低血糖じゃない。
席に戻ると
「お戻りです」とさっきのウェイトレスの声がして、半切れのトーストとアイスコーヒーが運ばれて来た。
セイブルを服用してからトーストを無理矢理食べる。
柔らかい。
ホロリとする。
アイスコーヒーを飲んでいると、さっきのウェイトレス「さん」が「空いたグラスお下げして良いですか?」と言いながら店内を巡る。
客からグラスを取り上げる目の色に一瞬喜びが浮かぶのを私は見つけてしまってとても気持ちがしぼむ。
私は、TSUTAYAでバイトして居たから分かる。
この様にして客の回転率を上げることを教えられてその通りにして居るだけのように見えて、彼女は何よりその仕事が気に入っている。
フランチャイズ店で働くと客を憎む様になる。
私もTSUTAYAのモスキート音が一番好きな店内BGMだった。
彼女は小銭を払ってくつろぎ腐ってる客のことが大嫌いだ。
私はアイスコーヒーを半分まで飲んで、水にシフトした。
なぜなら、半分まで残ってるグラスを「お下げ」する素振りなんか店員が見せようものなら、クソ客はあっというまにクレーマーに早変わりだ。
私はTSUTAYAで陰湿なクレームにさらされていたからよく分かる。
匿名なのに、こちらを名指しで
「お釣りを返す時手汗でがベトベトで気持ち悪かった。」
「キャンペーンをわざと教えなかった。」
などと、気に入らないとありもしないことを平気で店舗欄に書くのが客だ。
フランチャイズ店で働くと本当に客を憎む様になる。
血圧の薬とメトホルミンとエクアを飲み干す。
メトホルミンは私の身体に徹底的に合わないようだ。
飲んで15分でウエェときもちが悪くなる。
でも、毎食後飲む。毎食後ウエェと気持ちが悪くなるものを好き好んで飲んでいる。
そんな状況の生き物。
そうまでして、食べる。
しかし、食べないとたちまち低血糖だ。
食べても食べなくても、苦しい。
10時を回った、向ヶ丘遊園の質屋に向かわねば。
2017/05/06(土)ゴールデンウイーク後半、もし、目的の質屋が休業していたら、宿のそばの質屋を探そう。
第4章
いつも行く向ヶ丘遊園の質屋に、何度目か、亡くなった豊橋の母方の祖母の形見分けで貰ったプラチナのブローチを預けた。
質屋は「初めてじゃないでしょう、名前は?」と言い、「いくら必要なんですか?」とも言った。
私は名前を言い、「長旅に出るので、出来るだけ高く」と言った。
「45,000円」と質屋が言った。
それと「8月6日まで」とも。
6月6日は私の誕生日だ。
6日6日も朝起きてリキスニアとレボトミンを腹に注射して、メトホルミンを飲んで、吐き気。
7月6日も。
これから生きていくことがうっとおしくてたまらない。
「誰にでも寄り添う人が必要」と言っていたカップルは、片方が42歳の時突然血を吐いて倒れて搬送先で死んで、遺された片割れは後追い自殺しかねないブログで生きる目的を錐揉み状に失っていくさまをぶつけるように綴った。
最初は心配されたもののいづれ、周りに飽きられ、いまは消息不明。
「結婚する時に、運命よ!変われ!ってピアス開けたんだ」
と言って笑った同い年の女性は高校生の長男を自宅の裏庭で縊死で亡くした。
長男のCDラジカセに遺されていたのは、グレン・グールドのリトルバッハ。
ピアスの穴を彼女はどうすればいいのだろう。
大体、彼女に襲いかかった運命には、ピアスの穴は関係して居るのかどうか。
彼女と彼女の亡くした息子の16年は、ピアッサーの一瞬で撃ち抜かれてしまうのか?
