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湖面の少年  作者: 高山 由宇
ハルキとアキ 〜ひとつのものを手に入れるには大きな代償が必要である〜
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第2章 いれかわり

「最近、うまく逃げるようになったじゃないか」

 休み時間に校舎裏に呼び出されたハルキは、3人からのねちねちとした責め苦にあっていた。

「別に、逃げてなんかいないよ」

「どこがだよ。毎日毎日、先生を呼びやがって」

「わからないところを教わってるだけだよ」

「そうやって逃げてるだけだろう」

「違うよ。なら、リョウ君も一緒に残ればいいじゃないか」

「誰が放課後まで勉強なんかするかよ」

 どんっと、リョウが木造の壁を叩く。ハルキは、嫌な汗が背筋を伝うのを感じた。

「いいか。これ以上逃げたら、ただじゃおかないからな」

 そう言い放つと、リョウは教室へと戻るため踵を返した。にやにやと嫌な笑みを浮かべたタクミとレオが、それに続くように去って行く。残されたハルキは、はあっと重いため息を漏らした。

「なんでこう、僕の人生はつまらないんだろう」

 つぶやきながら思うのは、アキのことだ。もう何十回、アキの住む世界に思いを馳せただろうか。想像すればするほど、アキの住む世界はハルキの中でその輝きを増していった。

「今日もアキに会いたいんだけどなあ」

 ハルキはまたもため息をこぼす。

「もっとアキの世界のことを聞きたかったのに…今日は難しいかな」

 あの様子では、今日はすんなりと見逃してくれそうにない。ハルキは重い足取りで教室に戻った。

 その日の放課後、先生がハルキの席にやってくる。

「今日は理科だね。頑張るね、ハルキ君」

「先生、さよなら」

 先生が来たことを知ると、リョウたち3人はあっさりと教室から出て行った。その姿に違和感を覚えたものの、先生は何も感じていないらしく、

「リョウ君、タクミ君、レオ君、さようなら」

と笑顔で手を振る。

「さあ、始めようか」

 教室の戸が閉められたことを確認すると、先生はハルキに向き直った。

「先生、いつも僕の勉強に付き合ってもらっちゃって、ごめんなさい」

 そう言うと、先生は目をぱちくりさせた後、声を上げて笑った。

「そんなことないよ。それでハルキ君の成績が今よりもっと良くなるんなら、先生も嬉しいわ。そして、リョウ君や他のみんなにも教えられるようになってくれたらいいわね」

「リョウ君は、僕よりも学年が上ですよ」

「そうね。でも、今のところはハルキ君の学力の方が上じゃないかな。リョウ君も、ハルキ君みたいに頑張ってくれれば、理解できる子だとは思うんだけどね」

 そうして、ハルキはいつものように20分ばかり教わると、先生にお礼を言って教室を後にする。

 廊下を歩きながら、ハルキは釈然としないものを感じていた。それは、リョウたちのことである。随分とあっさり帰宅した3人に、ハルキはずっと違和感を抱いていたのだ。

「また、何か企んでいるのかな…」

 そうつぶやきながら校舎を出た時、

「俺らが何を企んでいるって?」

 苛立ったような声とともに伸びてきた腕が、首に巻きついてきた。

「なんとか言えよ」

 そうは言われても、あまりの出来事に思考が追いつかず、ハルキは金魚のようにただ口をぱくぱくとさせることしかできなかった。

「俺らが帰ったと思って油断しただろ?」

 リョウが迫力のある笑みを浮かべて迫ってくる。その背後ではタクミとレオが、にやにやといつものようにいやらしい笑みを浮かべていた。

「これ以上逃げたらただじゃおかないって言ったよな」

 その言葉とともに左頬に衝撃が走った。よろめいた体をなんとか持ち直し、左頬をさする。じくじくとした痛みが広がった。

「それに、お前の方が勉強できるって?」

 先ほどの先生との会話を聞いていたのだろう。

「あれは、先生が…」

「うるさい。このおべっか野郎」

 リョウの大きな手に胸を押され、なかば吹き飛ばされたように校舎の壁に背中を打ちつけた。どしんという音が響く。

「だ、だめだよ、リョウ君」

 そう言ったのはタクミだ。

「先生がまだ教室にいるよ。こっちに来ちゃうよ」

 レオも顔を青くして怯えている。

「くそっ」

 リョウはハルキの胸ぐらをつかんで立ち上がらせると、

「もう逃げるなよ」

という捨て台詞とともに、タクミとレオを従えて足早に帰って行った。

 リョウたちの後ろ姿を見送っていると、

「ハルキ君、どうしたの?」

 先生が様子を見にやってきた。ハルキは、殴られた左頬を見られないように隠しながら、

「ちょっと転んじゃって…」

と苦し紛れに答える。先生は訝しい表情をしていたが、

「気をつけて帰るのよ」

 そう言ったきり、何も聞いてくることはなかった。


「その頬はどうしたんだい?」

 湖をのぞくと真っ先に尋ねられた。

「腫れてる?」

「うん。赤くなってるようだよ。ハルキは色が白いから、目立つね」

 ハルキはくすりと笑った。

「アキだって、色白なんだろう」

 湖の中にいるので本当のところはわからない。だが、顔立ちがよく似ているアキが、白色人種の血が入っている自分と違う色黒だとは考えにくい。

「殴られたんだ」

 ハルキは素直に答えた。

「どうして?」

 アキが驚いて尋ねる。

「ここ最近、放課後の荷物持ちをさぼってるからさ」

「さぼってるって、それはハルキがやらないといけないことなのかい?」

「…リョウ君たちにしたらね」

「それを断ったから殴られたのかい?」

「断るなんてできないよ…」

 ハルキは自分でも驚くほど、情けない声を上げた。

「放課後、毎日先生を呼んだんだ。勉強を教えてもらうためにね。でも、それはただの口実でさ。リョウ君も言ってたけど、僕はリョウ君たちから逃げるために先生を利用したんだ」

