006 初恋のひとは特別
――今夜はもう休みたい…と、私はお母さんとおばあちゃんに告げた。
これ以上いろいろ聞かされても、冷静に受け止めることができそうにないから。
二人は苦笑しながら私の希望を受け入れて、話の続きはまた明日に…ということになった。
気を失ったままのトイ・プードルを私が抱え、彼が着ていた衣類はお母さんが拾ってくれる。
いつの間にか私の部屋の隣の客間が、『守り役』の部屋になっていた。
お母さんとおばあちゃん曰く、私がレストランで好みの動物を答えた瞬間、二人の頭の中に彼から直接連絡が入ったらしい。
簡単な自己紹介の後に、空き部屋を借りたと報告された…とのこと。
それであの時、なんだか二人の様子が変だったんだ…と納得しつつ、隣の部屋の襖を開ける。
襖を開けたその先には、10畳の和室があった筈……なんだけど、どう見ても洋室です。
それも、デラックス・スィートルーム並の広さです。
広々とした気品あふれる室内に、豪華な調度品と家具が調和しています。
高級そうなシャンデリアがキラキラ光っていて、目に眩しいです。
「……。」
コレ見なかったことにして、襖を閉めたら……元の和室に戻るかな?
あ、閉める前にわんこをこの部屋に棄てておかないと、意味がない?
「――葵? どうしたの?」
私が驚きのあまり固まっていると、お母さんが不思議そうに声をかけてくる。
お母様、どうしたもこうしたもありません。
寧ろ、平然としているアナタが私にはわかりません。
きょとんっと首を傾げる母に、私は逆に尋ねた。
「どうしてお母さんは驚いてないの?
この部屋、どう見てもおかしいよね?」
「…ああ!」
お母さんは持っていた服を床に投げ出して、ぽんっと手を叩いた。
高そうな彼の礼服は、くしゃくしゃになって床に落ちる。
「『守り役』の部屋はね、異世界にあるお部屋の空間を切り取って、こちらの世界に繋げているんですって。
だから、もともとのお部屋の広さや内装は全く関係ない…って、アズライルが言っていたけど、詳しいことはお母さんにもよく解らないわ~」
「…。」
私にもよく解らないよ…お母さん…。(遠い目)
自宅の襖を開けたらそこは異世界(の一部)でした…って、実際に自分の身の上に起きてみると微妙。
ちいさな頃、クローゼットを開けたらナルニア国に繋がらないものかと…何度も試したことがあるけど、あのときのキラキラした期待感に比べ、この疲労感はなんなんだろう…。
お母さんはさきほど落とした礼服を拾いながら話を続けた。
「私の『守り役』アズライルの部屋はまるで図書館みたいに、本棚と机しかなくてね。
この人はいったい何処で寝ているのかしらって、初めて入ったとき呆れてびっくりして……床の上に山積みになっていた本を、強制的に片付けさせたのよ。
その後一緒に大掃除して、ベッドを発掘して…。
真面目で頭がいいくせに、自分の身の回りのことができないなんて、不思議よね」
私は話を聞きながら、どこにわんこを寝かせればいいのか悩んでいた。
ベッド……じゃ…ちょっと犬には大きすぎるし。
ちょうどいいサイズの籠か、大きめのクッションないかな~?
部屋の中を物色しながら、適当に相槌を打つ。
「――ふうん?
ちょっとお父さんに似てるね。
真面目な性格で、本に埋もれて生活しちゃうところとか」
ばさっ。
何かが落ちた音がして、振り向くと…お母さんがまた服を床に落としていた。
「…お母さん?」
「え? ああ、いやだわ。
また落としちゃったわね。
おほほほほほ」
「…どうしたの?」
「どうもしないわよ?」
「嘘。
お母さんが高笑いするのは、いつも決まって何かを誤魔化そうとするときだもの」
私がきっぱりすっぱり言い切ると、お母さんは唇の前に人差し指を立てて言った。
「司さん…お父さんには、今の話ナイショにしてね♪」
「……いいけど、どうして?」
「えー?
だって、嫌かもしれないじゃない?
お母さんの初恋の人と、自分が似てるって言われたら」
「そうかなぁ?
単に好みのタイプってだけの話でしょう?」
「お母さんだったら、嫌だもの。
『私が』好きだからじゃなくて…昔好きだった人に似てるからとか、タイプだから…っていう理由で『私で』いいやってことなの?
…とか、いろいろ考えちゃいそうだし~」
頬に両手を当てて、そんなことが判明したら私絶対に泣く!
…とか一人で盛り上がっている母は放っておいて、私はベッドの枕元に置いてある縦も横も長い枕の上にわんこをそっと降ろした。
ちょうどいい大きさの籠もクッションも無かったんだから、仕方がない。
持ち主が本人なら、クレームもつかないだろうし。
うん、ここでいいや。
「――じゃ、お先に」
用は済んだし早く自分の部屋へ帰って寝よう…と…素早く踵を返した私の手を、お母さんが引き止めた。
母の思いつめた表情に、正直腰が退ける。
な、なにごとデスか?
「お母さんはちゃんとお父さんのこと愛してるからね?」
張り詰めた緊張の糸が、ぶちっと切れる。
「……なに、いきなり?」
「お母さんは、お父さん『が』好きになって、結婚して、葵を授かったって話を、きちんと伝えておかなくちゃって思って…」
「…。」
「アズライルと過ごした日々は今でも大切な思い出だけど、それは彼が初恋の人だから……特別なの。
でも、司さんのことは、もっともっと大切で、お母さんにとって世界で一番素敵な人なのよ」
「…。」
照れながら親にそんなこと言われても、ワタクシどうリアクションしていいのか解りません。
『た、隊長~! この難局をどう乗り越えればいいんですかね?!』
『……まぁ、落ち着きたまえ。そして状況をよく把握するんだ』
『はっ! 了解であります。うーん、なんか一人でくねくねしてますよ?』
『…うむ、あれは ”自分の世界にどっぷり漬かっている” 状態のようだな。
『それでは、 ”逃げるが勝ち” ということで!』
『…ああ、それが最善手だろう』
脳内会議で『退却』という方針が決定し、私は気がつかれないように足音を消して、そっと『守り役』の部屋から脱出した。
無事に自分の部屋に戻ってひとりになると、ふっとちいさなため息が漏れる。
自分自身の何かが変わったという自覚はないけれど、ほんの数時間前まで…ずっと続くと思っていた私の『平穏な日常』は、跡形もなく崩れてしまった。
救いは、『期間限定』ということだけど…解除される条件を考えると、何年かかるのか想像もつかない。
早ければ早いほうがいいけれど、でも、そのためだけに誰かを好きになれるほど器用じゃないし…。
お母さんの言葉を、ふと思い出して呟く。
「――初めて恋をしたひとは、特別…かぁ…」
その『特別』がどんなものなのか、私はまだ知らない。