「明治立志編」開幕!
再び会津戦争が終わった直後の鶴ヶ城。
新政府軍と会津藩との、数ヶ月にも及んだ壮絶な戦いの後、鶴ヶ城はついに新政府軍に明け渡されることになった。
西園寺公望はこの戦いに参謀として参戦していたが、勝手に最前線におもむき、実際に銃を手に取って、会津軍と交戦した。
鶴ヶ城が明け渡された後も、しばらくその場を動かず、まるで誰かを待っている様子だった。
会津藩の兵たちが続々と投降してくる。
その中に、女でありながら、部隊長として部隊を率い、自らも銃を撃って、新政府軍と交戦した人物がいた。
その人物が姿を現す。実は公望は、この人物に、一目会いたかったのだ。
その名は、山本八重子。
「そなたは…。」
山本八重子が西園寺公望に気がつく。
「それがしは、西園寺公望と申す。そなたは?」
「山本八重子…。山本八重子と申します。」
この山本八重子は、女でありながら、鶴ヶ城攻防戦では自ら部隊を率いて戦い、実際に銃撃戦も行った。
山本八重子は後に会津から京都に赴き、そこで知り合った、
後に同志社大学の創設者となる、新島襄と結婚して、
新島八重と名乗ることになる。
対して、西園寺公望は、同じく京都にて、立命塾という私塾を始める。これが後の立命館大学の前身となる私塾となる。
こうした縁もあったので、西園寺公望、いや正確には西園寺公望に転生して帰依した、
しがない不良の、高柳京介は、是非この山本八重子こと新島八重と西園寺公望を出会わせたい、と思った次第。
それがようやくこの場にて実現した格好となった。
「山本八重子殿、そなたはこれより、どちらに参られるおつもりか?」
まず公望が質問する。
「私めは、これより京の都に参り、京の都にて女子教育の普及と発展に力をそそぎたいと考えております。
この国の女子は長らく、武家社会、男社会のしきたりに縛られ、学問を学ぶこともままならなかったのです。
そんな女子たちに学問を学ぶ機会を授けることが、私のこれからの役目、引いては、それがこれからの時代の日本の発展のためと考えております。」
八重子が答える。続いて公望が答える。
「それがしも志は同じ。
これからこの国は明治の世となり、近代化に邁進していくことでしょう。
これからの近代化の時代にふさわしい教育を行っていくことが、それがしもまた、急務と考えております。」
公望はそう言った。八重子は最後にこう返した。
「では、またどこかで、お会いいたしましょう。」
八重子はこう言い、公望はそれに対し返答する。
「こちらこそ、またどこかで、お会いすることもあるかもしれませんなあ。」
しかしながら、この時期はまだ、旧幕府側の会津藩と、薩長軍との戦いが終わったばかりで、
敗れた会津藩の人々の心の中では、薩摩や長州、そしてそれらの後ろ楯になっていた、朝廷や一部の公家たちに対しても、
自分たちの住む土地に侵略してきた悪い敵だという感情は、根強かっただろう。
こうして明治の世は幕を開けた。
『明るく治まる』と書いて『明治』と呼んだのだが、
『治まるめい【明】』という声もあったようだった。
『明治立志編』ここに開幕…!




