公望と篤姫と和宮のあぶない交遊録
ここから先の話は、全く史実通りではなく、むしろ作者のオリジナルの創作です。
あらかじめご了承の上で、お読みください。
江戸にやってきた。いや、東京になったばかりの東京?にやってきた公望。
公望はさっそく会いにいきたい人がいた。それは篤姫と和宮だった。
まだまだ、ちょんまげ姿の人たちもいる。江戸の名残がある。
しかし、もうまもなく、旗本屋敷も、大名の江戸藩邸も取り壊され、あとには西洋風の役所の建物が建ち並ぶようになるという。
そこに、西洋風の馬車が走ってきた。
日本では西洋風の馬車は、明治に入ってからようやく走るようになり、その後わずか20年から30年程度で、馬が引かなくても走る自動車などにとってかわられてしまうということになる。
その頃までにはもう既に、アジア諸国、アフリカ、中南米なども、欧米列強の植民地になりつつあり、それゆえその欧米列強の文化の影響を受けて、その頃までには西洋風の馬車なども、走っていたのではないかと推察する。
だから、日本という国は、考えようによっては、西洋風の馬車が走り始めたのが世界的に見ても、最も遅い国、なおかつ、西洋風の馬車が公道を走った期間が、これも世界的に見ても最も短い方の国であるといえるかもしれないと、あえて断言する。
さらに、人力車がもう走っていた。人力車は日本独自のものだという。
日本は昔から、外国文化の影響を受けながらも、それを独自に改良して、独自の文化を形成してきた歴史がある国といえよう。
その人力車に乗って、やってきたのが、篤姫だった。さらにはもう一台の人力車に乗って、和宮もやってきた。
「篤姫様!和宮様!公望です!会いにきました!」
幕府が無くなってしまったので、大奥も無くなり、篤姫も和宮も、今は江戸改め東京の市中で、気ままに暮らしているという。
「公望も、元気そうね。」
「お会いできて光栄にございます。ではさっそく、江戸改め東京の町中を散策といきましょうか。」
そしてそこには、勝海舟も同行していた。
まずは、呉服屋と、髪飾りの店に立ち寄るという。
やはり、着物と、髪飾りは必ず買っておくもののようだ。
「着物と髪飾りもよろしいですが、これから先は、西洋の文化が入ってきますから、
西洋風の食事や、食事の作法とか、西洋風の衣服とか、取り入れていかなければなりませぬな。」
「公望には何か目標でもあるのか?」
篤姫が聞く。
「ぜひ、聞いてみたいものです。」
和宮も聞いてみたいと言う。
「私めも、今や明治政府の一員ですから。
この明治政府の中で生き延びて、上を目指して、そして、ゆくゆくは自らがその頂点に立って、国を動かす。
そのようなことを考えております。」
公望は答えた。その後の公望の政治家としての力量、手腕は、この若き日の経験が原点といえるだろう。