わからない、わからない。
人生は、酷い。
残酷だ。
生きる為に副作用でオエェとなり続ける。
それが、一生食後のデザートであり続ける。
朝起きると鋭い針を腹に刺す。
そんな事なら永遠に起きたくない。
春夏秋冬、365日。
一生、メトホルミンの吐き気。
第5章
目的の街に着いた、14時のチェックインまであと2時間ある。
駅前の喫茶店に入る。
喫煙席だけ異様に空いて居る。
カウンター席に通される。
隣の席は老婆だ。
さっきから旺盛な食欲を見せてクチャクチャとプレートを食べているが、勢い良く食べて、食べ続けているのに、一向に食べ終わらない。
ずっと電車だった事もあってさすがに待ち兼ねて、タバコに火をつける。
老婆がエッエッと咳払いしてこちらをチラチラと見る。
老婆の灰皿は丸めた紙ナプキンで一杯になって居て非喫煙者みたいだ。
おおかた喫煙席はすぐに入れるのでタバコは吸わないが喫煙席を選んだのだろう。
クチャクチャエッエッと猛烈な勢いで食べて居るのにどういうカラクリか皿の上の食べ物は減らない。
私も何か食べないと、低血糖が起こってしまう。
ホットドッグを注文し、セイブルをのみ下す。
朝から便意が毎日有るのに、トイレに行っても出ない。その癖出るとなると下痢なのだ。
副作用…
ガスばかり出る。
これは食前のセイブルの副作用だ。
食欲が無くなった所でホットドッグがテーブルに置かれる。
口に運ぶと隣の老婆がお冷でグチュグチュと口をすすぎその汚水を事もあろうにごくりと飲み込んだ。
いくら何でもギョッとしてホットドッグは一口食べられただけで皿に戻る。
どうしよう、一口と言えど食べてしまった。
病院で渡されたリーフレットに「旅行を楽しくする為に」という項目があって、「普段より多い運動量、低血糖に気を付けて」とあった。大きなボストンバックを持って歩きまわり、汗でブラウスはぐっしょり濡れている。
考えた末にメトホルミンとエクアを飲み込んだ。
吐き気。
第6章
目的の駅に着いた。
宿がどこにあるのかわからない。
いい加減ボストンバックが文字通り、重荷になって苛む。
スマホで地図を開くと10分くらい歩きそうだ、これからの事を考えるとなるべく節約した方がいいのだが、思い切ってタクシーに乗る。
グーグルマップを見せて、ここ、お願いしますと言ったのに大まわりしてる感が否めない。
大きな荷物を持っているし、ゴールデンウイークだ、服装も地元の人とは違う様な気がしている。
ワンメーターで着く算段が予算を大幅にオーバーしてしまったが、運転手のおっさんが怖くて何も言えなかった。
宿は昨日、ネットで検索しておいたゲストハウスだ。
車の入れない脇道の砂利道を行く。
ジャリジャリと石が鳴る、裏道の癖に、日当たりが良く、洗った樽が干してある。
控えめに雑草が生えて居る。
木造アパートに差し込む日差しの先に、そのアパートが社員寮である故がトタンにペンキで描いてある。
ザッザッとした筆跡に素人と、その素人の何かの勢いを感じる。
暖かみを感じて手が震えた。
ゲストハウスは初めてじゃない。
10年前別居騒動の時に江戸川橋の月3万円のドミトリーに1か月滞在していた。
今回は、少し高いが個室を予約してある。
高いと言っても一拍4,100円だ。
高いけど、10日で41,000円。
建物を見つけた。
多言語のスタッフが常駐して居ます。
との説明がホームページにあった。
ゲストハウスという印象からヒッピーのおっさんみたいな受け付けを想像したが、自分に娘が居たらこれくらいという年齢の若い女性が今時の化粧をして座っていた。
必要事項を記入して下さい、と渡された用紙に書き込んで、ルールを読んで、守りますという所にサインした。
驚くべきは、キーデポジットがたったの2,000円、保証人なし。
身分証の提示というだけの軽やかさだ。
そして、シャワー、エアコン使い放題。でも節約してね、とルールに書いてあった。
簡素な、中古住宅を改造した部屋。
壁にはタヌキのペイントがしてある。
ペイントのそばに2つ外国語でありがとう、と思しき落書きが小さくある。
テレビもラジオも音の出る物は何も置いてない。ティッシュもない。
どさりと荷物を置いてマットレスに横になる。
二つある窓からはさんさんと日差しが差し込む。
第7章
夕方、駅前までゆっくりと歩いて、ペットボトルの麦茶や、シャンプー、ボディーソープ、歯ブラシなど買う。
元木さんへ猫の事をラインで頼むと、上橋さんから電話。
涙がぼたぼたとアスファルトに落ちる。
元木さんから電話。
スマホを反射的に車道に投げそうになる。
とにかく、猫をお願いする文をラインで書き送る。
植え込みに座り込んで涙をぼたぼたと垂らす。
誤解を解きたい、会いに行くよ。
上橋さんの電話に出て欲しい。
と元木さんはラインしてくる。
泣きながら電話に出たくない。
道で泣きながら歩く。
泣きながら歩いているうちにゲストハウスに随分近づいてしまった。
夕食は、外食という訳にもいかないのでコンビニでスコーンを二つ買う。
顔から涙が引いてるのを確認してからゲストハウスに入る。
バッチリメイクの白人女性が何人か、白人男性と話してる。
なんか議論みたいだ。
楽しそうだけど、英語が全部はわからない。
私とスタッフ以外は日本語が主言語ではなくて、みんなの落とし所として英語で話してる感じ。
ゲストハウスには沢山鏡がある、映り込んだ自分に「しね」と念じてしまう…が?
