第3章 それぞれの世界
ハルキは、真っ白な世界にいた。
まるで霧や靄がかかっているようで、周りの景色がはっきりとしないような、それどころか、気を抜くと自分の体すらも霞んで消えてしまいそうにさえ思える……そんな世界だった。
「なんにもないや」
ハルキはつぶやく。そのつぶやきに返してくれる者も、当然いなかった。ふと、きらきらしたものを見つけて駆け寄る。鏡だ。頭から胸くらいまでが映せる鏡がそこにあった。そして、その向こうには、ハルキとそっくりな少年の姿が映し出されていた。
「アキ」
ハルキが声をかける。すると、その少年は首を振って答えた。
「違うよ、アキは君だ」
少年は続ける。
「そして、僕がハルキだよ」
鏡の向こうの少年、ハルキは真剣な面持ちで言うのだった。
「いいかい、君はこれからアキと名乗るんだ。もう一度世界を入れ替える日まで、ハルキの名を僕に預けるんだよ」
「……わかった」
「絶対だよ。これを破ったら、二度と僕らは戻れない」
「え、それってどういうこと?」
「僕はハルキ、君はアキ。僕はアキ、君はハルキ…そう言ったよね。あれは、それぞれの世界だけでなく、名前や人生そのものを入れ替えるための呪文だよ。そして、それは僕らの世界では禁忌とされている方法だ。君がそちらの世界にいる間に君が別の世界の住人と知られたなら、君はもうこちらに戻ってくることはできなくなる。もちろん僕も、元の世界には戻れなくなる」
「そんな……」
「だから、くれぐれも気をつけておくれよ」
ハルキはこくりとうなずいた。
「それにしてもア……」
アキ、と呼びかけそうになって、ハルキはふるふると首を振った。
「ハルキ……」
「なんだい?」
アキが答える。
「ここは、何もない世界だね」
ハルキがそう言うと、アキは首を傾げて言った。
「そうかな? そこは、何でもある世界だよ」
「一面真っ白なんだ。鏡以外、何も見えない」
「それは、アキがまだその世界に馴染んでいないからさ。そのうちいろいろと見えてくるよ」
「そうなんだ……」
「うん。それに、アキの世界の方が何もないように思えるよ。一面真っ黒で、なんだか寂しい感じがする」
「それは夜だからだよ」
ハルキは何もわかっていないアキがおかしくて、くすりと笑った。
「夜?」
「うん」
「夜……そうなんだ。夜には暗くなる決まりなんだね」
「こっちの夜はそうじゃないの?」
「特に決まってないよ。暗いのが良ければ暗くなるし、明るいのが良ければ明るいままさ」
「へえ。白夜みたいなものも見れるのかな」
ハルキは、父の故郷であるイギリスで体験したことのある夜を思い出した。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰らないといけないね。アキの家族が心配するだろうし」
「そうだね。僕、家を出る時に、部屋で休むねって言ってあるから、そっと部屋に入ってね。部屋は家の二階だよ。あと、ご飯はあとで食べるかもって言ってあるから、お腹が空いたらそれを食べさせてもらってよ」
そこで、ハルキは肝心なことを思い出した。
「あ、ハルキ、僕の家の行き方、わかるかい?」
わかるわけないよね、というふうにアキに尋ねた。しかし、
「わかるよ」
とアキが答える。
「実はね、この体は元々君のものなんだよ。君の体は僕のものだった。僕らは、心だけを取り替えたんだ。だから、アキの家に行く方法は、この体がなんとなく覚えているようだよ」
「へえ、そうなんだ」
「うん。だから、アキもすぐにいろいろと見えてくるはずだよ。僕が見ていたのと同じ世界がね」
「そっか」
ハルキの目の前には、今もなお真っ白な世界だけが広がっている。だが、先ほどよりいくらか霧が薄くなったようであった。
2人の世界が入れ替わってから、アキは頻繁にハルキを訪ねてきた。アキが来ると、ハルキがどこにいても鏡が出現してアキを映し出すのだ。
「アキ、そっちの世界はどうだい? 何か変わったかな」
アキが尋ねる。
「うん。今では靄はすっかり晴れたようだよ」
ハルキが答えた。
「こっちの世界は人が少ないのかな。まだ誰にも会ってないんだ」
「人が少ないわけじゃないよ。そこはね、会いたいって思わないと会えない世界なんだ」
「へえ」
「何もないように見えて何でもある……そういう世界なんだよ」
「おもしろいね」
「ねえ、アキ。まだそこにいる?」
「どういうこと?」
「そろそろ戻る気はないのかなって思ったんだ」
ハルキは驚いて目を見張った。
「どうして? まだ来たばかりじゃないか」
「来たばかりって……もうすぐ次の新月がくるんだよ」
ハルキは、アキが冗談を言っているのだと思った。だが、アキの表情は真剣そのものだ。
「それ、本当?」
「うん。時間ってこういうことだったんだね。僕も、そこにいた時にはわからなかった。そこは、時間の流れがこことはまるで違う」