 ハルキは、うつむきながら尋ねる。

「アキ…僕は酷い奴だと思うかい?」

 アキは、首を傾げる仕草を見せた。

「ハルキ、それは難しい問題だね。ハルキが悪いような気もするし、そうでないような気もする。僕にもわからないよ」

「そっか…」

「ハルキは、先生から勉強を教わって良かったと思う?」

「え…うん。わからなかったところがわかるようになったもの」

「先生は迷惑そうだったかい?」

「いや、むしろ喜んでくれたね」

 ハルキが笑う。それと同時に、湖面のアキも笑った。

「なら、それでいいんだよ。ハルキは悪くない」

 ハルキは笑顔でうなずいた。

「問題は、やっぱりリョウ君たちだよね」

 アキは、考える仕草を見せる。ハルキも一緒に考えた。どうしたら彼らは自分をいじめなくなるのか…。彼らは自分をどうしたいのか。あるいは、どうして欲しいのか…。

 2人で考えてみたけれども、その日は答えを見いだすことはできなかった。

 翌日、ハルキは3人の視線を感じながら一日中過ごした。特にリョウの視線が痛い。今日こそは逃がさない…そう語っているようだった。

 —今日は無理かな…。

 視線に耐えきれず諦めかけたハルキだが、

 —いや、やっぱり行かないと。

 そう思い直す。

 昨日、アキはハルキに言ったのだ。ハルキの現状を改善する方法が何かないか調べてみる、と。アキとコンタクトをとるにはハルキが出向く以外にはない。だから、

 —今日もアキに会いに行こう…。

 ハルキはそう決心した。穏やかな学校生活を、1日でも早く取り戻したかったのだ。

 そして放課後となり、ハルキはいつものように先生から勉強を教えてもらっていた。

「あ、こうすれば解けるんですね」

「そうそう。この基本さえわかっていれば、こっちの問題もすぐに解けるよ」

「あ、そっか。先生、今日はここまでで大丈夫です。あとは自分でやります」

「そう? それじゃあ、またわからないことがあったら聞いてね。さようなら」

 いつもなら、ここでハルキが先に教室を出ていく。だが、今日は座ったまま動こうとしない。教科書を読み続けているハルキに、

「帰らないの?」

と先生が尋ねた。ハルキは、

「あとひとつだけ。この問題を自力で解いてみたいんです。そしたら帰ります」

と答えて、教科書に目を戻す。

「そう。それじゃあ、頑張ってね」

 先生はそう言って教室を出て行きかけたが、ふと立ち止まって振り返る。

「ハルキ君、勉強もいいけど遊ぶことも大切だよ。君はまだ小学生なんだから」

 ハルキが目をぱちくりさせていると、

「明日は学校もお休みだし、しっかり遊ぶんだよ」

 そう言って、先生はにっこりと笑った。

「…はい」

 ハルキが答えると、

「なら、よし」

と言い、先生は教室を後にする。

 先生が出て行くと、ハルキはそれを見計らったように教科書を閉じた。教科書と筆記具を乱雑にランドセルに突っ込むと、それを背負い、教室の窓に向かう。幸いにもこの校舎は1階建てだ。窓のすぐ向こうには校庭が広がっている。ここからならば、廊下を通らなくとも校舎を出ることができるのだ。

 ハルキは、窓の鍵を開けると教室から外に出た。そして、校庭へと降り立つ。

