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湖面の少年  作者: 高山 由宇
アキとハルキ 〜一度失ったものは簡単には戻らない〜
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第1章 アキとの出会い

 その少年は、青色の目をくりくりとさせてこちらを見ていた。そして、おもむろに口を開く。

「どうして、僕の名前を知ってるの?」

 少年が尋ねた。

「僕はアキって言うんだ。君は?」

 ハルキは、一瞬ためらった。この少年の風貌を見て、自分とまったく関わりがないとは思えなかったのだ。だとすると、自分にそっくりなこの少年はいったい誰なのか。また、この少年は、自分のことをアキと名乗った。

「アキ…」

 ハルキは言う。

「僕の名前も、アキだ」

 この少年が、自分を外の世界に出してくれるかもしれない…ハルキは、そう直感していた。

「へえ、同じ名前なんだね。よろしくね、アキ」

 そう言ってアキは笑った。

「ねえ、アキはどうして湖の中にいるの?」

 アキは不思議そうに首を傾げる。

「ここが僕の世界だからさ」

「へえ!」

 アキは感嘆の声を上げた。

「湖の中ってどんな世界なんだろう」

「興味あるのかい?」

「うん。そりゃあ、あるよ」

「やっぱり、親子なんだね」

 ハルキはアキに聞こえないように、ぽそりとつぶやく。

「この世界はね、実に素晴らしい世界だよ」

「どんなふうに?」

「願えばなんだって叶えられる世界さ」

「へえ!」

 アキは目を輝かせてハルキの言葉に聞き入っていた。

「いつか、近いうちに君をこの世界に招待してあげるよ」

「ほんとうに?」

「うん。ただし、約束して欲しい。僕と、この湖のことを誰にも言わないって」

「わかったよ」

「お父さんやお母さんにも言っちゃ駄目だよ」

「うん」

「約束を破ったら、僕はもう君に会うことができなくなるからね」

「わかったったら。僕、君やこの湖のこと、誰にも言いやしないよ。約束する」

 そうして、ハルキは鏡ごしに、アキは湖面ごしに、指切りの真似ごとをしたのだった。

 それからというもの、アキは頻繁に湖を訪れるようになった。

「アキ、いる?」

 元気な声が湖畔に響く。

「やあ」

 ハルキが答えると、アキは嬉しそうに駆けてきて湖をのぞき込んだ。

「ねえ、聞いて! 僕、今日ね、学校のテストで満点を採ったんだ」

「へえ。それは凄いね。おめでとう」

「お父さんも誉めてくれるかな」

「お父さん?」

「うん。僕のお父さん、すっごく頭がいいんだ。だから、勉強のことでお父さんに誉められるの、嬉しいんだよ」

「そう。アキのお父さんって、何してる人なんだい?」

「お医者さんだよ」

「へえ…」

「この集落で唯一のお医者さんだから、みんなにも頼りにされてるんだ」

「都会には行かないのかい? 待遇が良さそうなのに」

「なんかね、偉い人には大学病院で働いたらって誘われたみたいだけど、お父さんはここを出ていきたくないんだって。育った所だからかなあ。思い入れがあるみたい」

 アキはよほど父親を尊敬しているのだろう。大きな目を輝かせながら、実に楽しそうに語っている。

「アキは? お父さんってどんな人?」

「イギリスから来た人だよ」

「え、おじいちゃんとおんなじだ! だから僕たち似てるんだね」

 アキはそう言ってにっこりと笑った。

「そうかもしれないね」

「それから?」

「それ以外は取り立てて話すほどじゃない。平凡で、どこにでもいるような人さ。日本が好きでね。そして、お母さんとお姉ちゃんと僕を…とても愛してくれていたよ」

「わあ、いいお父さんなんだね」

「君のお父さんも、きっといいお父さんなんだろうね」

「うん」

 アキは、本当に屈託なく笑う子供だ。その笑顔は育ちの良さを感じさせた。

「アキは、お父さんに似てるのかな?」

 ハルキが尋ねると、

「すごい! よくわかったね」

 アキは大げさなまでに驚いて言った。

「僕はお父さんのこと好きだけど、ひとつだけ不満があるんだ」

「なんだい?」

「名前だよ。アキって、お父さんがつけてくれたみたいなんだけど、なんだか女の子みたいじゃない?」

「そうかな? 僕はいい名前だと思うけど」

「そう?」

「うん。僕は自分の名前、とても気に入ってるよ」

「そっか」

