表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/55

第6話 近習としての身だしなみと礼儀作法と、そしてなぜか歴史の学習

その年、公望(きんもち)は、わずか11歳にして、近習として仕えることになった。まずは最初のあいさつをしっかりするように、と言われた。

「このたび、近習として仕えることになった、西園寺公望にございます。」

「西園寺公望とやら。とはいっても、この御所の者たちは、ほとんど顔見知りのようなものか…。

それでは、そなたがこれより仕えるのは、こちらにおわす、睦仁(むつひと)親王じゃ。あいさついたせい。」

「ははーっ。それでは睦仁(むつひと)親王様。

あらためまして、西園寺公望にございます。」

こうして西園寺公望が、初めて近習として仕えることになったお方こそ、のちの明治天皇こと、睦仁(むつひと)親王であった。


明治天皇(めいじてんのう)

(1852年~1912年)


名は睦仁(むつひと)、幼名は祐宮(さちのみや)という。

最近になって新説が次々登場している歴史の世界。

この明治天皇に関しては、替え玉にすり替えられたなどという説もあるが、この際、この説の真偽はどうでもよくて、西園寺公望が明治天皇に近習として仕えることになったのは、11歳の時だったという。

西園寺公望が11歳だったので、この祐宮(さちのみや)こと、睦仁(むつひと)親王は、当時まだ8歳だった。だから実際には、主君の親王と近習の関係というより、ちょうどいい遊び相手のような関係性だったようだ。


近習(きんじゅう)となったからには、まずは身だしなみや、礼儀作法、それから、食事の作法など、徹底的に教え込まれるのが常だ。

なにしろ、堅苦しい公家の世界だから。


「あー!堅苦しい!堅苦しい!」


ぼやいていた公望(きんもち)

そんな中、歴史の授業では、特に熱心に教え込まれたという記憶がある。

公望(きんもち)。今日は、我が国の歴史について、教えることとする。

ちなみに今年は、西洋の暦、西暦でいうと1860年、

すなわち、初代の(みかど)である、神武天皇(じんむてんのう)(みかど)となられてから、今年は紀元2520年となられる。」

「初代の(みかど)神武天皇(じんむてんのう)とは…?」

「この日の本の国を一番最初に創られたお方だ。

それ以来、天皇家は代々、現在に至るまで続いておるのだ。

そして、現在の孝明天皇(こうめいてんのう)は、初代の神武天皇(じんむてんのう)から数えて、第121代目の天皇にあらせられるお方だ。

睦仁(むつひと)親王は、その第121代目の孝明天皇(こうめいてんのう)の後を継ぎ、第122代目の天皇となられるお方であらせられるゆえ、その近習(きんじゅう)としての役割を、しっかりと果たさねばならぬのだよ、公望(きんもち)。」

それは言われなくとも、わかっていることなのだが…。

神武天皇の時代から始まる歴史絵巻を学習する機会に恵まれていたため、歴史に関する知識は、人一倍、身についたようだ。

一方、現在の歴史の方はというと、まさに今、激しく情勢が動いていた時代。大老、井伊直弼亡き後の情勢が気がかりな時期となっていた。

「保元の乱、平治の乱で平家が政権をとり、その平家から今度は源頼朝ら源氏が政権を奪還して、鎌倉幕府を開き、それ以来、鎌倉、室町、江戸と、約700年余りにわたって、武家(ぶけ)の政権が続いてきた。

しかし、その武家(ぶけ)の政権の時代も、まもなく終わりを迎える。侍の時代はおしまいだ。

今の徳川幕府は、井伊直弼(いいなおすけ)亡き後、もはや優れた人材がいない。

今の徳川幕府は、とにかくもう、自分たちの体制維持のことしか、考えていない。

だから、今こそ我ら朝廷が、その幕府にとってかわる、チャンスが来ておると、思っておる。」

「朝廷が幕府にとってかわるチャンス…。」




また、西園寺公望は、この頃から、剣術や体術、さらには拳銃の腕前も、磨いていたとか。

もしかして、これも公家の世界の英才教育の一環か…。いやいや、これはこれからの明治以降の時代を見据えた訓練だったと思われる。


そして、余談ではあるが、この1860年という年は、

柔道の創設者、加納治五郎(かのう・じごろう)が生まれた年でもある。

西園寺公望もやはり、国技としての柔道の必要性を、見抜いていたようだ。もっとも、西園寺自身は、自分が柔道をやるのは、まるでダメだったようで、自ら特訓を志願して、ようやくものにした、ということだが…。

(この話はこの物語の中のフィクションとして書きました。実際にはどうだったのか、調べようもないので、正確にはわかりません。)


こうして近習(きんじゅう)として仕えるようになり、やがて、西暦1860年も暮れていき、明けて翌年の1861年を迎えることになる。この年にも、歴史的にも重要な出来事が起こるのであった…。


それは、「公武合体(こうぶがったい)」と称して、皇女和宮(こうじょかずのみや)を、徳川幕府14代将軍の家茂(いえもち)のもとへと嫁がせる、というものだった…。

この「公武合体(こうぶがったい)」以降の展開については、また次話以降にて、お伝えいたします…。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