第4章 年月
ハルキの生活は、実に充実していた。
この世界では、ハルキはリョウたちと大の仲良しだ。そして、いつも4人で遊んでいた。勉強もおもしろく、外の世界では学べないようなことまで教えてくれる。読みたい本があれば、どこからともなく現れていつの間にか手元に収まっている。それがフランス語などで書かれていれば、ハルキが理解できるように日本語かもしくは英語に瞬時に翻訳されるのだ。それから、この世界においては、衣食住から解き放たれる。外の世界においてはとても大切なものだが、ここではそれを考える必要はない。願ったものはすべて与えられ、眠る必要もなく空腹を覚えることもない。ただ、眠りたいと思えば周囲は暗くなり、何かを食べたいと思うとそこにはご馳走が現れた。
まるで、夢のような世界…。
いずれアキに返してやらなくてはいけないと思いながらも、ハルキはずっとここにいたいと思うようになっていた。
「なあ、これってどういう意味だと思う?」
分厚い本を読みながら、リョウが尋ねてきた。
「このページなんだけど、なんでさっさとお姫様を助けてやらないのかな」
ハルキは指摘のあったページに目を通す。
「たぶん、お姫様を助けてめでたしめでたし、とはならないからじゃない?」
「なんで?」
「だって、敵はお姫様だけでなくたくさんの国民も人質にとってるんだもの。お姫様を助けたら、国民は殺されちゃうかもしれないよ」
「でも、それは仕方ないんじゃないか。お姫様が敵に渡ったら、結局は国民は奴隷にさせられちゃうんだぜ? ここで死ぬより辛い目に遭うかもしれないじゃないか」
「うん。でも、この時の主人公はさ、お姫様も国民も犠牲にしたくなかったんだよ。みんなを助けるつもりでいたから、その方法を探すために、ここではお姫様を助けなかったんじゃないのかな」
ハルキが自分の見解を述べると、リョウは「そうか」とつぶやき、また本の世界に入って行った。そんなリョウの姿に、ハルキは口元が緩む。この世界でのリョウは真面目で勉強家だ。だが、細かいことを考えるのが苦手なところなどは、外の世界のリョウと変わりがない。この世界のリョウとつき合ううちに、ハルキは外の世界のリョウともうまくやれる方法があるのではないかという錯覚に陥ることがあった。しかし、ハルキは首を振ってその思考を封じ込める。
「そんなこと、無理に決まってる」
そのつぶやきに、近くで文庫本を読んでいたタクミとレオがこちらを向くが、ハルキはにこっと笑ってごまかした。
こちらの世界において、タクミとレオは実に可愛い後輩だった。ハルキにとってはまるで弟ようだった。2人もハルキを兄のように慕ってくれている。末っ子のハルキは、弟か妹が欲しいと母に願って困らせたことがあったが、この世界にきてそれが叶えられたような気がしていた。
「ねえねえ、これなんて読むの?」
タクミが問いかけながらすり寄ってくる。
「うん?」
ハルキもタクミの方に寄り添い、文庫本のある一文に目を落とした。
「訝しむ…いぶかしむって読むんだよ。変だなって思うことさ」
「そうなんだね!」
ようやく理解できたことの喜びに、タクミは目を輝かせる。その横から、
「ねえねえ、これはなんて読むの?」
文庫本のある一文を指さしたレオが問いかけてくる。
「これは、奇怪…きっかいって読むんだよ。珍しいとかおかしいとか、不思議って意味さ」
「へえ!」
レオが感嘆の声を上げる傍らで、
「なんだか、おんなじような意味だな」
リョウがつぶやいた。
「訝しむが変だなって意味で、奇怪がおかしいって意味なんだろ? どう違うんだ?」
「えっと…」
ハルキが口ごもる。言われてみればそうだ。タクミとレオに得意げに教えていたが、その違いはどこにあるのか答えることができずにうつむく。すると、リョウは読んでいた本を閉じて言った。
「調べようぜ」
そして、ハルキの手をとる。