 —リョウ君たち、今日もきっと待ち伏せしてるんだろうな…。

 彼らに会わずに帰るには、このルート以外には思い浮かばなかった。

 —急がないと、リョウ君たち来ちゃうかも…。

 そう思うだけで、背筋を冷たい汗が伝う。ハルキは、校庭を全速力で走り抜けていった。


「やあ、ハルキ。そんなに顔を赤くして、どうしたんだい?」

 湖をのぞくなりアキが言うので、ハルキはとっさに左頬に手を当てた。もう腫れはだいぶ引いているようだった。その様子を見て、アキはくすくすと笑う。

「違うよ。両方のほっぺが赤いようだよ。汗ばんでいるみたいだし」

 そういうことかと、ハルキもアキにつられて笑った。

「走ってきたからね」

「へえ?」

「また逃げてきたんだよ」

「そっか」

 アキは少しばかり何かを考え、声を落としてひとつの提案を打ち出した。

「僕たち、入れ替わってみようか」

 ハルキは、きょとんとしてアキを見つめる。また何の冗談だろうと思ったが、アキの表情は真剣そのものだった。

「僕ね、調べたんだ」

 アキが言う。

「新月の夜、僕らはそれぞれの世界を取り替えることができるんだ」

「うそ…」

 思わず漏らしたハルキの言葉に、

「嘘なんかじゃないよ」

とアキが心外そうに叫ぶ。

「あ、違う、そうじゃないんだ」

 ハルキはすぐさま訂正を加えた。

「アキの言うことを疑ったわけじゃないんだ。新月の夜って今日なんだよ」

「今日…?」

「そうだよ。こんな偶然があるなんて、ほんと信じられない」

 ハルキは興奮して地面を数度叩いた。それに呼応するように湖面が微かに波立つ。その奥で、アキはどこか憂いを帯びた表情をしていた。

「それじゃあ、やるのかい?」

 アキが尋ねる。

「やる」

 ハルキは即答した。

「僕、アキの世界を見てみたいんだ。まあ、アキにとったら災難かもしれないけどね」

「どうしてだい?」

 アキが尋ねる。

「だって、僕の代わりにいじめられるんじゃないか」

「いじめられるってそんなに大変なのかな」

「いじめられたことのない人にはわからないよ。僕も、前はそうだったし」

「そうなんだね。でも、ハルキ。気にしないでいいよ。ハルキが僕と入れ替わって欲しいと願うなら、僕はそうするよ。ハルキは僕に名前をくれたから、そのお礼だよ」

「アキ、ありがとう」

 ハルキは心からお礼を言った。

「ねえ、アキ。その方法って、新月には毎回入れ替われるってことでいいのかな?」

「そうみたいだね」

「なんだ、それならまたすぐに戻ってこれるんだね。僕は1ヶ月だけでも現実から逃げられるなら、それでいいや」

 旅行に行く前日のようにハルキははしゃいでいた。そんなハルキを前に、アキは緊張した面持ちで告げる。

「いいかい、ハルキ。これからやることはね、僕らの世界では禁忌とされている呪法なんだ」

「禁忌?」

「うん。お月さまはね、僕らの世界では唯一無二の神様なんだ。その神様が隠れた時、神様の目を盗んで僕らは入れ替わろうとしている。もしも失敗したら、何が起こるか僕にもわからない。だからね、慎重にやらないといけないんだ」