再発していた顔面神経麻痺が少し、マシになってるような。
夜、セイブルを飲んでオートミールのスコーンと麦茶。
メトホルミンとエクア。
スコーンが少し大きくて、小腸がギュルルと動く。
ゲストハウスの部屋で、1人で食べた。
96まで話したいとラインで言って来て、巻き込みを謝り、話せる状態じゃないとライン文章で言う。
部屋にいると、人の気配と話し声が時折聞こえるけど全て外国語だから耳触りがいい。
窓の外から日本語や、近所の家庭で洗う皿の音が聞こえる。
突然ギュルルとお腹を下す感じ。
メトホルミンのもう1つの副作用。
急ぎトイレに行きシャッと下す。水状。
怖い。
リビングでは、また熱心に英語で話し合う声が。
夜が更けるということは、注射の朝がそれだけ近づくという事なので、気が塞ぎつつ96に顔面神経麻痺が改善した事をラインする。
就寝前血糖値188
第8章
旅2日目朝5時台に目が覚めてしまう。しかし熟睡した感じがある。
小さなテーブルを見ると朝食に、ととって置いたスコーンを食べちまってある。
なんて事!
睡眠薬の朦朧状態で家にいる時もよくやらかして居た。
胃もたれ。
朝食はスキップしようかと思うけど、朝はリキスニアとトレシーバの注射が有るからそうもいかない。
起床時血糖値244
最悪だ。
歯を磨くとギョッとする程歯ぐきから出血する。
貴重品を持ってゲストハウスを後にする。
喫茶店に着くまでに食べ物屋の看板が目につく。
あれも、これも、食べたい。
ラーメンが食べたい。
どうせ今日は朝から血糖値が高い。
今日は食べる日にしてしまおう。
開いている喫茶店を見つけて、アイスコーヒーとトーストのモーニングを頼んで、トイレでリキスニアとトレシーバを腹に刺す。
針を真っ直ぐ引き抜くのに失敗して、少し切り傷になる。
当然の事ながら痛い。
ストレスがぐっと溜まるのが分かる。
トイレから出て来て、グラタンとチキンホットサンドを追加注文。
今日は、食べて食べて食べて、食べてやる。
トーストを食べてグラタンに取り掛かると急に気持ちが悪くなる、トレシーバが効きだしたのだ。
吐きそうになる。
何も食べたくない。
でも、私はチキンホットサンドがさっきまで食べたくて食べたくて仕方なかったはずだ。
薬に気分まで左右されるのが悔しい、悔しいからチキンホットサンドをえづきながら食べる。
デザートにロールケーキを、と思ってたのに考えるだけで吐きそうになる。
いっそトイレで吐いたら、血糖値も上がらないし良いんじゃないかと思う。
摂食障害の始まりだ。
さっき切った腹の注射痕が痛い。
吐く事も出来ず。
気持ち悪くて、痛くて、喫茶店で泣きそうになる。
スリムな私の友人の1人右手には、吐きダコがある。
吐きダコの事を考えて吐くのを止める。
気持ち悪いのにプラスしてメトホルミンとエクアを飲む勇気が無い。
私は血糖値を上げたいのか下げたいのか。
なにがしたいのか分からなくなって、ストレスが、イライラが嵩じて吐きたくなる。
メトホルミンとエクアをのみ下す。
テーブルで吐いてしまわないように喫茶店を後にする。
来るときには、昼食にはうどんを食べよう、と思ってたのに、昼食の事を考えるだけで吐きそうになる。
飲食店の「チーズハンバーグ」というのぼりを見た途端、植え込みに少し吐いてしまう。
吐くなら胃がひっくり返るくらい全部吐きたかった。
しかし、人通りも有るし、そうもいかない。
手近なコンビニに入ってトイレを借り、吐こうとしたら、下痢を催す。
水下痢。
芳香剤の匂いが鼻についてまた吐き気。
今度は吐けない。
ウエェウエェと苦しむ。
涙が出る、鼻水が出る。
吐けない。
トイレットペーパーで顔を綺麗にしてから、コンビニのトイレを出る。
お礼にタバコを買う。
そろそろ開店しだした飲食店から漂う匂いにえづきながら、ゲストハウスに逃げ帰る。
白人女性とすれ違い笑顔を向けられる。
ホッとするがすぐさま部屋に入って引きこもる、横になる。
寒気がして、暑い。
そういえば、今日はレインボープライド。
お天気、持ちますように。
お腹の傷が痛い。
朝食後血糖値220