015 お風呂で疲れを癒しましょう
――まず、自分の部屋に戻って、聖ラファエラの制服から私服に着替えた。
私の部屋へ一緒に入ろうとしたアルフレインに、「廊下で待っていて」と言ったらおとなしく従ってくれたので、着替えを見られることなく済んだんだけど……よく考えると首輪の影響かも?
あの無駄にイケメンな王子様が、人目を気にしなくてもいい家の中で、セクハラ無しでいられるとは考えにくいし。
部屋のドアを開けて廊下に出ると、レインは『お座り』の体勢のまま、恨めしそうな目をして私を見上げた。
「葵、早く命令を解け」
グルルルル…と唸り声を混ぜながら、不機嫌そうな声で訴える。
「その首輪の力があったから、私の指示に従ってくれたの?」
「――この首輪には、師匠自らかけた強力な魔法が宿っている。
俺の力でも外せないし…葵の言葉に逆らえないよう、強制する力が働くみたいだな」
「…そうなんだ?
必要ないときは『命令』をしないように、気をつけるね」
きゅぅんと鳴いたわんこの頭を撫でつつ、命令の解除をイメージしながら言葉にした。
「『よし』」
「…。」
アルフレインは床に伏せていた身体を起こして、しっぽを振ったり、その場でくるくる回ったりして、動けることを確かめる。
「…元に戻った」
「そう? よかった。
じゃあ、台所に行こうか……っと、その前に、お風呂の掃除」
「週末は掃除までやっているのか?」
「うん。
うちのお風呂沸かすのに時間がかかるから、夕食の支度より先にやらなくちゃ」
私はアルフレインに説明しながら階段を下りて、一階のお風呂場へ向った。
浴室の半透明のドアを開けると、ヒノキの香りが漂ってくる。
アルフレインは鼻をぴくぴく動かしながら、首を傾げた。
「――木の香りがする」
「浴槽がヒノキの木で出来てるんだよ。
…あ、アルフレインは中に入らないでね。
濡れるといけないから」
脱衣所にある洗面台の下から掃除用具が入ったバケツを取り出す。
洋服が濡れてしまわないように袖をまくり、スカートの裾をたくし上げて裾を結んでから、お風呂場の掃除を開始した。
スポンジを手にとって、重曹をたっぷりとふりかける。
シャワーで軽く水洗いするくらいで良いと言われているけど、ぬめりが出ると嫌だし、滑ると危険なので、丁寧に浴槽をスポンジでこすって洗う。
洗面器と蛇口と洗い場は、水垢も落とせる磨き粉とブラシを使って洗う。
ゴシゴシ。
ゴシゴシゴシ。
無心で掃除を続けていると、玄関の方からお母さんの声がした。
「ただいま~。
葵、帰ってるぅ~?」
「うん、いるよ~。
今、お風呂掃除中~」
「お寿司買ってきたから、終ったらごはんにしましょう~」
「はーい」
私は返事をしながら、浴室内をシャワーで洗い流す。
掃除が終った浴室はピカピカになった。
「これでよし…っと」
浴槽に栓と蓋をして、湯沸し機能をオンにする。
濡れた手足をタオルで拭いていると、脱衣所の床に姿勢を正して(?)お座りしているわんこの視線を感じた。
「…なに?」
「いや、服を着ているときはあまり解らなかったが、葵はけっこうスタイルがいいな…と思いながら見ていた」
「…。」
「全体的に見ると凹凸が乏しいが、太ももからふくらはぎにかけてのラインは素晴らしいな。
美脚だと誇っていいと思う。
胸はこれからもっと大きくなるだろうし…」
私は最後まで言わせずに、わんこを足で踏みつけた。
痴漢は滅びろ!
えいえいえい!