「わからないことは調べたらいいんだ」
調べるという言葉を聞いて、ハルキの脳裏にはイギリスの国立図書館が思い出された。それに呼応するかのように、周囲の風景は一変する。そこに、あの大きな図書館が再び姿を現したのである。
「行こうぜ」
リョウが図書館に向けて歩き出す。ハルキ、タクミ、レオの3人は、そんなリョウの背中を追って歩き出した。
その頃からであった。ハルキにとって、アキの存在が少しばかり疎ましく感じられるようになったのは。
「アキ、君はいつまでそこにいるつもりなんだい?」
鏡に映ったアキが、思いつめたような顔つきで尋ねる。
「もうそろそろいいだろう? 元に戻ろうよ」
アキの気持ちはわかる。現実の世界と比べると、この世界は夢のようだ。外のつまらない世界と早くお別れして、どんなことも思いひとつで叶えられるこの世界に戻ってきたいと思うのは当然のことである。けれども、ハルキはまだこの世界を手放す気にはなれなかった。一度戻ってしまったら、二度とここに来ることができない気がしていたのだ。
「ごめん、ハルキ。僕はまだここを出たくないんだ」
「アキ、駄目だよ」
「お願いだよ、ハルキ」
「駄目だよ」
「だって、僕…」
「僕は、そうやって君のお願いをずっと聞いてきた。でも、もう駄目だ」
アキの瞳には強い意志が宿っていた。ハルキにだって、アキの言うことがわからないわけでもない。元々は1ヶ月で帰るつもりだったのだ。それが2ヶ月となり、半年となった。それは、ハルキがアキとの約束を破り、頼み込んで期間を延期させてきたからだ。つまり、ハルキの我が儘のせいで、アキは自分の世界に戻ってこれずにいるのである。それに対する申し訳なさと、まだこの世界にいたいという思いとがせめぎ合い、ハルキの中で憤りとなった。
「アキはいいよね!」
そして、堰を切ったように溢れ出す。
「ここは何でも叶う、何でもある、天国のような場所だ。そこにずっといられるんだから、いいよね! 僕とまた世界を取り替えたら、その生活をずっと続けられるんだろう? アキは、本当に羨ましいよ!」
「ね、ねえ、待ってよ」
「僕は今だけなんだ。少しくらい延ばしたっていいじゃないか」
「ねえ、待ってったら」
「僕は、もっとここにいたいんだ!」
ハルキがそう言い切ると、周囲には何とも言えない静けさが訪れた。それを破るように、アキが口を開く。
「君は、約束を破ってしまったね」
「期間を伸ばしてきたことかい? だから、それは悪かったと思っているよ。だけど僕は…」
「そうじゃないよ」
アキの表情に影がかかる。夕陽のせいだろうか。
「君は、今、僕のことをなんて呼んだ?」
そう言われて、ハルキは思い返す。
「アキ…」
そうだ。今、ハルキは思わずそう呼んでしまっていた。
「名前を間違えちゃいけないって言ってたのに」
「大丈夫だよ」
暗い表情のアキに対して、ハルキは実に明るく言った。
「僕さ、少し前に学校のようなところで会った女の子に、間違って自分がハルキだって名乗っちゃったことがあったんだ。だけど、そのあと何も起きなかったもの。名前なんて、関係ないんだよ」
だが、アキの表情は相変わらず暗いままだ。
「もしかして、もう起こってしまっているんじゃないのかい?」
アキはぽそりとそう言ったが、ハルキにはその言葉の意味がわからなかった。
「ねえ、みんなで何かしようよ」
そう提案したのはハルキである。リョウたちは読んでいる本から目を離し、ハルキを見つめた。
「何かってなんだよ?」
リョウが尋ねる。その意見に、タクミとレオもうなずいて同意を示した。
「えっと、何かだよ」
「だから、それが何かって話だよ」
「例えば、サッカーとかかけっことか、鬼ごっことかさ。みんな本ばっかり読んでるんだもの。たまには体動かそうよ」
そこで、リョウは本を閉じる。それに倣うように、タクミとレオも本を閉じて置いた。
「そうだな。やろうか」
