序章 いじめられっこの少年
ハルキは悩んでいた。
11年の人生の中で、間違いなく最も大きな悩みの渦中に彼はいた。
慣れ親しんだ田舎町の土手を、どてどてと重々しい足取りで歩く。一歩進んでは立ち止まり、また一歩進んでは立ち止まる。その繰り返しだ。そのうち、ハルキは右手につかんでいた青いランドセルをその場に落とした。そして、額に浮かんだ汗をぬぐう。どうせ右手を空けたのだからと、左手に持っていた薄い緑色のランドセルもどさりとその場に置いた。背中に薄紫色のランドセルを背負い、前には水色のランドセルを抱えたまま、ハルキは夕闇が押し迫る空を眺めた。
「もう疲れたよ……」
泣き言を言ってみたが、それに返してくれる者もなく、ただ虚しい時が流れた。
ハルキは、人口がわずか100人足らずという小さな集落に住んでいた。その内、中学生までの子供が14人、60歳以上の高齢者は全体の半数にまで上った。小・中学生はひとつの教室に集い、皆、集落唯一の教師について学んでいた。高校に進学する者は、集落を出て都会に移り住むことになる。そして、高校卒業後、大学に進学する者もいれば、都会に働き口を見出だす者もいた。なんにせよ、一度出ていった若者たちは、学業を終了してもこの集落に戻ってくることはほとんどなかった。
その一方で、田舎暮らしに憧れて、都会からやって来る者も稀にいた。ハルキの両親がそうだ。ハルキは、それまで東京の小学校に通っていたのだが、2年前に転校してきたのだった。
「帰りたい」
誰にともなくつぶやく。
「東京に帰りたいよ……」
そう思い出したら、もう止めることはできなかった。視界が曇る。そして、ついに滴となって頬を伝った。伝った滴は、次から次へと流れ落ち、渇いた地へと吸い込まれて消えていく。
ハルキは、何気なく土手の下を流れる川に目を向けた。また、その向こうに広がる竹林を見つめる。川のあちら側に、ハルキはまだ行ったことがなかった。
土手をまっすぐ、あと20分も歩けば家に辿り着けるだろう。だが、その前に3人のクラスメイトの家にも寄らなければならないから、家に着くのは完全に陽が沈んでからになる。そして、きっと母親に叱られるのだ。「こんな時間までどこで何をしていたのか」と……。
そこまで考えて、どうせ叱られるのならばと、ハルキはその場に4つのランドセルを投げ捨てた。そして、慎重に土手を下りる。ハルキは、ずっと気になっていたのだ。この川の向こうに何があるのか、それを見たいとずっと思っていた。ただ、大人たちが危険だから行ってはいけないと言うので、叱られるのが怖くて我慢していたのだ。でも、今日はいろいろあって、少し投げやりな気分になっていたのかもしれない。ハルキは、迷うことなく川に近づいた。
「どうやって渡ろう」
ハルキはきょろきょろと辺りを見渡す。流れは穏やかだが、このまま入るわけには行かない。渡れそうなところを探して歩いていると、浅瀬を見つけた。そこには大きめの石がいくつか顔をのぞかせており、それを伝って向こう岸に渡れるようになっていた。
「みんな、まるいや」
石は、みな川の流れで角がとれ、丸い形をしていた。それでいて、水垢によるものなのか、どれもてかってつるつるとしていた。
「これ、渡れるかな」
ハルキは少し怖くなった。大人たちが危険だと言った意味もわかった。でも、ここまで来て諦めたくもなかった。
「慎重に行けば、大丈夫さ」
