第4話 イギリスでゴルフの全英オープンが始まったその年、日本は幕末で桜田門外の変が起こった年でした
1860年10月17日、第1回全英オープンが開催された。
ゴルフの国際大会として、現在[2016年時点]まで続いている大会としては最古の歴史を誇る大会である。
失礼ながら、こう思ったという人物がいた。
「刀で斬り合う時代、軍事力にものを言わせる時代は、まもなく終わる!
これからは、スポーツや、エンタメの世界で活躍するような人物たちが、歴史的にも評価されるような時代だ!」
実際に、欧米列強の国では、封建社会なんかとっくの昔に崩壊し、アメリカ合衆国、フランス共和国、スイス共和国の3ヶ国に至っては、国王ではなく、大統領が国家元首となっていたのだから。
そんなさなか、日本では、大老井伊直弼が幕府の実権を掌握し、やがては方針に逆らう者たちを、容赦なく粛清するというようなことを、やっていたのだった。
そして井伊直弼は、こともあろうに、あの不平等条約として悪名高い、
日米修好通商条約なる条約を、京の都の朝廷の許可を取らずに、勝手に結んでしまったのだった。
これには京の都の、孝明天皇や、公家衆は怒り心頭。
「井伊大老は勝手すぎる!朝廷の許可もなく、勝手に幕府の独断で、あのような条約を締結するとは…!」
そして、話は変わるが、この時代の情勢について、ある人物が、こんなことを言っていた。
「正直な話、旧幕府側も、官軍側も、結局は自分たちの都合のいいことしか、言わなかったんですよ。
双方とも相手側が一方的に悪かったかのように決めつけて。本当は、どっちがいいも悪いもないんですよ。」
そう言った人物は、とある家中にて、祐筆という、その時その時の出来事を、主にかわって執筆するのが役割という、そんな人物だった。
しかし、この祐筆は、この発言をしてからまもなく、自ら切腹し、命を絶ったという。
こんな争い事に明け暮れていた、日本において、京の都もまた、この争い事とは無縁ではいられなくなってきていた。
「あの井伊大老にこれ以上任せておけば、今後また何をしでかすか、わかったものではない。」
「いっそ、我らで井伊大老のお命を頂戴しましょうか…。」
「しかしそれはあまりにも…。」
「だが、このままでは…。」
公家衆の間には、このような考えを持つ者たちもいた一方、井伊大老の考えに賛同するような意見の者たちも、一部にはいたという。そして両者の意見は真っ向から対立していた。
そして、世にいう、安政の大獄が始まった。
徳川斉昭や一橋慶喜、松平慶永といった藩主クラスは、蟄居、謹慎の処分を受け、
また、斉昭や慶永らの考えに賛同したような藩士たちは、その多くが捕らえられ、拷問を受け、
そして、長州藩の吉田松蔭や、福井藩の橋本左内らは、捕らえられ、拷問を受け、そして処刑されたという。
なお、吉田松蔭はよく知っているが、橋本佐内の方はあまり知らない、というのが、一般的な見解かと思われるが、いずれも安政の大獄で処刑された人物として知れわたっている。
そして、1860年。井伊直弼は桜田門外の変で殺害されてしまうが、その襲撃した者たちというのは、
吉田松蔭が処刑された長州藩か、あるいは橋本佐内が処刑された福井藩かとも言われ、あるいは安政の大獄で処刑された者たちの仇討ちとも言われたが、
実際には、徳川斉昭が蟄居に追いやられた水戸藩の藩士たちの仕業だったという。
そのことは、江戸城中にも伝えられる。
「何…!?井伊大老が暗殺されたと…!?
な…、なんということだ…。幕閣の最高職、大老があっさりと殺されるなど…。
あってはならぬことが起きてしまった…。
これでは…。これでは幕府の権威は保てなくなる…。」
そして、京の都にも、この事実は伝えられる。
この人物のもとにも当然伝えられた。そう、岩倉具視である。
「そうか…。井伊大老が、暗殺されたか…。
これで徳川の世も、先が見えたな…。ふはは…!」
岩倉具視は笑いを見せる。徳川幕府にとっての不都合は、岩倉具視らにとっての好都合であるとでも、言わんばかりに…。
そして、一方の公望は、この年、わずか11歳にして、近習に取り立てられたのであった。
「それがしが、近習に…!」
「さよう、近習として、仕えてくれとの、お達しだ。」