船の中で西洋の食事
ここから先の話は、全く史実通りではなく、むしろ作者のオリジナルの創作です。
あらかじめご了承の上で、お読みください。
なお、西園寺公望が岩倉使節団の留学生の一人として海を渡ったというのは、今作のオリジナルの設定とさせていただきます。
ここからは船の中での生活になる。
横浜の港を出港したら、はるか先のアメリカ東海岸に到着するまで、延々と太平洋の海が続くことになる。
飛行機があれば海外でも楽々飛んでいけるのだが、当時はまだそんな飛行機などあるわけがない。
そんな中、公望はおそらくは人生で初めてともいえる、海外への船旅に入った。
「この海を渡れば、アメリカという国か…。」
陸地がどんどん遠ざかり、やがて見えなくなる。
いよいよ日本を離れ、太平洋の荒波へと、船はこぎ出す。
長い船旅となると、心配することがいくつもあった。まずは船酔い。
酔い止めの薬は、船に乗るときはいつの時代でも、どこの世界でも欠かせない。
次に、食事だ。ずっと海の上なので、外部からの食材の調達もままならない。限られた数量の食材で、人数分の、日数分の食事を確保していかなければならない。
食料や、燃料が尽きるようなことがないように、常に気を配らなければならないようだ。
他にも、途中で嵐に巻き込まれて船が沈んでしまわないかとか、燃料の確保、着替えなどの衣服や寝床などはどうするか、
あとは、トイレなどもどうするかとか、まあそういうことは事前に決めておいてから、船旅にのぞむのだろう。
しかしそれでも、万が一という時の、不測の事態の発生も、ないとはいえない。そうした不測の事態の発生への対応もしっかりしていかないと。
昔の船旅なんて、まさに命がけの旅だったと思った。
そんなことを考えているうちに、ある者が声をかけてきた。
「おーい!公望といったな。それなら、この津田梅子っていう子の、遊び相手にでもなってやってくれないか?
長い船旅だからな。退屈しのぎも必要だ。もちろん、遊び道具とかもいろいろ持ってきてあるぞ。」
年齢は公望よりも2~3歳上の、その留学生が話しかけてきた。勝手にその津田梅子という8歳の少女の遊び相手に指名されてしまった公望だった。
「まあ、公望なら、この中でも年齢が近いし、遊び相手にはちょうどいいだろうな。はっはっは!」
船内は完全に海の上の密室のようなもの。途中で娯楽施設に立ち寄るようなこともできない。ずっと船の中で過ごす。
「西園寺公望さんっていうんだ。一緒に遊ぼうね。何して遊ぼうか?」
何して遊ぼうかって、そこはやはり8歳の子供だな。
公望は思いつく限り、遊び道具などを持ってきては、遊んであげた。
その遊んでいる最中にも、波が高くなり、そのたびに船が大きく揺れる。
「うわっ!」
「きゃっ!大丈夫ですか…?」
「ああ、大丈夫。この辺は波が高いな。だけどすぐにおさまるよ。」
それにしても、のちに大学の創設者となる2人が、こんな船の中で、こんな話をしていていいのか?と思った。
相手は8歳の少女とはいっても、そのたしなみはもう、立派なレディだ。
やがてあっという間に夕暮れ時に。この時間帯になると波も穏やかになり、きれいな夕日が拝めるようになる。
「夕食のお時間です。」
ここで夕食の時間だが、これがまた、船の中での食事だし、なにより西洋の食事のマナーというのがある。
「公望よ、これも1つの勉強だと思って食すがよい。」
この日の夕食は、ビーフステーキと、添え物の野菜と、スープと、ライス。
それまで多くの日本人は、ビーフステーキをナイフとフォークで切り分けて食べるようなことがなかった。
ナイフとフォークを使うような食事の作法など、それまで知る由もなかった。
いや、そもそも西洋風の食事を、今まで食べたことがない。
明治に入ると、仏教の肉食禁止の戒律から解放され、その結果肉食も解禁され、
ビーフステーキのような肉料理も、日本で食べられるようになり、やがてすぐに普及していったという。
そういっている自分はどうか。公望はビーフステーキを切り分け、フォークに刺して、ひと切れずつ食べる。
ついでにいえば、ライスもフォークですくって食べるという。ライスは箸で食べるものとばかり思っていたのだが。
「ごちそうさまー!」
そしてようやく洋上での最初の夕食を終えた。




