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湖面の少年  作者: 高山 由宇
ハルキとアキ 〜ひとつのものを手に入れるには大きな代償が必要である〜
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第5章 訪れなくなった友人

「ねえ、次は何して遊ぶ?」

 尋ねると、

「そうだな」

とやる気のない声が聞こえた。

「そうそう新しい遊びなんて思いつかないよな」

 リョウが言うと、タクミとレオはうんうんとうなずいている。

「ええ? 何かないのかい?」

「なら、お前が考えろよ」

 そう返されて、ハルキは頭を抱えた。

「難しいね…」

「だろ?」

「うん。僕ら、もう大抵の遊びはやり尽くしちゃったもんね」

 リョウは本を取り出した。

「だから、俺らは本を読むんだ。本は次々に新しいのが出てくる。本を読み尽くすなんてことはできないからな」

「そうなんだ」

 そこで、ハルキもリョウたちと一緒に本を読みはじめた。だが、そのうちにそわそわとし出す。

「ねえ、なんかしようよ」

 ハルキは少しばかり声を荒げて言った。

「だから、何をやりたいんだよ?」

 リョウも少し苛立っているようだった。

「それは、わからないけど…」

「何だよ、それ」

「でも、ずっと本ばかり読んでるなんて、退屈だよ!」

 その時、ハルキははっとした。

 アキが言ったのは、このことだったのだろうか。楽しい時間は長くは続かない、近いうちに退屈な時間がやってくる…そう、アキは言い続けていたのかもしれない。

 そこで、ハルキは久しぶりにアキのことを思った。アキに会いたい…その思いが、強く心の底から湧き出してくるのを感じた。その途端、先ほどまで読書をしていた3人の姿がふっと消えた。それと引き換えるように鏡が現れた。

「なに、これ」

 ハルキは茫然とする。

 目の前に現れた鏡は、以前見たものと同じものだとは到底思えないほどに埃や垢で荒み切り、その輝きを完全になくしてしまっていた。

 ハルキは手を伸ばし、鏡の縁についた苔をひと撫でする。

「なんで…」

 ちょっとやそっとじゃこんなに汚れはしない。それは、だいぶ長い年月が経っていることを物語っていた。

「アキ」

 ハルキは曇り切った鏡に向かって呼びかける。

「アキ」

 だが、返事はなかった。

「アキ…」

 いつからだろうか。アキの姿を見ることもなく、その声を聞くこともなくなったのは。それどころか、ハルキは先ほどまで、アキの存在をすっかり忘れてしまっていた。

「アキ!」

 ハルキは鏡を両手でしっかりとつかむと、渾身の力を込めて叫んだ。

「アキ、アキ!」

 叫びながら鏡に頭突きをする。額が赤くなり薄っすらと血が滲んだが、構わずに外の世界へと叫び続けた。しばらくそうしていたが、しだいに疲れてくると鏡から手を離して座り込む。

 最後にアキに会ったのはいつだったろうか。

 ついこの間だったような気もするし、もう思い出せないくらい遠い昔だったような気もする。最後に会った時、アキが痩せたようにハルキは思った。けれども、それは少し違ったのかもしれない。

「アキ…君は、大人になってしまったんだね」

 つぶやきとともに、ハルキの目からはひと滴の涙が零れ落ちた。

 アキはもう、自分に会いにきてくれることはないのだろう。そう思うと、止めようもなく涙が流れては地面に吸い込まれていった。

「もう、アキに会えないのかな」

 ハルキはひとりつぶやく。

「そしたら、僕はずっとこの世界にいることになるのかな」

 ハルキは空を見上げた。周りは昼間のようだが、頭上には広い宇宙が広がっている。そして、その中心にお月さまはいた。今日は満月のようである。

「ごめんなさい」

 誰に対しての謝罪だったのか、ハルキにもわからない。だが、煌々と輝く月を見ていたら、そう言わなければいけないような気がしてきたのだ。もっとも、今さら謝ったところで簡単に許されるはずがないことぐらいハルキにもわかった。だから、この謝罪は、月に対してというよりはアキに向けたものだったのかもしれない。