 ひとりではしゃいでいたのを咎められたような気がして、ハルキはおもむろに居住まいを正した。

「とりあえずさ、ハルキは一度帰ったらいいんじゃない?」

 アキが提案する。

「しばらく家族に会えなくなるんだよ。入れ替われるのは陽が落ちてからだし、今のうちにお別れしてきなよ」

「え、別にいいよ」

 ハルキは答えた。

「どうせ1ヶ月くらいなんだし、アキが僕のふりしていてくれるんでしょ?」

 そう言ってから、はたと思い直す。

「でも、暗くなってから帰ったらアキが叱られちゃうね。わかった。僕は一旦家に帰るよ」

 ハルキはそう言うと、アキに手を振り、西陽が射し込む湖畔を後にした。


「ただいま」

「おかえり」

 ハルキが声をかけると、母は台所にいて背中を見せたまま答えた。夕飯の支度をしているらしい。

「今夜はなに?」

「肉じゃがとクリームシチュー」

 どちらもハルキの好物である。

「お母さん、僕、今日はいらないや」

 そこで、母はハルキに向き直った。

「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

 ハルキは首を振る。

「違うよ。でも、今日はちょっと疲れちゃって。今から少し寝るね。起きたら食べるかもしれないから、僕の分とっててよ」

 そして、階段を上り自室へと向かう。その時、玄関の戸が開いて父が帰ってきた。

「おかえりなさい」

「ただいま。ハルキ、今日はいつもより帰りが早いんじゃないか」

「うん。まあね」

 簡単に挨拶を済ませると、ハルキは自室へと籠った。

 ほどなくして、ハルキは部屋を出る。そっと階段を下りると、玄関の戸に手をかけた。決して音をたてないように、ゆっくりと引く。そして、外に出ると、また静かに戸を閉めた。あとは一目散にアキのいる湖まで走って行く。アキの世界に大きな夢を抱きながら。


「アキ」

 息を切らせながら、闇が濃くなった湖畔に響くばかりの声でハルキは呼んだ。そして、畔に膝をつくと、湖をのぞき込む。明かりのない湖に、ぼうっと黒い影が揺らめいた。

「ハルキ、おかえり」

 影が言う。先ほどまで晴れていたのに、今では空一面が雲に覆われているようで、星明かりさえ見えない。たまに雲の切れ間から、ひとつふたつの星がのぞくくらいである。

「もう新月は昇ったかな」

 ハルキが尋ねると、

「違うよ。沈んだんだよ」

 アキが笑って答えた。

「新月は太陽と一緒に動くから、今はもう別の場所にいるよ」

 そっか、とハルキも笑う。

「それじゃあ、始めようよ。まずはどうすればいいんだい?」

「方法は簡単だよ。まずは、僕を真正面から見て」

「こうかい?」

「もっと近づいて」

「こう?」

「もっと」

「これ以上は落ちちゃうよ」

 ハルキは半身を湖に投げ出したような体制で、それを膝と細い腕だけが支えている状態だった。

「湖面が、僕とハルキのちょうど境界線になるように、もっと顔を近づけるんだ」

 ハルキは、アキに言われるがままに動いた。鼻先が濡れるかどうかのところで止まる。

「アキ、これ苦しいよ…」

 ハルキは、腕が吊りそうになりながらもなんとか踏ん張っている。

「僕はハルキ、君はアキ」

 アキが唐突に言う。

「ハルキも言うんだ。僕はアキ、君はハルキって」

 ハルキはアキに従った。

「僕はアキ、君はハルキ」

「僕はハルキ、君はアキ」

 それぞれが数度唱えた時、真っ暗な湖面から2本の腕が伸びてきた。そして、ハルキの頬にそっと手が添えられる。それから間もなく、湖面から現れた少年が言う。

「交換だよ」

 その瞬間、ハルキは強い力で湖に引き込まれるのを感じた。そして、音もなく湖の中へと消えていく。

 あとには、ただ凪いだ湖面と、ハルキに似た少年だけが残されていた…。

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