010 お嬢様と呼ばないで
――車が走り出した後すぐに、私の頭の中にアルフレインの声が響いた。
[ 葵、こいつは誰だ? ]
私はその質問に声に出して答えることができなくて、膝の上に乗せた籠からちょこんっと顔を出しているわんこを困った顔で見つめた。
[ 葵が頭の中で答えを明確に思い浮かべると、俺に伝わる。
声を出さなくても、大丈夫だ ]
精神感応みたいなものなのかな?
訝しく思いながらも、言われるとおりにしてみた。
[ 遼兄さんは、七瀬に代々仕えてくれている水澤家の人。
水澤遼さん……私より六つ年上の大学生。
水澤さん家は、うちのお隣にあるから、ちいさい頃はよく遊んでもらってたの ]
[ …それでコイツを『兄』と呼んでいるのか ]
[ うん、そう。
昔は、遼兄さんも私のこと『葵ちゃん』って呼んで…本当の妹みたいに可愛がってくれたんだけど…さっき『お嬢様』なんて呼ばれてびっくりした ]
[ 会うのは久しぶりなのか? ]
[ …遼兄さんは、高校から青陵学院の学生寮に入ったから。
卒業後も、大学に通うには遠いって…こっちには戻ってこなかったの。
だから、逢うのは五年ぶりくらいかな? ]
[ こちらの学生には、夏休みやお正月休み…長期休暇があると聞いているが? ]
[ うん、よく知ってるね。
…そうなんだけど…でも…勉強やアルバイトで忙しかったらしいよ?
お正月にも実家に帰ってこないなんて…って、遼兄さんのお母さんが怒ってたし ]
[ ――ふうん?
葵、こいつとは絶対に二人っきりになるなよ。
必ず俺が同席するからな ]
アルフレインが不機嫌そうだったので、わんこの頭をなでなでしてみた。
ふわもこな毛並みは、今日もとても手触りが良くて気持ちいい。
ふふ。
「葵お嬢様、その犬は…?」
耳触りの良いバリトンの声が自分に向けられていることに気がついて、私は慌てて顔を上げた。
見れば、赤信号で車は止まっている。
遼兄さんは顔だけこちらに向けて、後部座席を覗き込んでいた。
「……昨日のお誕生日に…」
私は意図的に言葉を濁した。
まさか、十四歳の誕生日に突然現れた魔法使いが変身した姿です…とは、とても言えない。
「ああ、お誕生日プレゼントですか。
お嬢様は昔からふわふわした毛の動物がお好きでしたよね」
遼兄さんはこちらの狙い通りに誤解して……涼しげな目元に優しい光を宿して微笑んだ。
記憶の中にある兄さんの姿とは違っていて、伸びた背も、広い背中も、大きな手も…知らない人みたい。
だけど、とても優しい目で私を見つめるところは、昔と全然変わっていない。
赤信号が青に変わり、遼兄さんは再び前を向いて車をゆっくりと発進させた。
私は迷った挙句、声をかけた。
「――どうして?」
「…え?」
「遼兄さん、どうして私のこと『お嬢様』なんて呼ぶの?」
「……間違ってはいないでしょう?」
苦笑まじりの返答に、イラっとして……気を静めるために深呼吸した。
ここで感情的になったら、きっと、遼兄さんのいいように話を纏められてしまう。
「昔は、そんな風に呼ばなかったのに」
「昔は子供だったからね。
お互いの立場なんて、考えていなかった」
遼兄さんの昔を懐かしむような口調を少し意外に思いながら、私は思い悩んだ。
『立場』と言われてしまうと、ちょっと説得が難しい。
水澤家と七瀬との繋がりは、江戸時代の末辺りからだと聞いている。
奉公人として子供の頃から骨身を惜しまずに働き、よく仕えてくれた人を、番頭に抜擢したのが始まりだったとか。
『七瀬』の当主が結婚を期に、店舗と商いの品々を…奉公人を解雇しないという条件を付けて…他人に譲り渡すことを決めたとき、水澤のご先祖さまは「一生お仕えすると決めたからには、どこまでもお供いたします」と言ってついてきたというから……たぶんその『頑固』さは先祖代々の筋金入り。
くすっとちいさな笑い声が聞こえて顔を上げると、バックミラー越しに遼兄さんがこちらを見ていた。
「葵お嬢様、そんなしかめっ面をしていては、可愛いお顔が台無しですよ」
「遼兄さんが『お嬢様』って言うのを止めてくれたら、笑います」
「……そうきたか」
くすくすと笑って流される。
むぅ。
悔しい。
「――もう主人と奉公人だった江戸時代でも、主人と使用人だった大正・明治時代でもないでしょう?
労働の対価に給金を差し出すだけの、対等な関係なのに」
「…対等、か」
話しながら少しづつ遼兄さんの敬語が崩れてきていることを、心の中でこっそりと喜ぶ。
「とにかく、少なくとも二人だけのときは『お嬢様』と呼ぶのはやめてね」
「そんなに嫌?
……執事服でも着てくれば良かったかな」
執事服を持っているの?
…とツッコミを入れそうになったけど、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
話を逸らされて、うやむやになってしまうのは避けなくちゃ。
「遼兄さんにそんな風に呼ばれると、なんか気持ち悪い」
「酷いな。
自制心のある大人として、礼儀正しく振舞っているのに」
「…どうして自制心が必要なの?」
私がきょとんっと首を傾げると、遼兄さんはまたくすくすと笑い出した。
「――俺のお姫様は、あいかわらずだな」
「…姫って言われるのも、いや」
「はいはい」
「…返事は一回」
二回続けて言われるとなんだか軽く聞き流されてるみたいで嫌だから、ちゃんと不快感を伝える。
ちょうど赤信号で停まったタイミングだったので、遼兄さんはきちんと私の顔を見て頷いてくれた。
「葵お嬢様の仰せのままに」
「……。」
『お嬢様』って言っている時点で、ちっとも私の『仰せ』に従ってないじゃない!