 アキは名前を誉められたことが嬉しいのか、立ち上がるとスキップで湖の周囲を回り出す。1周すると、また畔に膝をついて湖をのぞき込んだ。

「ねえねえ、明日も来ていい?」

「いいよ。というか、なんで毎回帰る前に尋ねるんだい?」

 その問いかけには答えず、あはははと軽快な笑い声を上げながら、アキは林の中へと消えて行った。

「…嵐みたいな子だなあ」

 ハルキはひとりごちた。

「僕には似てないなあ。アキもあんな感じじゃなかったよなあ」

 先ほどまで鏡に映っていた少年アキは、活発で、素直で、好奇心旺盛で、外で遊ぶことが大好きな子供らしい子供であった。

「お父さんは今も元気にしているみたいだね」

 ハルキは鏡を磨きながらつぶやく。

「お母さんはどうしているかな。あと、お姉ちゃんも。次に会ったらそれとなく聞いてみよう」

空を見上げると、十六夜くらいだろうか、少し欠けたお月さまが煌々と辺りを照らしていた。


「アキぃ!」

 遠くから声が聞こえる。鏡を見るが、そこにはまだ誰も映っていない。その後、足音が聞こえてきた。草を踏み、土を蹴る音だ。走っているのだろう。

「アキ!」

 先ほどよりも近くで聞こえた。息が荒い。

「アキ!」

 三度呼ばれた時、ようやく鏡にアキの姿が映し出された。息が上がり肩が上下している。額にはきらきらと汗が浮かんでいた。

「落ち着いて。僕はここから逃げたりしないよ 」

 どうせ逃げられないし…という言葉を、ハルキはなんとか飲み込んだ。だが、ハルキのそんな心情など知るよしもないアキは、声を弾ませて言う。

「僕ね、演芸会で王子様役をすることになったんだよ」

「へえ。それは凄いね。何をやるんだい?」

「白雪姫」

「白雪姫か。うん、アキは王子様の役にぴったりだと僕も思うよ」

 えへへ、とアキが嬉しそうに笑う。

「アキは友達が多そうだよね」

 ハルキが言う。

「うん。学校のみんなは好きだよ。みんな仲良しなんだ」

 アキが答えた。ずきり、とハルキの胸が痛む。

「アキは? そっちの世界で、仲のいい友達はいるの?」

「前はいたよ。でも、いなくなっちゃった」

「え? 転校しちゃったの?」

「まあ、そんなとこかな」

 ハルキは話題を変えた。

「アキのことを教えてよ。お父さんのことは聞いたけど、他の家族はどうなのかな? みんなこの辺に住んでるのかい?」

「みんなこの集落にいるよ。あ、でも、伯母さんだけは東京に住んでるんだ」

「伯母さん?」

「うん。お父さんのお姉ちゃんだよ。デザイン系のお仕事をしてるみたい」

「へえ」

「それ以外はみんな近くに住んでるよ。一緒に暮らしているのは、お父さんとお母さんと僕の3人だけどね」

「そうなんだ。お母さんってどんな人だい?」

「怒ると怖い。だけど優しいんだ」

 ハルキは母の姿を思い出した。母も怒ると怖かった。けれども、今思えばいつもハルキのことをいつも気にかけている、優しい人だったように思う。

「おじいちゃんやおばあちゃんも元気なのかい?」

「うん。お母さんの方は2人とも元気だよ」

 ハルキは片眉を上げた。

「お母さんの方は…?」

「うん。お父さんの方はね、今はおじいちゃんだけなんだ」

 嫌な予感がする。それ以上聞きたくない…だが、聞かなければいけないような気がした。鏡の縁にかける手に自然と力が入る。

「お父さんの方のおばあちゃんは、僕がちっちゃい時に死んじゃったんだって」

 しばらくその言葉の意味が理解できずにいた。だが、ひとたび理解してしまうと、突如として真っ暗な穴がハルキの前に現れた。ハルキから足場を奪い、底なしの淵へと誘うように突き落としていく。

 そう、それは比喩などではなく、まさしく現実だった。

 ハルキのいる世界は思えば叶う世界…良い思いも悪い思いも、すべてが即座に叶えられてしまうのだ。

 落ち続けるハルキに寄り添うように鏡がついてくる。鏡の向こうのアキは、ハルキの様子に気づくことなく続ける。

「なんかね、病気だったんだって。お父さん、すっごく頑張ったけど治せなかったって言ってたよ」

 ハルキは、意識の端っこでアキの言葉をとらえていた。落ち続けるハルキが今思うのは、入れ替わったアキのことである。

 元は内なる世界の住人であったアキが外に出て、ハルキの代わりに外なる世界での生活を強いられるようになった。外に出なければ知るはずのなかった人を母と呼び、医者として、そして息子として、その死に目にも立ち会ったのだろう。