「帰りたい…」

 ハルキは言う。

「お父さんやお母さんに会いたい」

 最後に家を出る時、食べることを断った母の料理を思い出した。それから、父にも母にも、別れの挨拶もなしに出てきたことを後悔した。

「先生やみんなにも会いたい…」

 ハルキはリョウたちの顔を思い浮かべた。会えば彼らはまた自分をいじめるだろう。それでも、会いたいと思った。

「アキ、君にも会いたいよ」

 心からの願いを込めて名を呼ぶが、鏡はもう何も映し出すことはなかった。

 鏡を前にしばらく項垂れていたハルキだが、突如として立ち上がると空を見上げた。

「僕は帰るよ!」

 ハルキは満月を指さして叫ぶ。

「僕はこの世界の住人じゃないんだから、この世界の神様なんて関係ない。絶対に元の世界に戻ってやる! どうやって帰れるかはまだわからないけど、わからないことは調べたらいいんだから」

 その日から、ハルキは図書館にこもるようになった。

 アキはかつて言った。呪法のやり方を本で調べた、と。まずは、その足取りを追ってみることとした。幸いにも、今のハルキの体は元はアキのものである。調べた本の内容は、何となくだけれども体が覚えている。

「確か、この本とこの本と…この本を読んだんだ」

 ハルキはそれらの本を手に取ると、その場に座って読み始めた。

 最初の本には、呪法のやり方が記されていた。

「えっと、内と外の世界を入れ替える方法…」

 そこには、こう書かれていた。


   唯一無二にして偉大なる我らが女神がそのお姿をお隠しになる時、内と外の境界線が解き放たれる。

   その時、内なる者と外なる者との魂を入れ替えることが可能となる。

   だが、条件がある。

   ひとつ、内なる者と外なる者とが本体と影の関係にあること。

   ふたつ、内なる者が外なる者より名を与えられた者であること。

   そして、その方法は、内なる者と外なる者の名を逆に呼ばうことである。

   さすれば、内なる者は外なる世界へ、また外なる者は内なる世界への扉を開くであろう。


「うん、僕らはこの通りのことをやったんだ」

 アキは、確かにこの本を読んだようだ。

 ハルキはぱらぱらとページをめくる。次の章に目を向けた。

「内なる者と外なる者とを見分ける方法…か」

 それによると、こうである。


   美しき我らが女神は火の玉の如き神に焦がれ、我らの世界から去ってしまわれる。

   その時、外よりきたれる者を拒む手立てはなし。

   その後、我らが女神が戻られるが、我らの世界に溶け込んでしまった異邦者を探すは困難をきたす。

   だが、ただひとつ、方法がある。

   我らになくて、外なる者が持つものを探すことだ。

   それこそが、異邦者を探す鍵となろう。

   それは、すなわち、名前である。

   外よりきたれり者は、みな固有の名を持つ。

   名が、外なる者を縛る鎖となる。

   名を持つ者を探すのだ。

   そして、我らが女神のもとへと跪かせよ。

   我らが麗しの女神が、御自らの御手でもって、外なる者へと制裁をお与え下さるであろう。


 読みながら、ハルキは背筋が寒くなるのを感じた。今、まさに自分は、女神からの制裁を受けているとでもいうのだろうか。

「あなたは、そうやってずっと僕のことを見張っているのかい?」

 ハルキは空を見上げて尋ねた。図書館の中にも関わらず、空には煌々とした満月が輝いていた。

 ハルキは本を閉じると、2冊目に手を伸ばす。

「内なる世界と外なる世界の関係…」

 早速ページをめくる。そこには、こう記されていた。


   世界の始まりにおいて、内と外とは一なるものであった。

   まず初めに、陽の気をまとった太陽の神があった。

   その後、太陽は陰の気をまとった月の神を作った。

   それから、太陽は次々に、人や動物、植物など、地上にあらゆる生物を作り出した。

   太陽は、自らが生み出した子らすべてに、分け隔てのない愛を注ぎ続けた。

   だが、月にはそれが許せなかった。

   最初に作られた自分と、後から湧き出すように作られた地上の生物たち…。

   同じく扱われることが、無性に腹立たしかったのである。

   ある日、溜まりに溜まった嫉妬の毒が、地上の世界を汚染しはじめた。

   それを見止めた太陽は、地上の生物たちを救うために月を内なる世界へと閉じ込めた。

   だが、いかな悪を犯したと言えども、ただひとり閉じ込められることを太陽は哀れと思った。

   そこで、地上の生物たちの影となる者を作り出し、月とともに内なる世界へと送り込んだのである。

   それこそが、内なる世界と外なる世界のはじまりであった。


「月のことも地上の生物たちと同じように愛していた太陽は、自分のいる外なる世界に月の影を置いた。こうして、外なる世界に朝、昼、夜という概念が生まれたということである…か」

