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第2話 幼き日より幕末の動乱期にあった公望…!

いったい、あの幕末の動乱とは、何だったのか。

そして、あの幕末の動乱期から始まった、その後の150年間の、近現代の日本の歩みとは、何だったのか…。


あの時代は、何だったのか…。


あの時代は、何だったのか…。




1853年、嘉永6年、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて、浦賀沖に来航した時、公望は4歳だった。

これが世に言う、黒船来航だった。「たった4隻(4杯)で夜も眠れず」などと唄われた。

幕末の動乱の、全ての始まりは、そこからだった。

翌年の1854年、ペリーは今度は7隻の軍艦を率い、幕府に対し開国を強硬に迫った。幕府はその要求に屈して、日米和親条約を締結することを、決めてしまったのだった。


そしてその報告は、すぐさま、京の都の朝廷にも届いた。


その頃、京の都では、孝明天皇が、天皇の座に即位していた。

孝明天皇は明治天皇の父にあたる。大正天皇の祖父、昭和天皇から見れば、曾祖父(そうそふ)にあたる。


そして、御所にて、緊急の会議が行われ、主だった公家たちが参加し、議論をかわした。

この時公望(きんもち)はまだ5歳。この一件がどれほどの大事件かということなど、まだ理解できないまま、日々を過ごしていた。

そこで公家たちが言っていたこと。

「我ら公家は、鎌倉時代以来、約700年もの長きにわたり、この狭い御所の中に、押し込められてきた。」

「そう、今や江戸幕府は弱体化。こたびの一件に関しても、その無能無策(むのうむさく)ぶりを露呈(ろてい)した。」


御所では、このような議論が、連日のように続くことになる。そして、この混乱に乗じ、密かに幕府から朝廷に政権を奪還する機会を、常にうかがっていたのだった。

そして、その急先鋒となっていたのが、岩倉具視(いわくら・ともみ)だった。

「いつか、我ら朝廷の手に、再び政権を取り戻し、我らの思いのままの(まつりごと)を、執り行いましょうぞ。ふっふっふ…。」


さて、一方で、西園寺家はというと、実はこの御前会議には参加してはいなかったという。


西園寺家は公家の家柄。京の都の、代々西園寺家の邸宅となっている、広い庭付きの屋敷にて、公望(きんもち)は、何不自由なく、育っていたのだった。

ただ、養父となった西園寺師季(さいおんじ・もろすえ)は若くして死去していたため、

実際には、実父の徳大寺公純(とくだいじ・きんいと)がその後を引き継ぎ、養父となり、名字は西園寺のまま、公望(きんもち)を育てたという。


このような、実に複雑怪奇な事情があったということを公望(きんもち)が知らされたのは、実際には大人になってからのことだったという。


しかしながら、当の公望(きんもち)は、そんな事情など露知らず(つゆしらず)、庭で蹴鞠(けまり)やら羽根突き(はねつき)やらをして遊ぶのが、何よりの楽しみで、また、食事の時間も、何よりの楽しみだったという。

公望(きんもち)がスキルをつけていくのは、まだまだこれから…。



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