「この角度だと、俺から下着が丸見えだぞ。
下着は予期せぬ瞬間、チラリと見えるところに趣があるのであって…」
「――っ!?」
気がついたら、私はわんこを思いっきり蹴り飛ばしていた。
ぽーん……と、見事な放物線を描いて、浴室の中へ飛んでいく。
「その場で『伏せ』、許可を出すまで『待て』!」
アルフレインには暫くここで反省してもらおう。
私はわんこにこの場から動けないよう『命令』をして、一人でダイニングキッチンへ移動した。
「…あら、『守り役』は一緒じゃなかったの?」
キッチンでは、普段着のお母さんが日本茶を淹れているところだった。
私は頷きつつ、自分の席に座って簡単に説明する。
「またセクハラ発言があったから、反省させるためにお風呂場に放置してきた」
「あらあら、大変ねぇ」
お母様…そんな風にくすくす笑いながら言われても、ちっとも慰められません。
「編入試験も、お疲れ様。
…さ、葵、食べましょう」
「「いただきます」」
あんまりお腹は減ってなかったけど、食べ始めたら手が止まらなくなった。
今日は脳味噌を酷使したから、カロリーをたくさん消費したのかも?
「今日の試験、難しかった?」
「うん。
でも、解らなくてお手上げ…ってほどでもなかったよ」
「問題がわからなかったら、答案用紙に『美味しいカレーの作り方』でも書いておきなさい…って、葵に教えておこうと思ったのに、今朝は寝坊したから時間がなくて」
「…。」
お母様…そんなアドバイスを頂いても、実行できる度胸が私にはありません。
「私は困ったときにはいつもその手を使って、無事に大学まで卒業できたわ」
母は明るく笑って言った。
レシピは、担当の先生の好物を選ぶのがポイントらしい。
(そんな情報を調べる暇があれば、勉強すればいいのに)
答案用紙に料理のレシピを書いてしまう母と、それでも単位を与えた教師陣に対し、心の中で激しくツッコミを入れつつもコメントは避けた。
私は一発逆転を狙う奇策を打つより、事前にコツコツ勉強する方が性にあう。
つまらなくてもいい。
常識人でありたい。
その後もお寿司を食べながら、お母さんのおしゃべりを聞いて、時々相槌を打ったりツッコミを入れる。
家では、お母さんとおばあちゃんがよく話すから、私とお父さんは聞き役に回ることが多い。
学校で友達と一緒にいる時は、聞き役ばかりってことはないけれど、ムードメーカーと言われるほど率先して話したり行動する訳でもなく…。
「――葵?
聞いてる?」
「え?
あ、ごめん。
ちょっと考え事してた」
私が素直に話を聞いていなかったことを謝ると、母は大げさに肩を竦めた。
ソレ、米国風のジェスチャーですか?
(ものすごくアホっぽいよ?)
「たっちゃんからさっき聞いたんだけど、今日、遼くんが葵を車で送ってくれたんでしょう?」
「…ああ、その話」
私は頷きつつ、もぐもぐとかっぱ巻きを咀嚼する。
中トロの後の口直しには、やっぱりシンプルな味のかっぱ巻きが一番だよね。
ちなみに、たっちゃんというのは遼兄さんのお父さん。
水澤達也さん。
達也さんは、お母さんの秘書と運転手をしてくれている。
「お母さんも遼くんに会いたかったなぁ…。
どう?
かっこよく育ってた?」
「…どうって言われても。
お母さんの好みって、お父さんみたいな人なんでしょう?」
「お父さんは特別枠で誰よりも素敵に見えるけど、それ以外の人については、お母さんの好みはごくごく一般的だと思うわよ?」
「……よくわかんない」
二重の意味で、そう答えた。
一般的な好みについても、私が遼兄さんをかっこいいと思ったかどうかってことも。
「昔と比べて背はすごく伸びてたけど…全体的な印象はあんまり変わってなかったと思う」
「あら、そうなの?