「僕のせいだ…」

 アキは、外に出る必要などなかったのだ。ハルキとさえ出会わなければ、こんなややこしいことで心を痛めなくても良かったのだ。

 アキは優しい。禁忌を犯してもなおハルキと世界を取り替えてくれたのは、ハルキを助けたいと思ったからだろう。そんなアキだからこそ、きっと、ハルキの母の死を心から悲しんでくれたに違いない。

「ごめんね…アキ」

「アキ、どうしたの?」

 鏡の中のアキが心配そうにこちらを見ている。先ほどまでとはうって変わり、暗く曇った表情を見せていた。ようやく、様子がおかしいことに気づいたようだ。

 ハルキはそれを見て落ちるのをやめた。穴が徐々に消えていく。

「やっぱり、似ているんだな」

 アキに気づかれないようにつぶやいた。

 鏡の中のアキは、おおらかで、少しばかり空気が読めないところもあるが、人の心情を気遣える優しい少年であった。それは、湖畔で出会ったかつてのアキを思い起こさせた。

「ごめん。なんでもないんだ」

「ほんとうに?」

「うん」

「そっか」

 アキは、それ以上は聞いてこなかった。

「それじゃ、僕はそろそろ帰らなきゃ」

 アキが言う。

 いつの間にか、鏡の中では夕陽も沈みはじめていた。赤と青のコントラストが映える空には、ちらほらと星も輝き出している。

「うん。またね、アキ」

「またね。バイバイ」

 アキはこちらに向けて手を振ると、いつものように駆け足で帰って行った。

 再びひとりになったハルキは、誰も映さなくなった鏡から目を離した。その瞬間、鏡はぱっとその姿を消す。そして、先ほどのアキの言葉を思い出した。

「…お母さん」

 瞼の裏に母を見た。次から次へと、母との思い出が浮かんでは消えていく。

「家を出たあの時が、最後になるなんて…」

 ハルキは、こみ上げる思いを堪えきれず涙を溢した。

「お母さん…」

 鼻をすすりながら懐かしい母を呼ぶ。

「もう一度、お母さんの肉じゃがが食べたかったなあ」

 そして思うのは、母が何の病気で亡くなったのかということだ。

「あの様子だと、あの子は知らないんだろうなあ」

 ハルキは、かつての友人アキのことも思った。

「アキはどんな思いだったかな」

 何を思って、母の死を看取ったのだろう。

「やっぱり、会わなきゃいけないよね」

 アキに会って話を聞かなくては…。そのためには、ここを出ていかなくてはならない。ハルキは周囲を見渡した。どこまでも続く、真っ白な空間がそこには広がっていた。

「最近は誰にも会ってないなあ」

 リョウたちの姿を見なくなってしばらく経つ。学校にも行ってみたが、いなかった。東京で通っていた学校の校舎にも行った。三つ編みの女の子もいなくなっていた。

「みんな、消えちゃったんだ…」

 集落で教えてくれた先生はたまに見かける。学校を思い浮かべると、いつも一緒に現れた。だが、近頃は見ていない。学校に行くこともなくなったからだろう。

「みんながいないんじゃ、つまらないもの」

 外にいた頃は、仕方なく学校に通っていた。勉強に集中することで、日頃の嫌なことから少しでも目を背けようとしていたのだ。

「リョウ君たちに会いたいなあ」

 この世界でリョウたちに会い、学校は勉強をするためだけに行くのではないということを知った。みんなで勉強するのも楽しいし、何より、みんなでいろんな遊びをすることが堪らなく楽しかったのだ。

「だから、アキのこと忘れちゃってたんだよなあ」

 ハルキはため息を漏らした。そう考えを詰めていくと、自分が外に出られないのも、アキが大人になってしまったのも、母が亡くなったことすらも、なんだかすべてが自分のせいのように思えてくる。

「僕はどうして消えないんだろう」

 誰にともなく尋ねてみるが、その理由はなんとなくわかっていた。

「やっぱり、アキのおかげかな」

 先ほどまでここにいたアキを思い浮かべる。ハルキにそっくりな彼は、ハルキの肉体に宿ったアキの血を引いているのだろう。アキが生まれたから、自分は消えなかったのだろうとハルキは思った。今は、ハルキは少年アキの影として生かされているのだった。

