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第5話 水戸斉昭の思惑と死

ここで書かれている、桜田門外の変に関する説話に関しましては、これはあくまでも個人的な見解であり、実際には「諸説あり」ということになっておりますので、あらかじめご了承ください。


ここは蟄居(ちっきょ)中の水戸斉昭公(みとなりあきこう)の屋敷。

大老、井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門外の変で討ち取られたという報告は、ただちにこの人物の元へと届けられた。

なお、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)と、水戸斉昭公は、直接の交流はなかったが、公望(きんもち)はこの人物に対しても、興味を持つようになり、自分なりに人物像を調べてみよう、ということにした。


徳川斉昭(とくがわ・なりあき)

(1800年~1860年)


水戸藩の第9代藩主として改革にのぞんだが、改革に反対する者も藩内には多く、なかなか改革はうまくいかなかったという。

そんな中、幕府の政策に対してもたびたび進言を行い、やはり今回のように、蟄居(ちっきょ)に追いやられたこともあった。

13代将軍家定(いえさだ)の後の14代将軍を決める際には、大老、井伊直弼らと対立し、自らの息子で、当時は一橋家に養子に出していた、慶喜(よしのぶ)を14代将軍に推していたが、結局は井伊直弼らが推した家茂(いえもち)が14代将軍となり、やがて斉昭は安政の大獄で、蟄居(ちっきょ)に追いやられてしまう。

その、安政の大獄を推し進めていた、井伊直弼が、桜田門外の変で討ち取られたと聞いて、一瞬驚きの表情を見せた斉昭であった。

「申し上げます。井伊大老が、桜田門外において襲撃され、討ち取られたとのことにございます。」

「なんと…!井伊大老めが…!

して、井伊大老を討ち取ったのは、いかなる者たちなのじゃ?」

「それが…。水戸藩士が十数名ほど、他に、長州藩士が一名、とのことです。」

「水戸藩士が十数名で、長州藩士が一名…!

して、その長州藩士一名の素性は?

水戸藩士たちはわしの知る者たちと察しはついておるが…。」


果たして、この真相はいったい…。


水戸藩の差し金なら、水戸斉昭公の関与が疑われるところ。実際に水戸斉昭公が水戸藩士たちに命じてやらせたという説が有力視されるが、当の斉昭公はこれを断固として否定した。そればかりか、これは配下の水戸藩士たちの独断によるもので、主君の恨みを晴らすためと称して、実に馬鹿げたことをしたものだ、と断罪したともいうが、結局のところ、真相は墓場まで持っていってしまったという。

一方で、長州藩士の仕業という説もあり、おそらくは吉田松蔭を慕っていたとされるが、

この長州藩士は実は腕利きのガンマンで、たった一発の拳銃の弾で、井伊大老の心臓を撃ちぬいたという話だ。

実際、検死の際に、無数の刀傷(かたなきず)とともに、井伊大老の心臓のあたりに一発の弾痕(だんこん)が見つかったという。だから、ここで仮説を立てるとすれば、

水戸藩士たちは、当初の襲撃計画の通りに井伊大老の行列を襲撃したが、その時すでに、井伊大老は長州藩士の放った一発の銃弾により、心臓を撃ちぬかれて死んでいたということになる。

そうなると、この後の水戸藩士たちの行動は、おのずとこうなる。

「井伊大老…!」

「ばかな…!何者の仕業なのだ!心の蔵を撃ちぬかれて、既に息絶えておるとは…!」

「と、とにかく…!」

「目撃者はいない!井伊大老を討ち取ったのは、我ら水戸藩士だ!」


ズガッ!ザシッ!バシュッ!


水戸藩士たちは当初の襲撃計画の通りに、井伊大老を討ち取ったことを、自分たちの手柄にするために、既に息絶えていた井伊大老の死体に、刀傷をつけていった。そして、立ち去っていった。


なお、その後、その水戸藩士たちは、下手人(げしゅにん)として捕らえられ、切腹の沙汰(さた)が下り、自刃(じじん)したという。




一方で、一連の事の真相を聞いた斉昭は、

「このわしはもう、長くはない。ただ、わしの死んだ後のこの国の行く末、そして、我が子慶喜(よしのぶ)のことが気がかりだ…。」

水戸藩の9代藩主になったのは、30歳の時。

11代将軍家斉から「斉」の字をもらい、「斉昭」と名乗ることになってから、常に藩政の改革にひた走っていたという。

時には幕政(ばくせい)にも異議を唱え、その度に蟄居(ちっきょ)になることもたびたびあったため、蟄居(ちっきょ)になることは、実は慣れっこだったともいう。


「なるほどな、これが、水戸斉昭公の人物像か…。」


1860年の旧暦の8月15日、水戸斉昭公は61歳で逝去した。


なお、この時西園寺公望はというと、当時まだ11歳で、ようやく近習(きんじゅう)として仕えるようになったばかりの頃である。

近習(きんじゅう)の役割は、生やさしいものではないぞ、わかっておるな。」

「わかっております。」

この時の近習(きんじゅう)としての経験が、後々、政治手腕を振るっていくうえで、役にたったと、後世になってから公望は語っている。



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