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湖面の少年  作者: 高山 由宇
アキとハルキ 〜一度失ったものは簡単には戻らない〜
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第2章 いれかわり

「ねえ、いつになったらそっちの世界に招待してくれるの?」

 アキに尋ねられ、ハルキはうーんと唸ってから答えた。

「アキがテストで80点以上とれるようになってからかなあ」

「どの科目?」

「全部」

「えーっ?」

 アキの絶叫が湖畔に響く。

「そんなの無理だよ。せめて国語だけにして」

 国語は得意なんだと語るアキに、ハルキは頭を抱えた。

「国語は元々80点くらいとれてるみたいだけど、その他はひどいね。算数なんて28点だよ?」

「僕、算数は一番苦手なんだ。その代わり、国語は得意なの。この間のテストじゃあ、国語は満点だったもの」

 アキは、得意げに満点の答案用紙をハルキに見せた。

「それなんだけどさ、そのテストで満点じゃなかった人がいるのかい?」

「いるよ」

 アキは鼻息荒く答える。

「モモちゃんが解答欄間違えちゃって92点だったって」

 ハルキはため息を溢した。

「つまり、みんな答えはわかってたってことだよね」

「…うん」

 アキはぽりぽりと頬を掻く。

「とにかく、これじゃあ駄目だよ。別世界に興味持つのはわかるけど、現実を見なきゃね」

「うう…」

「勉強すればいいじゃないか。次のテストまで、まだ間があるんだろう?」

「うん…」

「今からやれば大丈夫だよ」

「ねえ、アキ」

「なに?」

「80点以上?」

「うん」

「全科目?」

「うん」

「……」

「…70点、にしようか?」

 肩を落としてうつむいていたアキは、こくりとうなずく。勉強のよくできたハルキにとっては、テストで70点をとることなどそれほど難しいこととは思えなかった。だが、アキはそれでも自信がないようで、その表情は暗いままだ。