「これは、僕にとって最大のチャンスだ」

 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、再び現れた鏡をのぞく。辺りの闇が一層濃くなっていた。そして、空には無数の星が昇っている。ふと、その中のひとつが流れて消えた。


「アキ」

 誰かに呼ばれた気がする。

「アキ」

 優しい声だ。それは、かつての友人を思い起こさせた。

「アキ…?」

 湖畔で語り合った友人の名を呼ぶ。

「また寝てるの?」

 ハルキは意識を取り戻して辺りを見る。出したままだった鏡の中に、少年アキがいた。いつの間にか陽が昇っていたようだ。いや、アキがいることと太陽の位置を見るに、もうじき陽が沈もうとしているのだろう。ハルキが少しばかり眠っている間に、外では1日が経過していたようだ。

「アキ、今日は静かだね」

 いつもなら、眠っていてもアキがやって来る気配で目を覚ますのに…そうつけ足すと、

「え、そんなに僕うるさかった?」

と驚いたように尋ねる。

「林の中から僕を呼びながら走ってくるじゃないか」

「あ、そうかも」

 アキは笑った。だが、その笑顔にはいつもの力がない。

「どうしたんだい?」

 ハルキが尋ねると、

「ん、なんでもない」

 アキはそう答えた。それには、ハルキは含み笑いを漏らす。

「なんでもなくなんかないんでしょ?」

「え?」

「アキはわかりやすすぎだよ。学校で何か嫌なことでもあったのかい?」

「嫌なことなんてないけど…」

 珍しく言葉を濁したアキを見つめ、ハルキは次の言葉を待った。

「あのね、アキ」

「うん」

「僕…ごめんね」

「うん?」

 アキに謝られることに心当たりがなく、ハルキは首を傾げた。

「昨日のことだよ。アキ、すごく悲しい顔してたよ。あれって、僕が余計なことを言っちゃったからじゃないかなって思って…」

 アキは、話しながらさらに表情を曇らせていく。ハルキは笑った。

「違うよ、アキのせいじゃない。アキのおばあちゃんが死んじゃったって話を聞いてね、僕のおばあちゃんが死んだ時のことを思い出したんだ」

「え、アキのおばあちゃんも死んじゃったの?」

「うん。同じように、病気でね」

「そっか…」

 自分のせいじゃなかったと知ってほっとしたのか、アキはようやく笑顔を取り戻した。

「今日ね、先生やみんなとクッキー焼いたんだよ。上手にできたから、アキに食べてもらおうと思って持ってきたんだ」

 にこにこと話すアキに、ハルキは疑問の表情を浮かべる。

「え? 食べてもらうって…」

 どういう意味? と続くはずだった言葉は、アキの突飛な行動によって、音となる前に消えた。

「ちょっ…何してるんだい?」

「こうしたら、そっちに届かないかなあって思って」

 そう言うと、アキは満面の笑顔でクッキーを湖にまいている。ハルキはたちの悪い冗談だと思ったが、アキにそのつもりはないらしい。その裏のないにこにこ顔が、アキが本気であることを物語っていた。

「やめて。湖が汚れちゃう」

 ハルキの言葉にはっとして、アキはクッキーをまく手を止めた。そこで、ようやくクッキーがハルキのもとに届かないと悟ったらしいアキが、しょんぼりとうつむく。それを見ていたハルキは、耐えきれず声を上げて笑った。

「君は本当にいい子だね」

「…ごめんね」

「ううん。クッキーは届かないけど、アキの気持ちは届いたよ。ありがとう」

 ハルキがお礼を言うと、アキははにかみながら笑った。

 それから、学校であったあれやこれらを聞いていると、夕陽の色が濃くなり、家に帰る時間を知らせる。

「それじゃあ、またね」

 アキが言う。

「うん、またね」

 ハルキも鏡に向かって手を振った。それを見届けると、アキは元気に走って、林の中へと消えていった。

「本当にいい子だね、君の子は」

 誰もいなくなった鏡の向こうに、ハルキはつぶやいた。

「ごめんね、アキ…」

 それは、どちらのアキに対する謝罪だったのか。また、何に対して発したものだったのだろうか。

 ハルキは物思いに耽りながら、鏡に映る真っ赤な夕陽をしばらく見つめていた。

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