四民平等と廃藩置県
まずは、『五箇条の御誓文』なるものが制定されたが、これが人々には大いに不評だった。
「なんだこりゃ?これじゃあ、江戸時代と少しも変わらないぞ。」
「結局、誰が政権をとったとしても変わらねえか。」
明治政府の治世になり、いろんな政策を急ピッチで進めていかなければならなかった。
が、しかし、多くの一般庶民にとっては、とにかく打ち続いた幕末の動乱から、早く立て直してほしい、というのが本音だったという。
こうしたなか、『四民平等』といって、江戸時代の身分制度『士農工商』の中の、
『士』にあたる、武士以外の、『農』『工』『商』、さらには『えた』『ひにん』などと呼ばれた身分の低い者たちも含めて、全ての人々が名字を名乗れるという、
この『四民平等』という政策が執り行われた。
「なんだって、それなら農民や町人、商人なんかも名字を名乗れるということなのか。」
公望の感想はこの通りだった。
それで、『鈴木』『佐藤』『高橋』『田中』といったところが、日本人の名字の中で一番多くなることになったのも、実はこの頃に、みんなでこぞってこれらの名字を名乗るようになったからかと思った。
《これは諸説あり》
日本人の名字は10万を越えるとも推察されるが、その多くはこの『四民平等』の時に、いろんな名字を名乗るようになったからだという。
江戸時代以前は、武士や公家などの身分の者たちしか名字を名乗ることは許されていなかった。
ただし、一部例外もあったようだ。
また、朝廷や、主君の大名などから新たに名字を授かることも、古来よりあったという。
とはいえ、それまで名字を名乗るなと言われていて、政治体制が変わったからといって、いきなり名字を名乗れといわれても、どんな名字を名乗ったらいいのか、困惑するような人々もいた。
安易なところでは、『酒井』『水野』『榊原』など、幕府の老中を代々務めたような家の名字を名乗る者たちもいた。
が、中には、こんな名字を名乗ったら役人が驚くだろうなという理由で、珍名を名乗る者たちもいたという。
こうして全国に、珍名の名字が生まれたともいわれる。
あと、『四民平等』にはなったものの、大名や公家は、『華族』ということになった。
西園寺公望は公家の身分なので、その『華族』の一人ということになった。
そもそも西園寺家は、平安、鎌倉の昔から代々続く、公家の名門。
鎌倉時代には、西園寺実氏という人物がいた。そんな昔から、代々続く由緒正しき名字を引き継いだのが、公望だった。
一方で、武家の方はというと、こちらはこちらで、事情があったようだ。
それで、将軍家や大名は『華族』なのだが、その将軍家や大名の家来である、旗本や藩士などは、『士族』ということになった。
旧幕臣も、薩長土肥の倒幕側も関係なく、下級武士は皆、『士族』という扱い。やがて『廃刀令』などにより全ての特権を失い、やがてそれが不平士族の乱につながっていく。
続いて、廃藩置県について。
『藩籍奉還』といって、幕府が無くなったので、諸大名たちもまた、藩主としての地位を返上しなければならなくなった。
しかし、藩主を返上しても、その人たちがまた、『知藩事』という役職に就くことになったので、これでは名称が変わっただけ、座る椅子が変わっただけだ、という批判が出た。
そこから、藩を無くし、現在の『都道府県』を置くことになったという。
ただし、東京は最初は、『東京都』ではなくて、『東京府』だったという。
江戸時代には約300ともいわれる藩があったが、それらが徐々に集約されていき、やがて現在の47都道府県になるまでには、まだもう少し時間がかかりそうだ。
「四民平等に廃藩置県、他にも明治になって、いろいろ変わっていくことがあるぞ。」
そんなさなかだった。公望は突然、新潟県に赴くように言われた。
とはいってもほんの短期間のことだった。ほどなくして、公望は再び、東京に呼び戻されることになる。
公望はこの頃、フランスへの留学を希望していたが、なぜか新潟県に出向することになったのだった。
そして次回は、その時の話から始まる。