「何やる?」
ハルキがわくわくして尋ねると、
「…鬼ごっこ」
一番小さなレオが言った。双子の兄であるタクミも自分の意見はなかなか口に出さないが、レオはそれ以上に内気な性格である。そのレオのリクエストに、ハルキもリョウも快く賛成した。
「それじゃあ、どんな鬼ごっこがいいかな?」
ハルキが尋ねる。
「変わった鬼ごっこにしようぜ」
リョウが言う。
「どんな鬼ごっこ?」
タクミが問いかける。
「…高鬼」
ぽそりとレオが答えた。
「高鬼か」
リョウがつぶやく。
「高鬼ってなに?」
尋ねたのはハルキだ。
「高い所に上ってる間は安全なんだよ。少しでも段差のある所には、鬼は行けないようになってるんだ」
タクミが教えてくれた。
「なるほど。なら、小石の上だったとしても、乗っている限りは鬼がタッチすることができないんだね?」
「うん」
「おもしろそうだね。やってみようよ」
ハルキがそう言うと、周囲一帯が広い公園へと変わった。
「それじゃあ、最初の鬼は誰がやる?」
「俺がやるよ」
リョウが名乗り出る。
「全員すぐに捕まえてやるさ」
その迫力に、タクミとレオは顔を強張らせ、体を縮こまらせてハルキの背中に隠れた。
「大丈夫だよ」
ハルキがタクミとレオの頭を撫でてやる。
「たかが鬼ごっこじゃないか。実際に食べられるわけじゃないんだから」
そう笑いながらリョウを見る。だが、その笑顔も長くは続かなかった。ただの鬼ごっこだと頭ではわかっているものの、このリョウの手にかかっては無事に済む気がしない…そう思えるほどの凄みをまとっていたのだ。
「お手柔らかにね」
ハルキはタクミとレオを背中にかばいながらそう言ってみるが、きっと手加減してくれるつもりは一切ないのだろう。
開始して間もなく、レオが捕まった。その直後、タクミも捕まる。まさに瞬殺であった。そして、ハルキとリョウの一騎打ちとなる。
「もう少し遊ばせてあげてもいいんじゃないかな」
木に登りながら、ハルキが抗議する。リョウは、自分がいる地面をハルキのいる場所と同じ高さになるまで浮上させて言った。
「俺は勝負には手を抜かない主義なんだ」
リョウのがっしりとした腕がハルキに伸びる。ハルキは、リョウの手が届く寸前で木から飛び降りた。その後、近くのジャングルジムによじ登る。リョウは、またも地面を浮上させて、ハルキのいる場所と同じ高さにまでやってきた。だが、ハルキはジャングルジムの中央にいるため、手を伸ばしただけでは届かない。ハルキはほっとひと息ついたものの、それも束の間のことだった。なんと、リョウは空中に地面を形成しながらハルキのもとへと歩いてやってきたのだ。そして、迫力のある笑みを浮かべながら、ハルキの肩にその手を置いた。
「捕まえたぜ」
ハルキは、迫りくる恐怖から逃れたことに対する安堵と負けたことに対する悔しさとに、がっくりと肩を落とす。
「これ、鬼ごっこじゃないよ」
ハルキが口を尖らせて言った。
「鬼ごっこだよ」
「違うよ」
「何が違うんだよ」
「だって、地面を持ち上げて高さを調整するとか、空中に地面を作るとかさ。これは、想像力の勝負じゃないか」
リョウは笑った。
「勝負は勝負だよ。文句を言うな」
こういう横柄なところはやっぱり変わらないんだな、そう思いながら、ハルキはそっとため息を漏らしたのだった。
「ハルキ、そちらの世界はどんな感じだい?」
ハルキが名前を間違って以来、アキも名前を偽ることをしなくなった。
「もちろん、楽しいよ」
ハルキは答える。
「アキはどうなの?」
「楽しいよ」
アキも同じく答えた。
「そうなんだ」
ハルキは、とても意外だとばかりに声を上げる。
「外の世界がそんなに楽しいとは思えないけどな」
「ハルキはまだわかっていないだろうけど、そこは思えば何でも叶う世界だ。それって、本当はすごく退屈なんだよ」