 その章を読み終えると、ハルキはぱたりと本を閉じた。そして、アキのことを思い浮かべる。

「それじゃあさ、アキは、僕の影として作られたってことかな」

 アキだけではない。この世界で会った人々は、この本によると外なる世界の投影なのだ。リョウもタクミもレオも、先生も、そして東京の学校で同じクラスだったあの女の子も…。

「みんな、僕たちの影だったんだ」

 言ってから、ハルキは自嘲ぎみに笑った。

「違う。今は、僕がアキの影なんだ…」

 ハルキは3冊目の本に手をかけながら、ふと思う。外なる者と内なる者とが似ても似つかなくなったとしたら、その時はどうなるのだろう…と。影は、おそらく成長しないだろう。アキが成長しても自分の姿がまるで変化しないことを考えても、その仮説は正しいはずだ。

「僕は、消えるのかな…」

 恐ろしい考えが頭を過る。

「影は、外の世界の人がいてこその影だもの」

 開いたページにひと滴の涙が染みを作る。それ以上読み続けることができなくなり、ハルキは手にした本を閉じた。


 ハルキは、本を読むことをやめた。

 本からはたくさんの知識を得ることができる。だが、その分、知りたくないことも知ってしまうことになる。本は好きだが、今のハルキには読む気になれなかった。

 その代わりにハルキは、残された時間を汚れ切った鏡を掃除することに費やすこととした。

 いつ消えるかもわからないが、それまでにこの鏡をぴかぴかに仕上げておきたかったのだ。なぜなら、鏡がこれほどまでに汚れてしまったのは、自分の心が荒んでいたからだとハルキには思えたからだ。どうせ消えるなら、せめて自分の心くらい綺麗に掃除してから消えてやりたかったのだ。

「それにしても、よくこんなに汚れたな」

 こすってもこすっても、曇りが晴れる気配はない。

「時間がかかりそうだな」

 内なる世界にきて、ハルキは初めて時間を意識した。

「これを綺麗にするまで、僕の体が持ってくれるといいんだけど」

 ハルキは、お願いごとをするように空を見上げる。空の月は、いつの間にか三日月へと変わっていた。

「そういえば…」

 ふと、リョウたちのことを思い出した。

「みんな、どこだろう?」

 きょろきょろと辺りを見回すが、どこにもリョウたちの姿は見当たらなかった。

「みんな…」

 思うだけで、いつでもそこにいてくれた友人たちが、今は誰ひとりとして現れない。

「みんな、消えちゃったのかな…」

 アキが大人になったということは、リョウも、タクミやレオも、みんな大人になったということだ。外の世界は、ハルキの知らない間に目まぐるしく変化し続けているのだろう。ハルキは、ひとり取り残されたような寂しさを感じ、磨いている途中だった鏡を胸に抱え込んで横になった。そして目を瞑る。

 どれくらいそうしていただろうか。

「ハルキ」

 誰かが呼んでいる。女の人の声だ。

「ハルキ」

 また呼ばれた。今度は男の人の声だ。

「起きなさい、ハルキ」

 ハルキはおもむろに目を覚ました。

「お母さん…お父さん…」

 そこには、懐かしい父と母の姿があった。そして、父母の横には、

「ハルキ、久しぶりね」

と、はにかみながら顔をのぞかせる姉がいた。

「お姉ちゃん…」

「ハルキ、元気だった? 集落での生活はどう?」

 セーラー服に身を包んだ姉が笑いかける。一緒に住んでいた時には疎ましさしかなかったが、その笑顔が今ではたまらなく愛おしく思えてならなかった。だから、前に言えなかったことを言おうと思った。