「そう……もう1ヶ月が経つんだね」
「どうする?」
「ねえ、ハルキ。僕、もう少しここにいたい」
「うん、わかった。それじゃあ、その次の新月までだよ」
「うん。ごめんね」
「別に謝ることないよ」
「だって、ハルキは大変でしょ? リョウ君たちのこと」
毎日ひどいいじめにあって大変な思いをしているのだろうと思って言ったが、アキは何とも思っていないように笑った。
「そんなことはないよ。学校は楽しいよ。リョウ君たちのことも含めてね。それに、家族もいい人たちだ。お母さんの料理はおいしいね。そっちでは体験できなかったことを体験できて、僕もすごく嬉しいんだ」
「なんだ、そうなんだね。なら、あと1ヶ月、よろしくね」
こうして、ハルキとアキのそれぞれの世界を入れ替えた生活は、あと1ヶ月延ばされることとなった。
ハルキは、しだいにアキの世界に馴染んでいった。
つまり、この世界は「想い」の世界なのだ。思えば何でもそこに現れ、思わなければ目の前を通り過ぎたとしても気づくことがない。
ハルキは、この世界の学校というものに興味を持った。
「この世界にも学校があるのかな」
そうつぶやくと、何もなかったはずのその場所に突如として校舎が現れた。3階建ての大きな校舎が2軒隣り合っている。また、広い校庭も出現した。サッカーのゴールやジャングルジム、滑り台、鉄棒などの遊具もそろっている。
「あれ? どこかで見た学校だな」
そう思って記憶を辿ると、2年前に通っていた東京の学校が思い出された。
「そうか。ここは、僕が通っていた学校だ」
ふと、大きな校舎から少し離れた所に現れた、木造で平屋の倉庫のような建物が目につく。
「あれは……」
現在、ハルキが通う集落の学校である。
「僕の想像力が足りないから、見たことある校舎しか出てこないのかな」
ハルキは最初に、向かって左にある大きな校舎へと足を向けた。
「あ……」
3階にある3年1組の教室の前で、三つ編みのツインテールが可愛らしい女の子に会った。
「やあ……久しぶり」
そう言うと、女の子は小首を傾げて見せた。
「僕のこと、忘れちゃった?」
「……」
「僕さ、君にひどいこと言ったなって、ずっと気になってたんだ。いじめられているのは君にも原因があるんじゃないかなんて、君の気持ちも考えずに……ごめんね」
「あなた……誰?」
女の子は本当にわかっていないようで、こちらを伺うように尋ねた。
「え、僕だよ。2年前、同じクラスだったでしょ? ハルキだよ」
「ハルキ……」
女の子は疑いの目を強める。それとほぼ同時に、ハルキは自分がしてはならないことをしでかしてしまったことに気がついた。
「あ、違う。僕はアキだよ」
「アキ……」
「そう、アキ。ごめんね、僕は君のことは知らない。人違いだった」
そう言って去りかけた時、
「ハルキ……アキ……それはなに?」
女の子が問いかけた。
「ハルキじゃない。僕はアキ。名前だよ。君にだってあるだろう?」
「ないわ」
女の子はきっぱりと答える。
「名前なんかないわ。名前を持っている人にあったこともない。なぜ、あなたはそれを持っているの?」
「え、僕は……」
「あなた、もしかして……」
ハルキは恐ろしくなった。気がついた時には、女の子に背を見せて駆け出していた。一気に階段を駆け下りて、校庭に出た所でひと息つく。校舎を振り返ってみるが、女の子が追ってくる様子はなかった。そこで少しばかり安心したハルキは、倉庫のような木造の校舎へと向かう。
「誰かいるかな」
そう思ってのぞくと、リョウ、タクミ、レオの3人が目に入った。ハルキはとっさに隠れる。
「見つからないうちに逃げよう」
ハルキが身を屈めて走り去ろうとした時、
「何してるんだい?」
リョウに声をかけられた。
「リョウ君……」
ハルキが言うと、リョウは訝しんだ表情を見せる。そこで、ハルキは自分の口に手を当てた。
「僕、これから帰るところなんだ」
すると、リョウたちは首を傾げる。
「帰るって、どこへ?」
「え……」
言われてみればその通りだ。わざわざ家に帰らなくとも、思えばそこがどこでも家に変わるのだ。この学校だって、つい先ほど思うことで出現させたのである。
「あ、うんっと……帰るんじゃなくって、ちょっと散歩してみたい気分なんだよ」
「へえ」
「リョ……」
言いかけてハルキは口を噤む。
「えっと、君たちは何をしているの?」
「本を読んでるんだよ」
見ると、3人の手元にはそれぞれ本が置かれていた。
「本?」
ハルキは驚いて声を上げる。ハルキのいた世界では、リョウたちが自主的に本を読んでいる姿など見たことがなかったのだ。
「これを読んでいるのかい?」
ハルキはリョウの手元にある本に目を向ける。タクミとレオは文庫本を持っていたが、リョウは辞書のような厚さの本に目を向けていた。
「うん、結構おもしろいよ」