「もう、仕方ないなあ」

 ハルキの声に、アキはうつむいていた顔を上げる。

「僕が教えてあげるよ」

「え、本当?」

 アキは目を丸くしてハルキを見ている。

「この世界の勉強がわかるの?」

「僕のいる世界と変わらないよ」

「へえ、そうなんだ」

「少なくとも、今の君よりはできると思うよ」

 そう言うと、アキはその表情に輝きを取り戻した。

「やったあ、ありがとう」

「それじゃあ、始めようか。まずは算数からだね」

「え、今から?」

「そうだよ」

「ええ? まだいいよ。テストはもう少し先だし…」

「こんな点数でなに言ってるのさ」

 ハルキは思わず眉間に皺が寄る。

「君のこの点数を全科目70点まで持っていくには、今から取り組んでも遅いくらいかもしれないよ?」

「う…」

 言葉に詰まったアキは、渋々ながらも算数の教科書を開く。

「まずは、テストで間違ったところからおさらいしてみようか」

「うん」

 アキは、湖面にテストの答案をかざしてハルキに見せる。

「面積の問題…空欄で提出してるね」

「だって、わからなかったんだもの」

「これは三角形の面積を出す問題だね。公式がわかればすぐに解けるよ」

「公式…」

「じゃあ、問題。三角形の面積を求める公式は?」

「え、え…?」

「ほら、手元に教科書があるじゃない。探してみなよ」

「う、うん…」

 アキは教科書をぺらぺらとめくり出す。しばらくそうしていたが、どうやら見つからない様子だ。

「アキ、まずはね、目次を見てごらん」

 ハルキのアドバイスに従って目次を開く。

「あ、面積…34ページだって」

 見つかったことに嬉々としながら、アキは勢いよくページを開く。

「あった。三角形の面積を求める公式、だって」

「うん。なんて書いてあるんだい?」

「底辺×高さ÷2」

「そうだよ。それが三角形の面積を求める公式さ」

「うん。なんか、習ったような気がする」

「習ってるんだよ」

 アキははにかみながら笑った。

「あとは、この公式に数字をあてはめて解けばいいんだよ。この場合、底辺が3センチメートル、高さが4センチメートルとなっているから…」

「えっと、えっと」

 アキは地面に何やら書いているようだった。そして、わかった、と声を上げる。

「6平方センチメートルだ!」

「正解」

 アキは正解したことがよほど嬉しかったのか、飛び跳ねて喜んだ。

「それじゃあ、次にいくよ」

「うん」

「次は四角形だよ。平方四辺形の面積を求める公式はなんだい?」

「えっと…」

 先ほどと同じように教科書を見ようとするアキを、ハルキは制して言った。

「待って、アキ。これは見なくても考えればわかる問題だよ」

「え?」

「ちょっと考えてみようよ」

「考えるって、どうやって?」

「まずは、どうして三角形の時に2で割ったかを考えてみよう」

「どうして割ったか…?」

「なんで、底辺と高さをかけただけじゃ駄目だったんだと思う?」

「だって、三角形だもの。とがっている部分には高さがないんじゃない?」

「うん、そうだね。それじゃあ、三角形が2個あったら、どんな形になると思う?」

「え、どんな?」

 アキはうーんとうなって考えている。

「わからないかい?」

「…お山?」

 アキの冗談ともとれる解答に、ハルキはこめかみを抑えた。

「そうじゃなくてね。三角形をひとつ、くるっと反転させるんだよ。そして重ねると…」

「そっか。平方四辺形だ!」

「正解、その通りさ」

「それで、どうして公式がわかるの?」

「だから、2で割ったってことは半分にしたってことでしょ? 平方四辺形を半分にすると三角形の面積が求められるんだよ?」

「あ、なるほど」

「わかった?」

「うん。平方四辺形の面積は、底辺×高さ、だね?」

「大正解」

 アキは実に嬉しそうに、にこにことしながら教科書をめくる。

「ほんとだ。ここにもそう書いてある」

 ひとつわかるごとに、アキは声を上げて喜んだ。

「次は台形の面積だよ」

 ハルキがそう言うとアキは、

「うん」

と、先ほどまで嫌がっていたとは思えないような明るい声で答えるのだった。


「現実を見なきゃ、か」

 アキが帰って行ったあとで、ごろりと横になりながらハルキはひとりごちた。

「よく言えたものだよね」

 自嘲して言う。

「現実から逃げ回っていたのは僕の方なのに」

 かつての友人の姿が思い出された。

「そのせいで、アキを巻き込んでしまったんだよね…」

 少年アキのことも思う。

「その上、僕はその息子をも巻き込もうとしているんだ」

 ハルキはおもむろに起き上がった。

「僕は…最低だな」

 心臓の辺りがきゅっとしめつけられる感覚に、ハルキは胸を押さえた。

「ごめん」

 誰ともなく謝る。

「ごめん…」

 何度も謝罪を繰り返した。

「それでも、僕は帰りたい」

 鏡の向こうの世界に目を向ける。

「帰りたいんだ…」

 まるで願をかけるように、湖の上に煌めく星々に向かってつぶやいたのだった。

「なら、帰ればいいじゃないか」

 すぐ傍からの声に驚き、目を見開いた。

「え…アキ?」

 見ると、そこにはハルキにそっくりな少年が立っている。

「アキ、どうして…」

「違うよ」

 手を伸ばそうとしたハルキを制して、少年は言った。

「僕は、アキじゃない。君だよ」

 ハルキには少年の言葉がわからなかった。

「何を言ってるんだい?」

「だから、僕はハルキだって言ったんだよ」

「ハルキは僕だ」

「僕もハルキだよ」

「僕がここにいるのに、何だって僕が2人になっちゃうんだよ?」

 わけがわからないと声を荒げるハルキに、少年は笑って答えた。

「君は、まだこの世界に馴染めていないんだね」

「…どういうこと?」

「ここは、思えば叶う世界じゃないか。自分にとって良いことも悪いことも、何だって思いひとつで叶うんだ」

「それじゃあ、君が出てきたのは僕が思ったからだって言いたいのかい?」

「やっぱり僕だね。君は話が早いや。僕は、君の悩みを解決したいという思いが具現化した姿なんだよ」

 隣でにこにこと笑う少年に、ハルキは隠すことなく嫌な顔を見せた。

「一緒にしないでよ。僕は君みたいに自意識過剰じゃない」

「そうかなあ? 例えばだよ、さっき君はアキに勉強を教えていたよね」

「それがなんだい?」

「君はどう思った?」

「どうって…」

「優越感を持ったんじゃないのかい? 君よりも勉強ができない、君よりもずっと成績の悪いアキを前にさ、勉強を教えるふりをしながら馬鹿にしていたんじゃないかい? 見下していたんじゃないのかい?」

