岩倉使節団の船に乗せてもらいフランスへ!その船の中で津田梅子と出会う!
ここから先の話は、全く史実通りではなく、むしろ作者のオリジナルの創作です。
あらかじめご了承の上で、お読みください。
なお、西園寺公望が岩倉使節団の留学生の一人として海を渡ったというのは、今作のオリジナルの設定とさせていただきます。
西暦1871年、明治4年11月、公望は岩倉使節団に同行し、その足でフランス留学へと向かうということを決意した。
使節団は岩倉具視を正使とし、当時の政府首脳陣や留学生など、107名が参加することになった。
公望はその岩倉使節団の留学生の1人として乗り込んだ。
「私めは留学生の1人として、同行させていただきます。
ところで、留学生たちの中で一番年下なのは、おそらく、私めかもしれない…。」
「いやいや、公望よ、実は最年少はそなたではない、こちらの少女のようだ。」
その政府の幹部は、そう言って、その少女を呼び寄せた。
そこに現れたのは、なんと見た感じ小学生くらいの、幼い少女だった。
「津田梅子、8歳です。」
その少女は津田梅子と名乗った。なんとまだ8歳の少女が、留学生として乗っていたことに、さすがの公望も、ただただ驚いていた。
「お父さんやお母さんと離ればなれになるけど、寂しくないの?」
政府の幹部はそう聞いた。
「平気です!これから海外で、いろんなことを勉強して、将来のこの国のために役立てたいです!」
この津田梅子こそ、のちの津田塾大学を創設することになる人物。
これは負けていられないな、と公望は思った。
しかし、それにしても、わずか8歳にして、そんなことを考えているとは、この子の頭の中はどんな構造をしているんだ?
そして、この子の親は、いったいどういう教育をしてきたんだ?と、さすがの公望も、そう思わずにはいられなかった。
そう思いながら、公望は自分をここまで育ててくれた両親、
父の徳大寺公純と、母の末弘斐子のことを思っていた。
当時、海外に行くまでには、船で何ヵ月もかかっていた。
海外に留学ともなると、おいそれとは会いに行けない。それこそ死に目にも会えないかもしれない。
それでもなお、海外に留学することを決断した、その時の公望ら留学生たちの心中は、いかばかりか。
それにしても、津田梅子との出会いは、まさに衝撃的。
これが、立命館大学の創設者と、津田塾大学の創設者との、初めての出会い、初顔合わせだった。
「よろしくお願いします!公望さん!」
「こちらこそよろしく。長い船旅になると思うけど。」
「船が出るぞー!」
いよいよ長い船旅が始まる。
そしてこれが、公望たちのその後の長い人生の、船出でもあった。
船は帆船ではなく、蒸気船。横浜の港を離れた蒸気船は、いよいよ太平洋の大海原へと乗り出した。