そう言いながら、リョウはページをめくる。
「君は何か読まないのかい?」
「でも、今は何も持ってないし……」
そう言った瞬間に、校庭がぐぐぐっと広がるのを感じた。そして、イギリスの国立図書館がそこに現れたのである。それは、以前父と赴いた際に、その蔵書の多さに感動を覚えた場所であった。
「借りてくればいいじゃないか」
リョウが言う。ハルキは、突然現れた懐かしいいでたちに心を躍らせながら、まるでスキップでもするかのように図書館の中へと入って行った。
図書館の中はとんでもなく広かった。英語やドイツ語、フランス語などの洋書がずらりとしているが、日本語の本もたくさんあるようだった。というのも、
「この本、読んでみたいけどドイツ語じゃわからないよ」
ハルキがそう思った瞬間に、その本は日本語へと翻訳されるのである。
ハルキは3冊ほど携えて、リョウたちのいる校舎へと戻ってきた。
「おかえり」
リョウ、タクミ、レオが声をそろえて言う。
ハルキが席に着いた時、リョウはちょうど本を読み終えたところだった。タクミとレオは2冊目に突入している。リョウは読み終えたばかりの本をぱらぱらとめくり、何やら物思いに耽っているようだ。
「おもしろかったかい?」
尋ねると、
「うん。戦士が悪い奴らから弱い人たちを救う話なんだけど、その戦士がすっごいかっこいいんだ!」
リョウは目を輝かせて語った。
「俺もこんな戦士になりたいって思った」
「みんなを救っていく戦士に?」
「うん。弱い人たちを守れる、強い戦士に!」
ハルキの世界ではハルキを毎日いじめているリョウの言葉に、ハルキは少しばかり戸惑いを覚えた。この世界でのリョウたちからは、これまでのような恐怖や嫌悪はまったく感じない。それどころか、安らぎすら感じている自分がそこにいた。
「君たち」
突然の声にそちらを見ると先生が立っていた。
「本ばかり読んでないで、たまにはのびのび遊ばなきゃ駄目だよ」
そう言って、先生はにっこりと笑う。その笑顔は、元の世界でもこの世界でも変わりがなかった。ハルキたちは校舎を出て、ハルキは先生とリョウたちに手を振る。
「さよなら、またね」
その言葉を合図とするかのように、校舎も校庭も、そして図書館も、すべてが瞬時に消えてなくなってしまった。
「楽しかったな」
ハルキはぽつりとつぶやいた。
「現実のリョウ君たちもあんな感じだったなら、仲良くやれると思うんだけどな」
あり得ないことを思って、はあっと重いため息を吐いた。その時である。
「アキ」
声が聞こえたかと思うと、その直後に鏡が出現した。
「やあ、ハルキ」
和やかに答えるハルキに対し、アキの声は緊張を孕んでいる。
「アキ、今夜で終わりにするよ」
何を終わりにするのかなど聞かなくてもわかる。だが、
「ねえ、もう少しだけいさせてよ」
ハルキは、この世界のリョウたちともう少し一緒に過ごしたいと思ったのだ。
「駄目だよ、アキ」
「まだここにいたいよ」
「駄目だったら」
「もう1ヶ月だけ。頼むよ、ハルキ」
「アキ」
アキは真剣な表情で言う。
「どれくらい経ったか、君はわかっているのかい?」
「どれくらいって、2ヶ月だろう?」
「半年だよ」
それにはハルキも驚いた。
「何言ってるんだよ、最後に会ってからそんなに経ってないじゃないか」
「それがその世界での時間の流れなんだよ」
「そんな……」
「それにね、僕は会いに行ったよ。でも、君がこちらを向いてくれなかったんじゃないか」
「……」
「それでも、君はまだそこにいたいというのかい?」
ハルキは考えた。時間の流れの違いを実感しつつ、それでもまだ帰りたくないとハルキは思った。だから、弱々しいながらもこくりとうなずいて見せる。
「アキ……本気なのかい?」
「ハルキ、もう少しだけいさせて。僕は、この世界にまだいたいんだ」
「長く入れ替わっているのは良くないんだよ。なぜなのか僕にもよくわからないけど、本にそう書いてあったんだ。たぶん、どちらが本当の自分かわからなくなってしまうからなんじゃないかって思うんだけど」
「それでも、もう少しいたいんだ。僕ね、さっきリョウ君たちに会ったんだ。普通にお話して、普通に遊んで……楽しかった。こっちのリョウ君たちとなら、いい友達になれそうなんだ」
「それなら、こっちの世界のリョウ君たちとだって友達になれるんじゃないかな」
「そんなの無理だよ!」
ハルキはいきりたって言った。
「無理に決まってる。元の世界じゃあ、僕は一生リョウ君たちから逃げられないんだ」
「そんなことあるわけ……」
「お願いだよ、あともう少しだけこのままでいさせて」
アキは、もうこれ以上何も言うことができなかった。そして、「あともう少し」というハルキの願いをやむなく聞き入れたのである。しかし、これこそがこれから始まる悲劇の幕開けだったのかもしれない。




