第3話 江戸表の情報は逐一(ちくいち)京の都にも伝わっているのでおじゃる
西暦1858年、年号では安政5年というこの年。
公望は9歳になっていた。この時はまだ、右も左もわからない、文字通りの小僧だった。
実際に近習として仕えることになるのは11歳になってからのことだったが、この時はまだ、近習として仕えるよりも前の話。
ただ、岩倉具視とは、やはり同じ公家同士、親しくしていたようだった。
その岩倉具視と、仲のいい公家たちとの会話。
その中には、三条実美などもいた。
「公望や、そなたは今年でいくつになった?」
「9歳にございます。」
「ふむ…。そなたはとりわけ、頭脳と知略に優れておるようじゃな。
武家と比べて、我ら公家は、刀などの武器の腕前、体術、体力においては、到底、日頃から武門を尊ぶ(たっとぶ)武家にはかなうまい。
しかしのう、我ら公家には、頭脳と、知略という、武器がある。」
岩倉具視はそう言う。続いて、三条実美が、重ねて公望に言い聞かせた。
「さようさよう。実は、かの本能寺の変の黒幕とされる、近衛前久公も、大変優れた頭脳と、知略にて、戦国の世を生き抜いてきたと、我ら公家衆の間では、語り草となっておる。」
「近衛前久様にございますか!?かの有名な、近衛前久様にございますか!?
この公望も、近衛前久様のような、立派な御仁になりとうございます!」
実際、公望は、昭和の最後の元老として、いやその前の明治、大正の時代から、長く政界に君臨するような、立派な御仁になるのだが、それはまだまだ、ずっと先のこと。
岩倉具視や三条実美は、その先の先までは、とても見届けることはできず、先立ってしまうのだから。
岩倉具視
(1825年~1883年)
三条実美
(1837年~1891年)
近衛前久
(1536年~1612年)
なお、近衛前久は、本能寺の変の黒幕ではないかとされたが、実際には諸説ありとのこと。
慶長17年、西暦で1612年まで生きたという。戦国の世といわれた当時としては、大変長生きな人物だったようだ。
しかし一方、こちらの人物は、35歳という若さで、その生涯を終えてしまうが、その後の展開には大きな影響をもたらすことになる。
それが、江戸表の、13代将軍、家定の、突然の訃報だった。
そしてそれは公望のいる、西園寺家にも伝えられた。
「13代将軍、家定様が、亡くなられた!」
「えっ!?」
「さよう、家定様が、35歳という若さにて、亡くなられた!
それでな、その家定様にはお子がなく、次期将軍を誰にするかということで、幕府の中ではもめているそうじゃ。」
「さようにござりまするか…。」
その頃、江戸城中では、次期将軍に、家茂を推す一派と、一橋慶喜を推す一派とが、対立を深めていた。
「家茂様こそ、次期将軍にふさわしい!」
「いーや!一橋慶喜様こそ、次期将軍にふさわしい!」
次期将軍争いではこれまでにも、たびたび繰り返されてきた光景であった。しかし、公家衆にとっては、もはやどっちでもいいから、さっさと決めてくれ、といった感じだった。
家茂を推す一派は、大老に彦根藩主の井伊直弼を推挙し、一橋派を退けようとしていた。
なお、一橋慶喜とは、後の15代将軍、徳川慶喜のこと。
一方の一橋派は、水戸藩の徳川斉昭や、福井藩主の松平慶永らが中心となっていたが、結局は家茂を推す一派が勝利した。
これにより家茂が、14代将軍となったが、この頃には、いやその前から、将軍とは名ばかりの飾りもので、政治の実権は、歴代の側用人や、老中や、大老らにあり、この人たちが実際には政治を取り仕切っていたという状況は、長らく続いていたことだった。
「それでは、14代将軍は、家茂様で、よろしいですな。」
家茂を推す一派が幅をきかせるようになり、政治の実権は、実質大老の井伊直弼の手中におさまった形となった。
そしてもちろん、この事実も京の都に伝えられることになった。もちろん、この人たち、岩倉具視や、三条実美らのもとにも、伝えられることになった。
「そうか。やはりな。彦根藩の井伊直弼が、大老になったか。
さあ果たして、これからどんなことになっていくか、見ものだな…。」
岩倉具視は不気味な笑みを浮かべていた。これから起こる様々な出来事を、まるで予見していたかのように…。
ペリーの黒船来航から始まったとされる幕末の動乱だが、この出来事もまた、その新たな局面を迎える一大転機になったのではないかと推察されるところ…。