「そんなこと…!」

 ハルキは、少年につかみかからんばかりにいきり立った。

「ない、と言えるのかい?」

 本当に? と少年が尋ねる。ハルキは俄かにうつむいた。

「ほうら、やっぱり自信がないんだろ?」

 ハルキは考える。自分は本当にアキのことを馬鹿にしていたのだろうか。見下す気持ちはあったのだろうか。確かに、アキから答案用紙を見せられた時には唖然とした。ハルキが学校生活において、一度だって採ったことのないような点数が並べられていたからだ。かつて、ハルキをいじめていたリョウですら、もう少し良い点数を採っていたと思う。

「認めなよ、ハルキ」

 傍らで少年が、子供らしくない嫌な笑みを浮かべてこちらを見ている。

「違う…」

 ハルキが答えた。

「違うよ、僕はアキを馬鹿になんかしていない。見下してもいない」

「いいや、君は…」

「違う!」

 ハルキの威勢に押されるように、少年は口を噤んだ。

「僕は、アキに感謝していた。あの子と会うまで、僕はこれから先ずっとひとりなんだと思っていた。学校に行けば先生はいるかもしれないけど、友達もいないし、先生と2人きりの勉強はもう飽きちゃったよ。だから、アキに勉強を教えている時、僕はすっごく楽しかった。こんな感じは、本当に久しぶりだったんだよ」

「それじゃあ、もうひとつ」

 少年は物怖じせずに続けた。

「かつて、君の友人だったアキのことはどうなんだい?」

「え、アキ?」

「この世界の元々の住人だよ。君から世界を奪った奴のことさ」

「奪った…?」

「そうさ」

「違う」

 ハルキはきっぱりと否定する。

「それも違う。アキは、本当に僕のことを考えてくれていた。あの時、僕は自分の置かれている現状を受け入れることができなくて、とにかく逃げることしか考えていなかったんだ。今思えば、もっと他に方法があったんじゃないかとも思う。アキも、そんなことを言ってくれていたと思う。でも、その言葉を無視してここに来たのは僕だ。アキが僕から奪ったんじゃない。僕がアキをこの世界から追い出したんだ」

「本当にそうかな?」

「そうだよ。それ以外に何があるって言うんだい?」

「それなら、アキはなんで、この世界に来る前にもっと詳しく教えてくれなかったんだろうな」

「それは…」

「この世界のことを退屈なんてひと言だけで説明して、肝心のことは何も言わなかったじゃないか」

「……」

「アキはさ、本当は君を利用したんじゃないのかい?」

「どういうこと?」

「アキは、この世界を出て行きたかったんだよ。君の影としてだけ生きて、もうじき消される運命が耐えられなかったんじゃないのかい? 逃げたかったのは、実はアキの方なんだよ」

「そんな…」

「アキは君の力になるふりをして、君からこの世界を奪える時を待っていたんだ」

 ハルキの中に、黒い何かが生まれるのを感じた。だが、ハルキはなんとかそれを抑える。

「それも違うよ」

「何が違うって言うんだい?」

「君の言葉は矛盾している」

「どう矛盾しているのさ?」

「アキは世界を取り替えてからも、しっかりと約束を守ってくれていた。新月のたびに僕に会いに来てくれたんだ。約束を破ったのは僕の方なんだよ」

「どうして新月のたびに会いに来たなんてわかるんだい?」

「見ればわかるだろう?」

「見れば、ね。けれど、君は月の形が今どうなっているかなんて、気にも留めていなかっただろう? この世界の不思議さに夢中で、時間なんてまったく意識していなかったじゃないか」