ハルキは自分に言い聞かせるように、明るく言う。そして、言った通り、慎重に足を進めた。川の幅はそれほどなく、3つの石を使えば渡れると思われた。まず1つ。つるつるするので、念のために近くの小石に左足を置いて踏ん張った。スニーカーの布地を通して水が染み込んでくる。次に、左足はそのままに、右足を次の大きな石にかけた。この石は最初のものよりも滑らなかった。そして、3つ目。この石は、他のどの石よりも滑りやすかった。2つ目の石で油断していたハルキは、右足をかけた瞬間に見事に滑った。左足が水に完全に沈むのも気にせず、左足だけで全体重を支えると、なんとか体を岸に向けた。そして、そのまま左腕から倒れ込む。痛みにしばらく蹲っていたが、それでも全身が濡れるのだけはなんとか避けられたことに、ハルキはほっと息を吐いた。
痛めた腕をさすりながら立ち上がる。そして、かぽかぽと音のする左足を乾かすように大きく振り上げながら、大股で林の中へと入って行った。
「わあ……」
どれくらい歩いただろう。竹林を抜け、突然に開けた場所へ出たかと思うと、そこには、木々に囲まれた小さな湖があった。
靴が濡れていることなんかすっかりどうでもよくなってしまった。ハルキは湖の畔に膝を着いてのぞき込む。波ひとつたたず、穏やかだ。それでいて、淀みがなく、鏡のように透き通っていた。底が見えない。だいぶ深いのだろうか。見えるのは、月の光に照らされて金色に輝く髪だけだ。逆光のため、湖に映し出されたのっぺらぼうの自分の顔…そこに、ふと焦りの色が浮かんだ。
「どうしよう……」
夢中で気づかなかったが、陽はとっくに沈んでいたらしい。月が煌々と辺りを照らしている。
とにかく、帰らなくては……。そう思い、来た方へと足を向けた。
「もう行ってしまうのかい?」
ふと、声が聞こえた。
ハルキは驚いて辺りを見回す。……誰もいない。
ぞくぞくと背筋が寒くなるのを感じた。足が震える。
「き、気のせいだ……」
ハルキは自分に言い聞かせた。そして、震える足を叱咤し、引きずるように一歩一歩と進む。そこへ、
「ねえ、君」
またも声が上がった。
「だ、誰なの?」
ハルキは震える声で返す。声の正体を確認してしまった方が安心できると思ったのだ。
「僕だよ」
声が言う。
「こっちにおいでよ。のぞいてごらん」
その声は、湖の方から聞こえているように思えた。ハルキは、恐る恐る湖の畔に戻る。そして、先ほどと同じように、湖をのぞき込んだ。そこには、先ほどと同じで、金色の髪を持った少年…自分の姿以外は何もなかった。
「何もないじゃないか」
つぶやきながら見続けていると、先ほどとは違った点があることに気づいた。のっぺらぼうだったはずの顔に、目、鼻、口が出来上がっていた。青い目が微笑みかけてくる。
「やあ、初めまして」
口が動いて、そう言葉を紡いだ。
「はじめ……まして」
ハルキは、それまでの恐怖はどこへ行ったのか…今は、自分とそっくりな風貌の少年に、純粋に興味を持っていた。
「僕はハルキ。君は?」
ハルキは自分から湖面の少年へと語りかけた。
「さあ?」
少年は、湖の中で首を傾げるしぐさで答える。
「名前がないの?」
「うん」
「どうして? みんなには何て呼ばれているんだい?」
「僕を呼ぶ人なんかいないよ」
湖面の少年がそう言うので、ハルキはこの少年がとてもかわいそうに思えてきた。
「アキ」
湖面の少年がきょとんとした表情を見せる。
「僕はね、春夏秋冬のハルに樹木のキって書いて春樹って言うんだ。だから、僕にそっくりな君は、アキっていうのはどうかな? 僕が君のことをそう呼ぶよ」
ハルキが言うと、湖面の少年は笑った。
「いいね。それじゃ、今日から僕はアキだ」
ハルキもつられて笑う。
「うん。よろしくね、アキ」
こうして、ハルキとアキは出会った。
だが、この出会いこそが、彼らと、彼らの孫子の人生をも大きく揺るがすことになろうとは、幼い彼らにはまだ知るよしもないことであった――。




