第6話 近習としての身だしなみと礼儀作法と、そしてなぜか歴史の学習
その年、公望は、わずか11歳にして、近習として仕えることになった。まずは最初のあいさつをしっかりするように、と言われた。
「このたび、近習として仕えることになった、西園寺公望にございます。」
「西園寺公望とやら。とはいっても、この御所の者たちは、ほとんど顔見知りのようなものか…。
それでは、そなたがこれより仕えるのは、こちらにおわす、睦仁親王じゃ。あいさついたせい。」
「ははーっ。それでは睦仁親王様。
あらためまして、西園寺公望にございます。」
こうして西園寺公望が、初めて近習として仕えることになったお方こそ、のちの明治天皇こと、睦仁親王であった。
明治天皇
(1852年~1912年)
名は睦仁、幼名は祐宮という。
最近になって新説が次々登場している歴史の世界。
この明治天皇に関しては、替え玉にすり替えられたなどという説もあるが、この際、この説の真偽はどうでもよくて、西園寺公望が明治天皇に近習として仕えることになったのは、11歳の時だったという。
西園寺公望が11歳だったので、この祐宮こと、睦仁親王は、当時まだ8歳だった。だから実際には、主君の親王と近習の関係というより、ちょうどいい遊び相手のような関係性だったようだ。
近習となったからには、まずは身だしなみや、礼儀作法、それから、食事の作法など、徹底的に教え込まれるのが常だ。
なにしろ、堅苦しい公家の世界だから。
「あー!堅苦しい!堅苦しい!」
ぼやいていた公望。
そんな中、歴史の授業では、特に熱心に教え込まれたという記憶がある。
「公望。今日は、我が国の歴史について、教えることとする。
ちなみに今年は、西洋の暦、西暦でいうと1860年、
すなわち、初代の帝である、神武天皇が帝となられてから、今年は紀元2520年となられる。」
「初代の帝、神武天皇とは…?」
「この日の本の国を一番最初に創られたお方だ。
それ以来、天皇家は代々、現在に至るまで続いておるのだ。
そして、現在の孝明天皇は、初代の神武天皇から数えて、第121代目の天皇にあらせられるお方だ。
睦仁親王は、その第121代目の孝明天皇の後を継ぎ、第122代目の天皇となられるお方であらせられるゆえ、その近習としての役割を、しっかりと果たさねばならぬのだよ、公望。」
それは言われなくとも、わかっていることなのだが…。
神武天皇の時代から始まる歴史絵巻を学習する機会に恵まれていたため、歴史に関する知識は、人一倍、身についたようだ。
一方、現在の歴史の方はというと、まさに今、激しく情勢が動いていた時代。大老、井伊直弼亡き後の情勢が気がかりな時期となっていた。
「保元の乱、平治の乱で平家が政権をとり、その平家から今度は源頼朝ら源氏が政権を奪還して、鎌倉幕府を開き、それ以来、鎌倉、室町、江戸と、約700年余りにわたって、武家の政権が続いてきた。
しかし、その武家の政権の時代も、まもなく終わりを迎える。侍の時代はおしまいだ。
今の徳川幕府は、井伊直弼亡き後、もはや優れた人材がいない。
今の徳川幕府は、とにかくもう、自分たちの体制維持のことしか、考えていない。
だから、今こそ我ら朝廷が、その幕府にとってかわる、チャンスが来ておると、思っておる。」
「朝廷が幕府にとってかわるチャンス…。」
また、西園寺公望は、この頃から、剣術や体術、さらには拳銃の腕前も、磨いていたとか。
もしかして、これも公家の世界の英才教育の一環か…。いやいや、これはこれからの明治以降の時代を見据えた訓練だったと思われる。
そして、余談ではあるが、この1860年という年は、
柔道の創設者、加納治五郎が生まれた年でもある。
西園寺公望もやはり、国技としての柔道の必要性を、見抜いていたようだ。もっとも、西園寺自身は、自分が柔道をやるのは、まるでダメだったようで、自ら特訓を志願して、ようやくものにした、ということだが…。
(この話はこの物語の中のフィクションとして書きました。実際にはどうだったのか、調べようもないので、正確にはわかりません。)
こうして近習として仕えるようになり、やがて、西暦1860年も暮れていき、明けて翌年の1861年を迎えることになる。この年にも、歴史的にも重要な出来事が起こるのであった…。
それは、「公武合体」と称して、皇女和宮を、徳川幕府14代将軍の家茂のもとへと嫁がせる、というものだった…。
この「公武合体」以降の展開については、また次話以降にて、お伝えいたします…。