013 悪意の欠片
氷川先生の声に、アルフレインが籠の蓋を押し上げて少しだけ顔を出した。
ああ、もうっ。
籠の中で隠れていてくれればいいのに!
「仔犬です」
見られてしまった以上隠し立てはできないと観念して、籠の蓋を全部持ち上げた。
「…確かに犬だね」
鏡先生の相槌に、こくこくと頷く。
「問題は、どうしてソレをここに連れて来ているのか…という話だと思うが?」
背の高い氷川先生に見下ろされた上に、絶対零度の声音で問いただされる。
うん、確かに。
私も先生の立場だったら、同じことを訊く。
「…あの…」
恐る恐る、氷川先生を見上げながら答える。
「この子、昨日の私のお誕生日に家に来たんですけど、不安なのか…私の姿が見えなくなると、ずっと鳴き続けるので…一緒に連れてきてしまいました」
いや、本当はおばあちゃんに押付けられたんだけどね?
アナタたちもご存知のように、拒否権は無いんです。
「きゅぅん」
アルフレインが籠から身を乗り出して、不安げな声で鳴く。(演技派だなぁ)
ちいさな可愛い仔犬の鳴き声を聞いた途端、氷川先生の眼光が和らいだ。
ひょっとして…?
「氷川先生、犬、お好きなんですか?」
ぽろっと私の口からこぼれた問いかけに、氷川先生は少しためらってから頷いた。
「ああ、そうだ」
「…じゃあ、この子預かってください」
私は氷川先生に籠を差し出す。
「試験中、ずっと籠の中に閉じ込めておくのも可哀想なので」
氷川先生は私の差し出した籠を受取ると、わんこを取り出して自分の左手に乗せ、右手で撫でまわしはじめた。
手乗りわんこ…いいなぁ。
私の手の大きさだと、両手じゃないと無理っぽい。
氷川先生の堅い表情は変わっていないものの、よくよく見ると口元が僅かにゆるんでいる。
アルフレインは不機嫌そうに鼻に皺をよせ、氷川先生の指にかぷかぷ噛み付いているけれど……全く気にしている様子がない。
この人……あのム○ゴロウさんと同じで、自分が動物に噛み付かれて流血しても「じゃれて遊んでいるだけなんですよ? HAHAHAHA☆」って、笑うくらい動物が好きなのかな~?
鏡先生は、犬と戯れている(?)氷川先生を横目で見ながら、私に声をかけた。
「――七瀬さん、そろそろ移動しようか?」
「…あ、はい」
鏡先生の言葉に、私は頷く。
次の試験監督は鏡先生だから、氷川先生がわんこに夢中になっていても問題はない。
二人で歩きだすと、何故か氷川先生も一緒についてきた。
「――氷川先生?
試験の監督は僕の番ですよ?」
「そんなことはわかっている」
「「…?」」
鏡先生と私は足を止め、互いの顔を見合わせた。
「この仔犬は、お前の姿が見えなくなると鳴くのだろう?
ならば俺も一緒に行って、同じ部屋の中に居てやらないと」
「「…。」」
鏡先生と私はお互いの顔に浮かんでいる微妙な表情を確かめてから、氷川先生をじっと見つめる。
「――その仔犬が最優先で、他のことは気にならないわけ?」
鏡先生の質問に、氷川先生は冷たく問い返した。
「…何言ってるんだ、お前」
「何ってさぁ……試験監督が二人も部屋の中にいたら、七瀬さんが緊張するとか…気詰まりで集中力が落ちるとか…そういったことに気を配らなくていいのかって話だよ」
呆れたような鏡先生の言葉を、氷川先生は鼻で笑い飛ばす。
「七瀬の女が、そんなに繊細な神経を持っている筈ないだろ。
…仮にそうだったとしても、不合格だった場合に『心を乱されて、実力が発揮できず、編入試験に合格できませんでした』って、言い訳に使えて丁度いいじゃないか」
「「……。」」
こんな風に面と向かって、他人から悪意を感じる言葉をぶつけられるのは、初めての体験だった。
ここから逃げて何処かに隠れてしまいたくなる衝動を抑え、氷川先生の視線を黙って受け止める。
痛いほどの静寂の中、カチカチカチ…と…腕時計の音だけが着実に時を刻んでいく。
聖ラファエラの教育理念は『愛』。
学園生活の指針として、校訓には「敬愛・友愛・慈愛」が掲げられている。