じゃあ、かなりいい男に育ったってことね」
お母さんはうきうきとした口調でそう言うと、ニヤリと笑った。
「去年取れる単位は全部取ってしまったから、大学二年生の今年は時間に余裕があるんですって。
一人暮らしで、アルバイトもして、その上学業まで完璧にこなしてるなんて…本当にすごいわ。
昔から『顔良し、頭良し、性格良し』で、優良物件だと思っていたけれど」
「物件って…遼兄さんは、不動産扱い?」
速攻でツッコミを入れると、お母さんのニヤニヤ笑いはますます酷くなった。
「あら、葵は遼くんが女の子にモテると思わないの?」
「…?」
「お母さんは、遼くんはすっごくモテると思うわよ。
優良物件って言ったのは、ものの例えで」
「ふーん…そういう意味だったんだ?」
軽く流した私を、お母さんが眉を下げて見つめる。
「将来有望な男の子が身近にいたら、女の子はほっとかないものよ」
「へぇ…そうなんだ? (もぐもぐ)」
「その人が一人暮らしなら、いろいろと大胆なことも仕掛けられるし」
「…。 (あ、このウニすごく美味しい)」
「葵は、気にならないの?」
「……何が?」
お母さんの質問の意図がわからなくて問い返すと、これみよがしに大きなため息をつかれた。
「私の子とは思えないくらい、そっち方面には鈍くて疎い子に育っちゃったわねぇ」
「…?」
鈍いって……私が?
どちらかというと、鋭いって言われることが多いんだけどな。
首を傾げている私に、お母さんは苦笑いしながら「もういいから、早くお風呂に入って寝なさい」と促した。
私はお母さんの生ぬるい視線に見送られながら、着替えを取りに自分の部屋へ戻った。
着替えの下着とパジャマを持ってお風呂場に入った瞬間、アルフレインをここに放置していたことを思い出す。
脱衣所に着替えを置いてから浴室のドアを開けると、わんこは浴槽の上の蓋の上に居た。
命令した『伏せ』の姿勢のまま、目線だけチラリと投げてつまらなそうに言う。
「なんだ、服を着ているのか」
「…。」
私は無言のまま、ひょいっとわんこの首根っこを掴んだ。
『命令』を解除せずに廊下に出しておけば、実害は出ないはず。
説明無しで排除しようとする私に、アルフレインは慌てたような声音で訴えた。
「冗談だ、冗談」
「…。」
「反省は、少しだけしておいた」
「…。」
「一人でほうっておかれるのは、淋しい」
きゅーんきゅーん。
可愛い犬の鳴き声とつぶらな瞳攻撃がダブルできた。
うぅ…中身がアレだとわかっていても、わんこは可愛い。
可愛らしいトイ・プードルの仔犬の姿で、アルフレインは熱く語る。
「俺は、一分一秒でも長く、葵の傍に居たい。
限られた時間だからこそ、大切にしたいんだ」
私に首根っこをつかまれて、空中でぷらーんぷらーんと揺れてなかったら…それなりにぐっとくる台詞だったかもしれない。
どんなことを言われても、見た目はふわもこな毛皮のわんこな訳で。
笑いのツボには近くても、ときめきボタンには程遠い。
私はどこまでも冷静に、ツッコミを入れてみた。
「――で?
私と一緒にお風呂に入りたいなんて、言わないよね?」
にっこり笑顔で先制すると、わんこは心外だというように短く吠えた。
「そんなことは言わない。
…言わないが、葵に頼みがある」
「何?」
「俺を洗ってほしい」
「どうして?」
「昼間、あの氷川とかいう男にさんざん触られて、気色悪い」
「…。」
確かにそれはちょっと嫌かも。
中身は人間なのに、あちこち触られまくったら、気持ち悪いよね。
氷川先生があそこまで犬好きだと知らなかったとはいえ、そのきっかけを作ってしまったのは私だから、
アルフレインのお願いを聞き入れることにした。
「犬用のボディソープが無いんだけど…普通の石鹸で大丈夫?