ハルキは笑った。ハルキがいつまで経っても自分と代わってくれないので、悔し紛れにそんなことを言っているのだろうと思ったのだ。
「そんな退屈な世界に、アキは戻ってきたいと思うのかい?」
「ハルキ…」
「君が望むなら、僕はずっと入れ替わったままでいてあげるよ」
「ハルキ、本気じゃないんだろう?」
「僕は本気さ」
「ハルキは、この世界を捨てるのかい? お父さんやお母さんは? あんなに君を愛してくれているのに。永遠に会えなくなっても構わないって言うのかい?」
「お父さんやお母さんには、こっちでだって会えるよ。思えば何だって出てくるし、誰にだって会える。どんなことだって叶うんだから」
「姿は似てるかもしれない。けれど、そこで会える人は別人だよ」
アキは断言する。
「思い出してよ、ハルキ。リョウ君たちはどうだった? ハルキは、そこでリョウ君、タクミ君、レオ君にそっくりな人たちと会ったんだろう?」
ハルキは、2つの世界にいるそれぞれの3人を思い比べてみた。
「リョウ君もタクミ君もレオ君も、僕をいじめたりしないんだよ。みんな優しいんだ。タクミ君もレオ君も、僕のことをお兄ちゃんみたいに思ってくれている。僕も、2人のことは本当の弟みたいに思うんだよ。リョウ君は我が儘なところもあるけど、いつも僕たちのことを考えてくれる。優しいお兄ちゃんみたいなんだ」
「ハルキ…」
「アキの言う通りだよ。別人さ。だけど、それの何が駄目なんだい? みんな、外の世界よりもいいようになったんだよ。いい変化なんだから、それでいいじゃないか」
鏡の向こうで、アキは暗い顔をしている。少し瘦せたような印象だった。
「ハルキ、僕ね、わかったんだ。どうして入れ替わることが禁忌とされているのか」
アキは、金髪を風になびかせながら言う。少し髪が伸びたようだった。
「こっちの世界を知ってしまうとね、そっちの世界には戻りづらくなるんだよ。そこがいかに退屈な世界だったかということが、ここにきてよくわかったんだ」
「へえ。僕はそうは思わないけどね。アキにはその世界が合っていたんだね」
「そしてね、ここで暮らしていた人が僕のいた世界に入り込んだ場合、たぶんすごく楽しいんだと思う。思うだけで何でも手に入るんだから」
「うん、すっごく楽しいよ」
「だけどね、ハルキ、聞いて。それは罠だ」
「罠?」
「ハルキ、近いうちに必ず気づくことになるよ。そこがどれだけ退屈な世界か。そして、ハルキのいた世界がどれだけ素晴らしい世界だったか」
ハルキはアキが真剣になればなるほどに、笑いが込み上げてきた。
「またまた、アキったらそんなこと言って」
そんなことあり得ない、自分がそんなことを思うはずがない…そんなふうに、ハルキはアキの言葉を一蹴した。
「それにさ、いったい僕に誰が罠を張ったって言うんだい?」
「お月さまだよ」
アキが答える。
「きっと、僕らが禁忌を犯したことに気づかれたんだ」
ハルキは声を上げて笑った。
「お月さまだって? 前にさ、この世界の唯一無二の神様だって言ってたけど、それっておとぎ話か何かだろう?」
「ハルキは気づいてなかったかもしれないけれど、何でも思えば叶うその世界でたったひとつだけ思うようにできないものがある。それがお月さまなんだ」
「……?」
「お月さまはいつも僕らの頭上に輝いている。朝も昼も夜も、関係なくね。たとえそれを邪魔だと思っても、誰にもお月さまを消すことはできない。もちろん、頭上から移動させることもできやしないんだ。僕らは、いつもお月さまに見られているんだよ。新月の日をのぞいて、ね」
外の世界にいた頃、ハルキはアキの話を聞くことが楽しみだった。だが今は、それがこの上なく煩わしく思えた。アキの言葉のすべてが、自分をこの世界から追い出そうとしているように思えて仕方がなかったのである。
「ねえ、ハルキ。僕のこと、ちゃんと見えてるかい?」
最後にそう言ったアキの言葉は、この時のハルキには届かなかった。