競争意識が高く人間関係に序列を作りたがる人や、他者を貶めることで自らの優位を誇示したがるようなタイプは、入学試験の段階で落とされるから…聖ラファエラの生徒は皆争いごとを好まない子ばかりで…だから、私は今まで一度も『他人』と喧嘩をしたことがない。
『隊長、これが ”嫌味” ってやつですかね? それとも ”挑発” でしょうか?』
『……さぁて、どっちかな? この際、どっちでもいいんじゃないか?』
『良くないですよ! 相手に期待されてる反応の斜め上をいかないと、面白くないじゃないですか』
『……いや、そこで面白さを追求するのは、何か違うんじゃないか?』
『僕が面白くないんですよ。長年の夢をぶち壊しにされたから、少しは痛い目見せたいですし』
『……長年の夢?』
『はい。初めての喧嘩は、可愛いツンデレの女の子に照れながら売ってほしいと思ってたんです』
『………。』
『「べ、べつにあんたなんかと友達になりたいわけじゃないんだからね!」なんて言われたりするのが夢でした』
『……ソレは聖ラファエラの生徒じゃ、ありえんだろう』
『ですよねー? あそこの生徒はみんなデレデレですし。だから長年の夢だったんじゃないですか』
『……そうか…うん、もうワシは何も言わんよ。君の好きにしたまえ』
『そうですか? じゃあガツンと一発殴ってもいいでしょうか? 手が痛いと嫌なので、スリッパで』
『……いや、暴力沙汰はまずい。相手の狙いが解らない今、スルーしておくのが賢明だと思うぞ』
脳内会議で「とりあえず今は無視してやり過ごす」ことが決まったので、私は氷川先生から視線を外して、何事も無かったかのように再び歩き出した。
後ろで鏡先生が大きな声で氷川先生に何か言っていたけれど、振り返らずに一人で足早に貴志おじさまの書斎へ戻る。
氷川先生のさっきの言葉を、試験中に気にして集中力を欠いたら……私の『負け』だ。
あの発言が、私の動揺を誘ったり、精神的なダメージを与えることを目的としていたなら、編入試験に落ちることが私の『負け』になる。
別に青陵に編入できなくても困らないけど、わざと負けてあげる気にもならない。
その結論に達した途端、すぅ…っと、頭と心が冷えて、私はもとの落ち着きを取り戻せた。
――後半の試験(社会・理科)は、何の問題もなく無事に終わった。
試験中は問題だけに意識を向けていたから、氷川先生の存在に煩わされることもなかった。
問題用紙を先生に手渡して、筆記用具を片付けていると、鞠子おばさまが書斎に顔を出す。
「皆さん、お疲れ様でした。
客間でお茶でもいかがかしら?」
「…いえ、結構です。
お気持ちだけいただいておきます」
氷川先生の返事に、鏡先生も頭を下げて辞退の旨を伝えた。
私も今日お世話になったお礼を言った後に、お茶は遠慮してすぐに家へ帰ることを告げる。
「鞠子おばさま、申し訳ありませんがタクシーを呼んでいただけますか?」
鞠子おばさまが答える前に、氷川先生が横から口を挟んだ。
「――その必要はありません、我々が送りますので」
「…え?」
私は驚いて先生を見上げる。
整った顔には、何の表情も浮かんでいない。
「…でも、先生方にこれ以上のご迷惑は…」
鞠子おばさまが困惑した表情でやんわりと先生の申し出を断ろうとすると、氷川先生は強い口調で言い添える。
「七瀬家に寄らなくてはいけない用事がありますので、そのついでです。
どうかお気になさらず」
鏡先生も氷川先生に追従した。
「そうそう。本当についでですから。
……さ、七瀬さん、忘れ物はない?」
「は、はい」
「そっか。じゃあ行こう!」
鏡先生は私の鞄を左手に持つと、右手で私の手を引いた。
私は先生の勢いに押されて、慌ただしく書斎を出る。
氷川先生ならともかく、鏡先生もそう言うなら、本当に七瀬に用事があるんだろう。
先生に遅れないように、私も足を速める。
私と鏡先生は、玄関まで見送りに来てくれた鞠子おばさまに改めてお礼を言い、篠宮家を後にした。