…という言葉は言わずに、遼兄さんを黙って睨みつける。
そんな私の顔を見て、遼兄さんは謝罪した。
「…ごめんごめん。
葵ちゃんが昔と変わらないから、つい、からかってみたくなって」
「――その台詞には、ほとんど誠意が感じられないけど?」
「うん、実はあんまり悪いと思っていないからね」
にっこりと笑顔で言い切られて、なんて返せばいいのか一瞬考え込む。
「……なんてね、嘘」
すぐに撤回されて、私は首を傾げた。
きちんと顔を見て追求したかったのだけど、青信号に変わって、遼兄さんは前を向いてしまう。
遼兄さんはバックミラーで私の表情を把握できるみたいだけど、私にはほとんど兄さんの表情の変化はわからない。
「嘘って…どれが嘘?」
「いろいろ。
…葵ちゃんが変わってない…と言ったこととか」
「…私、変わった?」
「うん、すごく可愛くなった。
昔よりも、ずっとね」
「そう?」
「今はまだ可憐な蕾だけど、あと数年も経てば大輪の花のように…誰もが振り返るような、綺麗な大人の女性になるよ」
思ってもいなかった褒め言葉に、心の中では激しく動揺しながら、表面上は素っ気なく返事をする。
「……そこまで言われると、嘘っぽい」
「年頃の女の子をほめるのは難しいなぁ」
遼兄さんはそう言うと、しばらく沈黙した後で私に尋ねた。
「――葵ちゃん、今回の編入試験の話は……七瀬の跡継ぎとしての…『婿選び』と関係してる?」
「…え…?」
突然の核心を突いた質問に動揺して、私は表情を繕えなかった。
「やっぱり、そうなんだ」
遼兄さんはため息混じりに言った。
「…どうして?」
どうして、遼兄さんが知ってるんだろう?
どうして、解ったんだろう?
「水澤は長い間、七瀬に仕えているからね。
詳しい事情を聞かされていなくとも、何代にも渡って同じことが繰り返されていれば、気がつくよ」
「…。」
「葵ちゃんは幼稚舎から女子校に入れられていたし、公の催しにも一切出席することなく育てられていたから……このまま箱入り娘として育つのだと思ってた。
七瀬の『婿選び』は昔から続く古い慣わしだから、若奥様…美雪様までで終わりじゃないかと……そうあって欲しいと願っていたけれど…ね」
遼兄さんの物憂げな表情に驚いて、言葉が見つからない。
私の知らないところで、たくさん心配をしてもらっていたんだ…。
気が付けば、車が停まっていた。
いつの間にか、篠宮家の駐車場に到着していたらしい。
おばあちゃんやお母さんが水澤家の人たちに話してこなかったことなら、私も話せない。
そう決めて、私はできるだけ明るい表情を浮かべて遼兄さんに向けた。
「不安じゃないって言ったら嘘になるけど、大丈夫だよ、きっと」
「…葵ちゃん…」
「……私、一人じゃないから」
私はそう言って、アルフレインの頭を撫でる。
わんこは気持ち良さそうに目を細めて、わたしの顔を見上げていた。
彼の本来の性格を考えると、あれこれと口を挟んできそうなものなのに、ずっと黙っていてくれたのは、遼兄さんと久しぶりに会ったのだと話したからかもしれない。
私への思いやりを優先してくれたのかも…?
そう考えると、少しだけ心が軽くなった。
「そんな先の話より、今は編入試験のほうが、ずぅっと気が重いよ?
青陵なんてレベルが高いところ狙わないで、近くの公立中学がいいって言ったのに、おばあちゃんが狙うなら一番に決まってるとか…」
わざと明るい口調を作ってぶつぶつと愚痴を漏らす。
「…まぁ、落ちたら落ちたでいいや…って、気楽に受けることにしたけど」
「……そうか」
「うん、ただの実力試験だと思えば、プレッシャーがかからなそうだし」
「そうだね。
…まぁ、青陵といってもそんなにレベルが違う訳じゃないと思うよ」
「青陵にトップの成績で入学した特待生にそんなこと言われても、真実味がない~」
「せっかく励ましてるのに」
「遼兄さんは私よりものすごーく頭がいいんだから、むしろ逆効果」
「…そういうもの?」
「うん。
普通のひとは、大学在籍中にいろんな資格試験を、総て一発で合格なんてできないもの」
「そうかな?
それぞれ面白くて、つい最後まで勉強したくなっただけなんだけど」
「遼兄さん…そんな…難しい資格を趣味で取りました風に話すのは、他所ではやめたほうがいいよ?」
「ああ、それ友達にもよく言われるんだ」
「…遼兄さんみたいな人と友達をやるのも、大変そうだね」
「……葵ちゃんにそんな風にしみじみと言われると、なんだか人間失格みたいな気がしてくるよ」
「うん、そこまで酷くは言ってないけど、似たようなものかも」
「こら」
遼兄さんに軽く額を小突かれ、二人で顔を見合わせて笑う。
…うん、よかった。
昔みたいな雰囲気に戻せたよね。
「――じゃあ、私、そろそろ行くね。
遼兄さん、送ってくれてありがとう」
私はそう言いながら、車のドアのロックを外した。
「…玄関まで送るよ」
「いいよ、すぐそこだし」
「いいから。
…鞄、俺が持つよ」
「……じゃあ、御願いします」
車から降りると、篠宮家の庭園のほうから微かに甘い香りがした。
早咲きの薔薇かな…なんて考えながら、私は遼兄さんと一緒に玄関へ向って歩き始めた。