「でも、アキは…」

「それに、君が時間を意識し始めた頃から、ぱたりと会いに来なくなった」

「……」

「それって、どういうことだい?」

 ハルキの中に一度生まれた黒い思いが、再び力を取り戻し、大きく育っていく。

「ほら、これで君の悩みは解決できるね」

「……」

「アキに謝る必要なんかないんだよ。アキは君を利用していただけなんだから」

「……」

「今度は君が利用してあげればいいんだよ。ほら、あの子だってこの世界に興味を持っているみたいじゃないか」

 鏡の中から、「アキ!」という元気な声が聞こえてくる。この世界の時間が経つのは相変わらずあっという間だ。外の世界では、すでに1日が経過していたようである。

「アキ、こんにちは」

 鏡にアキが映し出されるとともに、先ほどまで傍らにいた少年はふっとその姿を消した。

「こんにちは」

 ハルキが答えると、

「今日は起きてたんだね」

とアキが言う。

「僕っていつも寝てるイメージかな?」

「うん」

 アキは屈託のない笑顔を向けた。

「すぐに起きるけど、いつもごろごろしてる感じだよ」

「前はそうじゃなかったんだけどね」

「そうなの? どこか具合でも悪いのかな?」

「そうじゃないよ」

 心配そうな顔を見せるアキに、ハルキは首を振った。

「前はね、やりたいことがたくさんあって楽しかったんだけど、今はちょっと暇なんだ」

「ふうん。退屈なの?」

「うん、少しね。でも、君がよく来てくれるから、退屈も紛れて嬉しいんだよ」

 そう言うと、アキは嬉しそうに飛び跳ねた。

「ほんと? ほんと? 僕もね、アキといっぱい話せて嬉しいよ」

「そう?」

「うん。そうだ、僕にできることがあったら何でも言ってね」

「何でも?」

「うん。もっと、これまで以上に会いに来るようにするよ」

「それじゃあさ」

 ハルキの目に暗い影が差した。

「次の新月の晩、世界を入れ替えようよ」

 アキが目を丸くしてこちらを見る。

「え、でも、テストで全科目70点以上採らないと駄目だって言ってたじゃない?」

「大丈夫だよ。テスト勉強ならこっちでもできるんだから」

「ふうん」

「こっちの世界に興味があるんだろう?」

「うん。それはあるけど…」

「なら、問題ないよね」

 なかばハルキに押し切られる形で、アキはこくりとうなずいたのだった。

「次の新月って?」

「あと3日後だよ」

 アキの問いにハルキが答える。

「あと3日? もうすぐじゃない」

「うん。だから、みんなにはそれとなくお別れを言ってた方がいいよ」

「お別れ?」

「新月の晩にしか世界を取り替えられないから、帰れるのは早くても1ヶ月後になるからね」

「そんなに?」

「まあ、でもその間は僕がアキの代わりとして生活するから、周りには君がいなくなったことはわからないよ」

「そうなんだ」

 アキは笑った。

「楽しみだなあ」

 そう言って体を楽しげに揺らすアキは、その日は勉強どころではなかった。

 そうして3日が経ち、新月の晩…。アキは大きなリュックサックを背負って湖畔に現れた。それを見たハルキが忠告する。

「悪いけど、アキ。その荷物は持っていけないよ」

「えっ?」

 アキはひどくショックを受けたようだった。

「魂だけを入れ替えるからね。物理的な物は何も持っていけないんだ」

「そうなんだ…」

「でも、何も要らないよ。ここには何だってあるんだから。思うだけですべてが手に入るんだよ」

「そっか」

 アキはどさりとリュックサックを置いた。

「それじゃあ、アキ。湖畔に膝と腕をついて。そしてね、湖面を境界線として、僕と君の体がちょうど重なるようにするんだよ」

 アキは言われたようにする。

「ちょっと、苦しいよ…」

 その苦しさはハルキにもわかっていた。だからこそ、早口で説明する。

「僕の言うように言ってね。僕は内なる世界のアキ、君は外なる世界のアキ。いいね?」

 アキは苦しいながらもこくりとうなずく。

「僕は内なる世界のアキ、君は外なる世界のアキ…」

「僕は外なる世界のアキ、君は内なる世界のアキ」

 それを数度唱えた時、鏡の向こうからアキが出てくるのを見た。それと同時に、水が勢いよく侵入してくる。それに飲まれたハルキは、夢中で手を動かす。何かに触れた気がした。流されまいと、それをしっかりとつかむ。すると、その何かがするすると動き、激流をかきわけてどこかにハルキを連れて行く。

 どさり。

 投げ出されたような感覚に、背中をさすりながら起き上がった。そして見たものは、真っ白な世界ではなかった。今は、真っ暗な闇の中…天空には宝石のような星空が広がっている。風が、笹の葉を揺らす音が耳に届いた。

「…戻った」

 ハルキは思わずつぶやく。見慣れた風景、かつてと何も変わらないその湖畔を前に、ハルキはひとり歓喜の涙を流すのだった。

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