「お姉ちゃん」

「なあに?」

「あのね…」

「うん?」

「ランドセル…ありがとう」

「え、なによ、急に。私は、ハルキには悪いことしたかなってずっと思ってたのよ。だって、ランドセルのお古なんて、嫌でしょ?」

 ハルキは、ふるふると首を振った。

「お姉ちゃん、僕に自分のお古が渡ることを考えて色を選んでくれたんだよね? 僕、ああいう薄い紫色が好きなんだ。知ってたんでしょ?」

 姉は微笑んだ。

「うん。でもね、きらきらのラメとか入ってるし、成長したハルキは女の子趣味だって嫌がるんじゃないかなって、ちょっと後悔したのよ」

「最初はね、嫌いだって思ったよ。でもね、友達に言われたんだ。宇宙を見ているみたいでかっこいいってさ」

「あら、気の利いたことを言う友達がいるのね」

「うん。僕の一番好きな友達…」

 だったんだ、と最後の方は消え入りそうな声でつぶやいた。だが、姉はその言葉が聞こえていなかったのか、朗らかに笑い続ける。

「お母さん、僕、お母さんのクリームシチューが食べたいな。あと、肉じゃがも」

 そう言うと、母はとても嬉しそうに目尻を下げた。

「ハルキがご飯のリクエストをするなんて、珍しいわね。それじゃあ、今夜はクリームシチューと肉じゃがにしましょうか」

「ほんとう?」

「他に食べたいものはある?」

「え、えっと…」

 急に聞かれて何も思い出せずにいると、

「私、お寿司」

「お父さんはロールキャベツかな」

 横から姉と父が答えた。

「えっ、えっ…」

「あ、あとね、桃が食べたい」

 姉の言葉に、

「それはデザートじゃないか」

 ハルキが抗議する。そんなハルキを見て、母は笑って言うのだった。

「そんなに急いで考えなくてもいいのよ。ゆっくり考えなさい」

 そこで、ハルキは少し落ち着きを取り戻した。

 帰ってきた…。そう思うと、心につっかえていたものが綺麗に剥がれ落ちた気分だった。

 ー綺麗に…?

 ハルキは自分の胸に手を当てる。本当に、自分は帰ってこれたのだろうか。だとしたら、どうやって?

 ハルキの胸に、何かが引っかかっていた。

「良かったな、ハルキ」

 父はハルキを抱きかかえると、そのまま高い高いを繰り返した。

「わ、わ、なにするんだよ」

 ハルキは恥かしさに顔に血が上るのを感じた。

「もうやめて、おろしてよ」

 父は細身だが、なかなかに筋肉質な体系であった。

「こうするのも、なんだか久しぶりだなあ」

「当たり前だよ、僕をいくつだと思ってるのさ」

「ああ、そうだなあ」

 父は笑いながら言った。

「もう29歳になるんだよなあ」

「え…」

 その瞬間、どさりと、ハルキは地面に投げ出されていた。そして、父母と姉の姿は跡形もなく消えていた。

 ハルキは、急激に現実に立ち返らされたのだ。そう、これがハルキの現実である。この世界こそが、今のハルキにとって現実そのものだった。

「うわあああああああっ!!」

 ハルキは、これまでに出したことのない大声で、渾身の力を込めて叫んだ。自分の持てる限りの力をぶつけるように、天に浮かぶ月を目がけて叫んだのである。

「なんでっ! なんでっ!」

 ハルキは月を睨みつけた。

「なんで、こんなものを見せるんだ!」

 近くにあった石を月に向けて投げつける。

「お前は、そんな高い所から僕らを見下して、神様気取りかい? だから太陽にも愛想尽かされて、こんな内側の世界に閉じ込められたんじゃないのかい? 僕は、お前を神だなんて思わない! 僕を消したければ好きにすればいい! その前に、僕はここを必ず出て行ってやる! どんな手を使ってでも、必ず出て行ってやるからな! もう一度! 必ず! 僕は外の世界に戻るんだ! お前の思い通りになんてなるもんかっ!!」

 そうして、それ以来ハルキは、今まで以上に本を読み漁った。近いうちに、必ずここを出て行く…その強い思いを胸にしながら。

 それと同時に、鏡を磨くことも忘れなかった。この鏡だけが、内と外とを繋ぐ唯一のものだ。ハルキは、大切に、大切に、念入りに鏡を磨き続けた。そして、ついに以前と同じ輝きを取り戻したのである。

「やった…」

 頑張った甲斐があった、そう思いながら鏡をのぞき込む。

「え…」

 不意に、ハルキは驚きの声を上げた。

「アキ…?」

 思わず呼びかける。

 そう…鏡の向こうに、自分とそっくりな顔立ちの少年を見つけたのだ。そして、鏡の中の彼はといえば、不思議そうな顔でこちらを見つめていたのである。

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