香りが強すぎたりしない?」
「大丈夫だ。
俺は魔法で犬に変身しているだけで、犬そのものになっている訳じゃないから…視覚や嗅覚は人の姿の時とほとんど変わらない」
「ふーん、そうなんだ」
私は話を聞きながら、彼を右手で抱きかかえると、左手で洗面器を蛇口の近くに置いた。
洗面器の中にアルフレインを降ろして、蛇口からぬるめのお湯をギリギリまで注ぐ。
「――そういえば、アルフレインって王子様なんだよね?」
「…それがどうかしたのか?」
「物語に…王族や貴族の入浴は、傍仕えの人たちにされるがままっていう場面が出てくるんだけど…異世界ではどうだったの?」
「幼い頃は大人しくおもちゃにされていたが、ものごころついた頃からは一人で入るようになったな」
「…。(おもちゃって…どんなことされてたんだろう?)」
「いろいろとめんどくさい決まりが多いし、侍女たちの争いの元になるのも面倒でな」
「…ふぅん? (王子の寵愛争奪戦、みたいな? 顔はすごく綺麗だったから人気ありそう)」
「葵は俺がどんな暮らしをしていたのか気になるのか?
それとも、異世界の王族の暮らしがどんなものか知りたいのか?」
「どっちかというと後者かな。
でも、別に詳しく聞きだしたいってほどでもないよ?
言いたくないこともあるだろうし、そういうときは断ってくれていいからね」
「…わかった」
アルフレインは気持ちよさそうに目を細めて、お湯の中にちゃぷんっと頭まで沈めた。
ぷくぷくと鼻から泡がでている。
これって、子供がプールでよくやる『水に潜って、息がどれだけ長く続くか』競う遊びだよね。
レインってけっこう子供っぽいな。
私がくすくす笑っていると、アルフレインがお湯から顔を出した。
「――なにか面白いことがあったのか?」
「うん、ちょっとね」
私は何が面白かったのかを説明しないまま、洋服の袖をまくって、アルフレインを洗面器から引き上げた。
オリーブの石鹸を手にとって、もこもこの泡を作る。
「洗うよ~?」
「ああ、頼む」
わんこからOKが出たので、私は泡をまず背中につけた。
力を入れすぎないように気をつけながら、背中から尻尾、尻尾から後ろ足、お腹から前足…と順番に指で優しく洗ってゆく。
最後に耳と顔と頭を洗ってから、シャワーで泡を洗い流した。
「洗い流し足りないところがあったら、教えて?」
「…いや、大丈夫だ」
「そう? じゃあ、乾かそうか」
バスタオルにくるんで、軽く水を拭いてから抱き上げると、わんこは私の顔を見上げて言った。
「後は自分で出来る。
術を使えば、すぐに乾くから。
…俺のことより、葵も早く風呂に入るといい」
「…。」
「葵にとっては、昨日の夜からほとんど気の休まる時間が無かっただろう?
休息は必要だ。俺は廊下で待っているから、気にせずにゆっくり入ってこい」
アルフレインは私の腕の中からぴょんっと跳ねて、危なげなく脱衣所の床に着地した。
とことこ歩いてお風呂場から出て行く。
お風呂場のドア(引き戸)は自動ドアみたいにスッと開き、アルフレインが通ったらサッと閉まった。
「魔法って、すごい」
私は感心しながら脱衣所へ戻って洋服を脱ぎ、お風呂に入った。
お湯をかぶって汗や汚れをざっと洗い流した後で、湯船にゆっくりと身体を沈める。
お湯の中に伸ばした四肢がじんわりと温まるにつれて、疲れて硬くなっていた身体と心が緩んでいく。
アルフレインの真似をして、お湯の中に頭まで沈めて潜水していると、ふっと疑問が沸いてきた。
――アルフレインは私がお母さんのお腹に居る時から、ずっと見守ってきたと言っていたけれど…それが本当ならなんで遼兄さんや鞠子おばさまのことを知らなかったんだろう?
考えたけど、その理由は解らなかった。
お風呂上りに訊けばいいのだ…と…思いながらも、ため息が出る。
まだまだ知らないことが多すぎる。
私自身のことも。
私の『守り役』のことも。
湯船から上がって、冷水でぐんにゃりした身体と頭に渇を入れた。
ゼロからのスタートなんだから、焦らない。
期限なんて無いんだから、慌てない。
急がない、欲張らない、無理をしない。
…きっと、大丈夫。
おばあちゃんや、お母さんだって、受け入れて乗り越えたことなんだから、私にもできるはず。
私は自分を励ましながら、身体と髪の毛を丁寧に洗い始めた。




